十五.劫火に崩れた絆


 あの日の惨劇はきっと、世界の崩壊に等しい熱さで自分の心にきついたのだろう。


 あちこち抜けた記憶の中でも明瞭におぼえている、劫火ごうかの音と煙のニオイ。強く強くつかまれた、てのひらの痛み。

 たすけて、とすがった自分を抱きあげ、力強く笑った異色の双眸そうぼうと。


 なにもかもが混沌とした戦いの中で、ひときわ鮮やかに散った天空の紅い花も憶えている。あれは燃える羽毛の破片だったと後になってから教えられた。


「ねぇ、どうして?」


 誰にいたらよいかわからず、こぼれ落ちた虚しい問いかけ。


「どうしてかみさまは、たすけてくれないの?」


 幼いだけの自分に、その問いがどれだけ残酷な意味を持つのかわからなかった。だからきっと彼は怒ることも泣くこともできず、笑ったのだろう。


「神様はここに居ないからだ」


 うそ、と思った。

 祭りのたびに、鮮やかな緋の衣をひるがえして舞うあのひとは。蒼い光を散らして、祈りを歌うあのひとは。かみさまではなかったの、と。


「ねぇ。かみさまは、どこにいったの?」


 本当ならば誰よりも、彼には向けてならない問いかけだったと、そのときは気づけなかった。今ならば、その異色の双眸に揺れる光が何を意味していたのか理解できるのに。


 恐怖から救いだされた安堵感からか、自分を抱きしめる腕が優しくて、懐かしい温もりを想起させたからか。吸い込まれるような眠りに落ちて――目覚めたときには。


 憶えていたはずの誰かを、思いだせなくなっていたのだった。






「忘れてしまったのはきっと、必要ないからだ」


 屋根のある暖かな部屋の柔らかなベッドに横たえられて。そこがどこかも、なにが起きたのかもわからずに。自分は彼になんと問いかけたんだったろうか。

 あたりまえのように返されたのは、そんな答えだった。


 右の藍と左の紫。低く穏やかな声も、絶対どこかで聞いたはずなのに。

 鼓膜をかする懐かしさは、けれど、自分の奥深くに沈んだ記憶を引きだしてはくれない。


「あたしは、だれ?」


 どんなふうに存在し、どうやって生きてきたのか。

 確かにいたはずの両親の存在も、自分の名前も、なにもかもが焼失したかのように曖昧でわからなくなっていた。


 彼が紺青の髪を揺らし、無言で視線を移す。

 その先にはも、もいなかったけれど。


「忘却は、神がたまわった贈り物だ。いきものは忘れることで心を守り、再び歩きだすんだよ」


 だから、かなしいことではないのだと。うしなったのは喪うべきだったからであって、悲しむ必要はないのだと。

 そんな理屈あるはずないのに、幼い自分は素直に信じてしまったのだ。そうでなければ自分自身が壊れてしまうと――無意識に、感じ取っていたのだろうか。


「あなたは、だれ?」


 知っていたはずの知らないひとの名を、どうしても思いだすことができなくて。

 向けた問いに、彼は笑い、そうしてはっきり答えたのだ。


「俺は、オマエの兄だよ」


 ――と。






 彼が隠し、自分が目をそらしていた真実を突きつけられたのは、あの夜。

 神狩りの者たちが夜陰に紛れて隠れ里に奇襲を仕掛け、多くの同胞が命を奪われた夜。

 自分が片翼を失い、兄が両翼を捨てた夜。


 翼を引きちぎられ刃物を突き立てられた身体はどこもひどく痛くって、目を開けるのがやっとだった。

 それでも、真上から覗きこむ兄の違和感に気づかないはずがない。


「……兄ちゃん、翼、どこに落としちゃったの?」


 ホントに、ひとではなかったんだ。


 自分の右翼みたいに奪い取られたんじゃなく、彼は、翼の民であることをやめたんだ――と、直感のように思った。

 それはつまり、自分の兄であることをも。


「さすがに目立ち過ぎたから、人間ヒトに化けることにしたンだ」


 右と左、ちがう色の両眼。先のとがった耳。――そんなニンゲンいるわけないのに。てのひらで頬をなでて、彼は笑う。

 ざらっとした感触と、ぬるい湿りに、自分が泣いていたと気がついた。


「たくさん死んだの?」


 聞いてしまえばきっともう戻れない。

 隠れつづけ逃げつづけたのは、ちいさかった自分を危険な目にあわせたくなかったからで。最初の劫火の日に彼の身体に巣食った憤りという名の獣は、ずっと彼の中にいた。


 あの夜の惨劇はきっと獣にえさを与えて、思いとどまる心を残さず喰らいつくしてしまっただろう。


「あァ。ゆるせねぇ」


 そんな顔で笑わないでほしかった。仲間たちを剣でほふった者たちとおなじ光を瞳に閉じこめて笑うなんて、哀しすぎる。

 言いたいことはあったはずなのに、痛む傷が思考を邪魔して、なんも出てこなかった。


「助けてくれてありがと、……兄ちゃん」


 複雑そうな表情の兄がなにを言いたいのか、わかっていたけど、そんなのは考えなかった。気づかないふりをした。

 だって、もう自分には彼しかいないのに。


 もう兄と呼ぶな、――なんて、そんなのイヤだよ。




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