十七.燃え落ちた夜のはてに


「わたしは――覚悟していたよ。嵩汪すおう


 艶然えんぜんと微笑み、彼女は腕を伸ばして嵩汪すおうの頬に触れる。ほっそりとした指先が、愛撫するように彼の黒髪をかき混ぜた。


「馬鹿言うな、覚悟ッて何だ。覆せばイイだろうが、愁依うれい、オマエは炎の神獣なのだから」


 怒っているような泣き出す寸前のような、痛々しい表情で呻く嵩汪すおうの頭を、愁依うれいのてのひらがぺしんと叩く。


「貴方こそ、馬鹿言うんじゃないわ。わたしが炎で滅ぼしたら、わたしがこの地で成したすべてが灰燼かいじんに帰すのだよ? 有形のモノはまた築くことができるとしても、時間や命、人の心どれも、無為むいに踏みにじって良いものではない」


「……意味が解らない」


「解らなくていいよ。まっすぐな貴方には駆け引きなど不似合いだからね。覚悟と言うと重いが、わたしはこの結末に納得済みだわ」


 はっきりと明言された意志の固さが、嵩汪すおうに絶望を突きつける。崩れるように膝をついた彼を、愁依うれいは両腕を回し、抱きしめた。


「貴方を連れて逝けないことが、心残りだよ。わたしは神をかたってはいても、神では無いから、いつか迎えに来ると約束はできないが、……どうか、生きのびて」



 あの日、緋尖ひせんの国が滅ぼされた日。

 スオウは最愛の伴侶を失い、幼い命を託された。


 朱雀と運命をともにしたカナイの両親の願いを受けて、心が壊れてしまわないよう記憶を封じ、兄妹と偽りながら生きのびる。

 そう決意したはずなのに、自分の心は今もあの日から抜け出せずにいる。




 緋尖ひせんを滅ぼしたイスカークという国家は既にない。

 戦役からいくらも経たない時期から原因不明の流行り病が蔓延まんえんしはじめ、それに内乱が輪をかけ、自力では国力を回復できないほど疲弊したイスカークに手を差し伸べたのは、南方の大国・踏泉とうせんだった。

 踏泉の国はイスカークを保護領という形で領有し、資金と人材を派遣するという方法で建て直しを支援している。

 度重なる政情不安に無気力だった国民も、最近は徐々に答え応じる傾向になってはいるらしい。


 だが、一度どん底まで落ち込んだ国家体制を再び独立国として立ちゆけるよう引き上げるのは、ひどく難しいことだ。

 援助している踏泉の建前がどうであれ、イスカークが過去の威信を取り戻すことはまずないだろう。

 イスカークは神の宿る国を滅ぼし、神の使いを討った者を英雄と讃えた。

 その国が辿った末路を耳にした者たちが、イスカークは神獣の呪いで滅びたのだと噂したとしても、無理はなかろうとスオウは思っている。




 ウヴァスという名の若い傭兵が指摘した通り、神獣といえど不死不滅ではない。

 傷つけられれば痛みを感じるし、強い生命力を上回るほど身体を損傷すれば死ぬことだってありえる。

 人に勝る回復力はあれど、生身の存在なのは人と変わらない。


 多量に血液を失った身体は思うように動いてくれず、大きな魔法を操るのは当分控えた方が良さそうだった。樹上に座って木の幹に背中を預け、空を見あげてスオウは深くため息を吐き出す。

 丁寧に洗い落としたはずの血の臭いがまだ、髪や手に染みついている気がして気分が悪かった。

 目を閉じれば、耳に残る絶叫と光を失った硝子玉のような両眼を思い出す。それから、手の内であっけなく砕けた、骨の音をも。



 緋尖が遺した呪いがあるとすればそれは、蒼竜じぶんという存在だろう。

 人に害なす神獣バケモノなど滅すべきと、反神の者らに的にされるのは構わない。それに見合うだけのことはしてきたし、今さら人の中に受け入れられることなど望めないとわかっている。

 だからスオウは、呪いの噂を否定しない。


 最愛で唯一の片割れを失ってから、自分を哀れむ涙はもう流し尽くした。生きよと朱雀が望んだ命を自ら断つことなどできるはずもなく、けれど、永遠にも近い時を独りきりで過ごすのは苦痛でしかない。

 だから人がそう望むなら、殺されてやっても良かったのだ。

 自分ひとりであればそれで、良かったのに。


 死に損ねたのは託されたからだ。

 緋尖が滅びた日、すくいあげた幼い命。寂しがりで泣き虫で、それなのに意地っ張りで我慢強くて。

 心も身体も自分と違い、ひどく繊細で弱くて壊れやすくて。



 国と住民というおおきな存在の守護者であったスオウは、ひとりの子供に対しどう向き合ったら良いのかわからなかった。

 与えるべきもの、教えるべきもの、何もかもが手探りで、それでも容赦なく時間は過ぎてゆき――、幼子おさなごは、寿命を持たない自分からすればあっという間に大きくなって、少女になった。



 ひとは愛しい存在だと、スオウは知っている。

 そしてあっけなく命を失い、永久に会えなくなる存在だということも。


 だけれど、解っていたはずの事実を突きつけられた時、スオウが感じたのは恐怖だった。

 闇に紛れて神殺しの者たちが隠れ里を襲撃し、たくさんの仲間たちを殺したあの夜――、襤褸布ぼろぬののようなカナイを見て、全身の血が凍った。


 彼らはこうして、また奪うのか、と。

 悲しみよりどす黒く、憎しみにしては冷えたその感情を、なんと呼べばいいのかスオウは知らない。

 それから後はただ凄惨の一言に尽きる。




 灰と煤と、泥と血にまみれ、敵も味方もない交ぜに横たわるしかばねを踏み越え、生き抜いてやると誓った。どんなことがあっても何をしてでも、絶対にカナイを守り抜く、と。

 種族が違うというだけの理由でああも無残に人を殺せる者たちのために命をくれてやる義理はないし、彼らの生を奪うことに同情を覚える理由もない。

 人のために祈りを歌い森を守ってきた蒼竜は――もうどこにもいないのだ。


 けれど、カナイを自分のえらんだ凄惨な道にともなう気にはなれなかった。

 実の妹と錯覚しそうなほどに、心を砕いて守り続けてきた幼い魂。ただ幸せに、なって欲しかった。巻き込みたくなかった。


 そのために何が最善かなど。


 どんなに考えたって、解るはずがないのに。



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