十六.その名にこめた想いを
深い深い闇の底に沈んでいたような、感覚。
浮上するというより、じわじわと明るさが増してく夜の終わりのような、静けさをともなう覚醒だった。
「……?」
目覚めて見えた天井は見慣れた自分の部屋のもので、状況がつかめずカナイは混乱する。
起きあがろうとして、全身の痛みが夢ではないと気がついた。
『起きたか。だいぶ深く眠っていたようだ、危険はないからゆっくり動くといい』
穏やかで静かな声に、カナイははっと思いだしてベッドの下を見る。痛々しい包帯姿ではあるものの、両翼も尾も頭も欠損していない白蛇がそこにいた。
手と足がないのは元からだし、そんなことを考える自分がおかしくて思わず笑ったら、なぜか
「シロ、無事だったンだぁ。……良かったッ」
安心して、嬉しくて、なのにひどく胸が苦しくて、涙が止まらない。
上掛けを引き寄せ顔を埋めて、ちいさな子供みたいに泣きじゃくるカナイを、白い蛇は黙って見ていた。黙って見ていたが結局見ていられなかったのだろう、彼はベッドによじ登ると、少女の顔を覗き込む。
『カナイ、私は無事だ。オマエを置いてドコへも行かぬし、オマエより先に死んだりもしない。だから安心して泣きやんで、スオウに会って来るといい』
「……――え、っく」
白蛇により告げられた衝撃の言葉に、カナイは思わず顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を上掛けで拭くと、急いで起きてベッドを降りる。
軽い眩暈を覚えたが、裸足だったが、構わずカナイは部屋を飛びでてリビングの戸を開けた。
驚いたようにこちらを見たのは、ユーキ。暖炉には火が入っていて、暖かな空気が部屋を満たしている。
つんと鼻をつく薬剤の匂いと、空になったマグカップがふたつ。
それを見た途端、一度は止まった涙がまた堰を切ってあふれだした。
「ユゥ兄……、兄ちゃんは……?」
ぼろぼろと落ちる涙を拭う気も起きず、カナイは唸るようにユーキに問う。
本当は
行っちゃったんだ。
自分がいつまでも起きないから、待ってられなくて。
行っちゃった。
膝が崩れて座り込む。慌てたようにユーキが立ちあがり、側に来て抱き留めるように肩に腕を回してくれた。
するすると床を滑って、
「まだ近くにいるんじゃないかな。あいつは、心配性だから。外に出て、呼んでごらんよカナイ」
優しく言い聞かせるユーキの言葉に、カナイは否定の意味で首を振った。
「迷惑かけちゃうから、イイ」
兄がここにいたという事実は、進路を逆戻りしたということだ。
神狩り派の主体国でもある北方の国にその身を狙われている彼は、ずっと南の
兄がいつ戻ってきて、あの二人組がどうなったのか、気を失っていたカナイにはわからない。けれどこれ以上のリスクを兄に負わせるワケにいかない。
そう思ったらひどく胸が苦しくなって、カナイは両手でユーキの胸を押し腕の間から逃れた。
「あたしは大丈夫、夢が怖かったダケで……もうヘーキだからッ」
身体を包むぬくもりが優しいから、甘えたい心が
ゆら、と首を傾げた
誰の足手まといにもなりたくないよ。
涙を飲み込んで笑顔を作ったら、ユーキはなんだか傷ついた顔をした。
どうして彼がそんな顔をするかがわからず、心がずきりと痛みを訴える。
だって、
役立たずのくせにワガママ言って困らせたら、いつか要らないって言われちゃう。
そうじゃなくても、弱い誰かを守りながら自分の命を守るのはとても難しいことだと、カナイは知っている。
自分のせいで兄がいつか命を失うんじゃないかという想像は、今抱えている孤独よりもっと恐ろしいものだった。
だからせめて、聞きわけの良い利口な妹でいなくては。でないと彼は今度こそ、自分の兄であることをやめてしまうかもしれない。
そんな思考が頭の中をぐるぐるして、カナイはどうしていいかわからず黙って視線をうつむけた。
暖炉の薪が爆ぜる音しか聞こえない、この重い静寂は二人にとってひどく長く、でも実際にはわずかの時間だった。
ユーキの両腕がゆっくり持ちあがり、優しく肩に乗せられる。
ひとときだけ息を詰め、それでも彼は口を開いて言った。
「カナイも、僕が父さんと母さんの本当の息子じゃなく、拾われっ子なのは知ってるよね」
