十八.どんな言葉を尽くせば


 ふ、と気づいて、太陽の位置がだいぶ傾いていると知る。後ろ頭を幹に押しつけたまま、スオウはゆっくり目を開けた。

 どうやら少し寝入ってしまったらしい。


 そろそろ行かなければ。


 カナイの傷は深かったが、ユーキの手当てが早く丁寧だったので何も心配はなかった。意識のない間に来て去るのは寂しい気もしたが、カナイが気づかないならそれでいい。

 風が声を届けてくれたらと思いつつ、もう一度だけ目を閉じて耳を澄ませる。

 その淡い期待は予想外な仕方で裏切られ、スオウは慌てて姿勢を正し、幹に手をついて眼下を見おろした。


 近づいてくる足音がふたつ。歩幅の狭い危うげな音と、定間隔でしっかりした音。考えるまでもなく、カナイとユーキだ。

 よりによって絶対安静で寝てるべきはずの妹がこちらに向かっている理由は一つしか思いつかず、スオウは思わず樹上から飛び降りた。


 叫べば届くほどの距離に二人の姿が見える。カナイが一瞬息を飲み、駆けだそうとして思いきり転んだ。ユーキが焦ったように助け起こすのが見える。

 怒る気も呆れる気も失せて、スオウは覚悟を決めた。


「カナイ、寝てなきゃダメだろ」


 吐きだした息に言葉を乗せ、二人の場所まで足を速めて近づくと、カナイの前にしゃがみ込む。

 ついでに恨みを込めてユーキを睨めば、負けじときっちり睨み返された。


 ユーキが言いたいことはわかっている。

 どうすればいいかは解らなくても、解ってることだってたくさんある。


「だって、……兄ちゃん行ッちゃうと思ったンだもん」


 濡れた黒い瞳に拗ねた声。寂しい気持ちを隠そうとして、怒ったような言い方をする癖は変わらない。

 今も、そしてきっと、これからも。


「オマエが気づいてないと思って、起きない内に行こうと思ったンだろ。ッたく、ばらしたのはユーキか白夜びゃくやかどっちだ?」


 軽い調子で言い返した言葉に、カナイの表情が一瞬固まる。見あげた両眼が大きく見開かれていた。


「白夜、ッて?」


 あぁしまった、と心中呟きながら、スオウはにぃとごまかし笑いを浮かべた。


「シロだよ、ケツァルコアトルの」

「……そぅなんだ。シロがシロでイイっていうから、あたし」


 視線を泳がせ言い澱む少女の頭を、スオウはてのひらでくしゃくしゃ掻き回す。


「本人がイイってンなら、いいんだろ」


 まるで犬か猫につける名前だと、スオウは心中で苦笑した。

 自分だったら、アオとかクロとか呼ばれれば間違いなく腹を立てるだろう。そういうところは記憶を失ってても変わらないんだな、と思って可笑しくなる。

 そんな心の声が聞こえたわけでもなかろうに、カナイは不審げに眉を寄せてスオウを見あげた。


「兄ちゃん、シロと知り合いだったの?」


 あぁ、そうだよ。――と言う答えは飲み込んで、スオウは首を振る。

 神々がまだ地上に在ったころ、彼は〝暁の女神〟の眷属として女神と人とを仲介する役割を担っていた。神々が去ったのち姿を消してしまった彼を、自分も朱雀も死んだものと思っていたのだが。


「俺が一方的に、な。伝承の中でアイツは結構有名なンだ」


 嘘と真実を織り交ぜ答える。神々や太古史の伝承に疎いカナイに真偽は判別できないだろうし、必要であれば記憶を取り戻した時に白夜シロ自身が話すだろう。

 記憶を失うには、きっと何か理由があったのだろうから。


 が、カナイは一瞬視線を落とし、ついで意を決したような強い瞳でスオウを見た。


「兄ちゃん、あたしの記憶……返して?」


 完全に不意をうたれ、スオウはぎくりと凍りつく。

 カナイに自分の正体や能力についてはっきり話したことはないが、あの襲撃の夜以降、薄々気づかれてそうだとは思っていた。

 いつかかれるだろうと思ってはいても、答えを用意できずに、いつしか触れることが禁忌になっていた真実。

 十年前の緋尖ひせんの滅びと、数ヶ月前の隠れ里襲撃と。カナイの身に降り掛かった残酷な現実を記憶から抜き取ったのは、自分だ。

 不意に息が苦しくなって、スオウは無言で首を振る。

 途端泣きそうになるカナイにどんな言葉で説明したらよいか見つけられず、もう一度、首を振った。


「それはできない」

「どしてッ」


 当たり前のように問い返される。もう、ちいさな子供ではないのだから当然だ。

 自分の身に降りかかった異常の理由を知りたいと願うのは、ひとであれば当たり前の欲求だ。


 オマエを苦しませたくない。


 在り来たりで独り善がりな答えは、スオウにとっての理由にはなっても、カナイにとってはそうではないだろう。


 ただ、心も身体も壊されたりせず、生き延びて、しあわせになって欲しいだけで。

 それをどんな言葉で伝えればいいのか、わからない。


「どうしても、だ。オマエの心はまだ、受け止める用意ができてないからだ」


 カナイが泣きそうに表情を歪めた。少女の細い手が伸びて、自分の肩の後ろに回される。

 ついこの間まで大きな両翼があったはずの、今は痕すらないその部位に指先を触れ、少女は額をスオウの胸に押しつけた。

 くぐもった声が囁く。


「あたしにも、兄ちゃんの抱えてるモノ、分けて?」


 言われた意味を即座には理解できず、スオウは息を詰めて問い返す。


「何を、分けるって」

「兄ちゃんの記憶とか痛みとか哀しいコトとか許せないコトとか、あたしも知って、一緒に感じたいの」


 ぎゅ、と指先に力を込め自分を抱きしめる妹は、もうちいさな子供ではなかった。

 伸びた手足や柔らかな身体と同様に、いつの間にか、心もこんなに成長していたのだと知る。


 両目がかすみ、喉の奥が痛くて苦しい。けれど泣くには足りなくて、スオウは少女の身体に両腕を回し、ただ無言で抱き返した。


 ひとを守るって、どうしたらいいんだろう。


 たとえカナイが望んでいたとしても、許容値を超える怒りや憎しみは、心を壊し魂を歪めてしまう。

 自分ですら持て余すこの苦しさを、カナイが耐えられるとは思えない。


 大切で大切な、愛しい魂。

 どうしても、どうあっても、幸せでいて欲しい。


 だから。


「ダメだ」


 腕の中で少女が小さく震えたのがわかった。傷つけたかもしれないが、他に言いようが思いつかなかった。


「さァ、もう戻れ」


 促して軽く背中を叩き、腕を解く。

 すがる気持ちでユーキを見たら、彼は困ったような顔で自分を見返し、ゆるく笑って言った。


「スオウ。何か言い忘れてるんじゃないか?」

「……ぁ?」


 カナイが頭を胸から離し、兄を見あげる。ユーキはしばらく黙って二人を見ていたが、やがて苦笑混じりに言い加えた。


「カナイにちゃんと言ってあげなよ、スオウ。でないとカナイは、おまえが去った後も不安なままだろう?」


 言葉が見つからないなんて言い訳、ユーキはとっくに見抜いてそうだ。何を言わねばならないのかわからず、スオウはもう一度カナイを見る。

 茶色い髪は寝癖もそのままに、涙で濁った目と腫れた瞼。泣き過ぎた顔はあちこち赤くなっていて、パジャマに上着を羽織っただけの姿で、裸足を靴に突っ込んで、――年頃の娘がこんな格好で外を出歩くなんて。


 不意に気が抜けスオウは思わず吹きだした。カナイが目を丸くし、ユーキのこめかみに青筋が浮く。

 本気で怒られそうな気配を感じつつも、スオウはカナイを再度強く抱きしめた。


「オマエが大切なんだ、だからオマエには、傷ついて欲しくない」


 在り来たりの言葉でも、それだけは嘘偽りなく言い切れる、本当のこと。


「そゆぅコト笑いながら言うンじゃないのぅッ」


 拗ねた口調で言い返しながらも、カナイの頭がすがるように押しつけられる。

 ユーキが、呆れ果てたと言わんばかりに大きなため息をついて、眼鏡を押し上げた。


「記憶を返せないならさ。せめて、おまえがカナイを〝珂乃かない〟と呼ぶ理由を話してやれよ」


 その言葉に反応しカナイが頭を上げたので、スオウは腕を解いた。少女の黒い瞳はじっと自分を見つめ、答えを待っている。

 妹と親友の間でどんなやり取りがあったのか勘繰りたい気分になりつつ、スオウは記憶の中から言葉を探した。ユーキは、以前自分が口にしたことをずっと憶えていたのだろう。


 親は子の幸せを願い、名づけにそれを込める。自分はその願いもひっくるめ、少女の全部を彼らから託された。

 彼らのこともいつか話してやりたいが、今はまだ想いも言葉もまとまらない。いつかと先延ばしにして、その日が本当に来るかもわからないのに。


 ユーキの言う通りだ。

 ちゃんと言葉にしなければ、伝わるはずがない。


「カナイ」


 向き直って少女の双眸をまともに見返し、息を吸う。


 この言葉は彼らの想いに足りてるだろうか。


「オマエは、他の何にも比べようのない大切な魂だから。〝稀なる珠玉にたぐえて〟――それがオマエの名に込められた意味だ」


 名づけたのが誰かをスオウは言わなかったし、カナイもユーキもかなかった。


「……んぅ、覚えとく」


 ただ頷いて、答えて、カナイは笑った。もう一度兄に抱きつき、額を押しつける。


「兄ちゃん、あたし、待つから。あたしがちゃんとオトナになって、全部受け止められるようになるまで待つから。そしたら、……返して?」


 不安に傷ついた声だったけれど、強い声だった。だからスオウは、自分も憶えておこうと思った。

 たとえ遠く離れていても、たとえ二度と会うこと叶わなくても、与えられたモノが全部消えてしまうわけじゃない。ユーキが言いたかったのはそういうことなんだろうか。


 じんわりと沁みるカナイの体温を感じながら、スオウは黙って腕の中の妹を抱きしめた。



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