不意の告白に一瞬ためらったが、カナイは素直に頷いた。
ユーキや
クーゼンとライサは人間だが、ユーキはどうやらそうではないらしい。
まだ実際に目にしたことはないが、小熊というのは熊親父の息子というだけでなく、文字通りの意味でもあるのだとか。
だから彼は、人間種族には扱えない精霊由来の魔法を使えるのだ。
「僕は熊の半獣、というか妖獣なんだけど、本当の両親のことは憶えてない。まだ本当に小熊の頃、冬の日に森で行き倒れてたのを、父さんと母さんに拾われたんだ」
懐かしい記憶を思いだすような淡々とした声が、うつむいたままのカナイの耳に届く。
この大陸に住む大多数は人間種族で、反神思想が強い北方の国々では人間種優越主義もいまだ根強い。
カルバーニは自由都市なだけに偏見は少ない方だが、それでも、仕事や近所づきあい程度の関わりと、家族や友人として迎え入れるのとではワケが違う。
行き倒れた自分の側をたまたま通りかかったのがクーゼンとライサだった幸運を、ユーキはただ感謝していると言って笑った。
妖獣だからと狩り殺されてもおかしくなかったし、そこまでしないとしても見ないフリをして通り過ぎるほうが普通だったろう。それなのに彼らは立ち止まって拾いあげ、家族として受け入れて、養い守り育ててくれた。
それが〝拾った〟なんて言葉じゃ言い尽くせない努力と犠牲のともなう決断だったということは、同じ境遇のカナイには痛いほどによく解る。
「……ユゥ兄は、怖くなかった?」
なにが、とは口に出さず、うつむいたままカナイは尋ねる。
要らないと言われることが、重荷となることが。おまえなんて見つけなければ良かったと言われることへの恐怖を、ユーキは感じてこなかったんだろうか、と。
ユーキは口を開いたが、不意に何かを思いだしたように
「そりゃ怖かったよ。だって、父さんは昔からあんなだったし。母さんが台所に立って包丁持つたび、もしかしてよくある昔話みたいに、僕を太らせて食べる気なんじゃないかってドキドキしてたものさ」
カナイが聞いたのはそういうことではなかったし、ユーキもわかって話しているのだろう。
世界は非情で、生きることは戦いだから。だれでも、いろんな恐怖を抱えながら生きているのだと、彼は言いたいのだろうと思った。
結局のところ、人を行動へつき動かす本当の理由など誰も知らない。
自分自身でもわからない時だってあるのだから。
それでも、理屈ではなく伝わるモノもあって。
たとえばこの耳で、肌で、心で、実感するぬくもりのカケラひとつひとつ、すべてが、なにを意味しているかなんて。
知りたければ、気づこうとすれば、本当はとても簡単なことで。
ユーキの言葉が静かに、続けられる。
「僕の〝
ぬるい涙が頬を伝い、膝に落ちて衣服を濡らす。
顔をうつむけ歯を食いしばっていても、両眼からは熱い雫が次から次へとあふれてゆく。
「僕は鈍くさくて、スオウみたいな度胸もないけど。どんな時も、母さんがくれたこの名に恥じない熊であろうと思ってる。……カナイは、どう?」
たとえば、そんな想い出のカケラを、拠り所に。
自分のこの両腕にあふれるほど与えられてきたものは、カナイ自身が、間違いなく心で感じてきた想いの証だ。
兄がどれだけ自分を大切にしてくれていたか、そんなの、疑うべくもない。
う、く、と嗚咽を飲み込むカナイの頬を、ユーキのてのひらが優しく撫でた。
そして、そうっと頭を抱き寄せ抱きしめる。
「正しいとか間違いとか、役立つとか迷惑とか、そういうことを考えると心ががんじがらめになってしまうから、カナイ。君がどうしたいのか、どうして欲しいのかを、言って」
「ン、……ぅ」
こくこく、と首肯し、てのひらで涙を拭ってカナイは顔をあげる。目も鼻も頬も真っ赤にこすれてひどい顔だろうに、ユーキはいとおしげに眼鏡の奥の濃茶の両眼を細め、微笑んでくれた。
「絶対まだ近くにいるから、呼んでごらんカナイ。僕も一緒に行くから」
「……うん」
笑顔を作ることはできなかったけど、今度こそはっきり頷いて、カナイは服の袖でぎゅぎゅっと顔を拭った。
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