十二.生死の瀬戸際で


 皮肉なことに、大気を満たした血の臭気は、ウヴァスの傭兵としての勘を刺激した。

 心臓をつかむ恐怖心とは別に、頭の芯がすうっと冷えてゆく。


 傭兵という職業柄、命のやりとりは今まで何度もしてきたし、もうダメだと思ったことだって一度ではない。

 そのたび何とか切り抜け、そうして今まで生きてきた。


 雇い主が死んだ。その時点で仕事は失敗だから、逃げ帰ってもギルドには斟酌しんしゃくして貰えるだろう。

 当然ながら報酬は得られないし、役たたず呼ばわりされるかもしれないが。


 木立の間から現れた優男と、神獣と呼ばれる白い蛇。どちらも少女に掛かりっきりで、眼前の男に加勢する様子はなさそうだ。

 雇い主を殺した男は、まるで頭上から浴びたように髪と顔だけが血に染まっている。

 両手は同じく血糊に汚れ、騎士から奪った長剣を右手につかんでいた。彼がそれを放り捨てて、ベルトから細身の剣を引き抜くのを観察する。


 武器はサーベル、楯も鎧も身につけていない。冷静な思考がそれを告げ、ウヴァスは男から目を離さずに、じり、と後退した。

 間合いも武器としての程度も、ナイフしか持っていない自分はひどく不利だ。


 体感よりも実際の経過時間は短かったのだろう。男が自分に向き直り、騎士の遺骸を越えてこちらに近づいてくる。

 されるようにもう一歩退がった足が、硬い何かに触れた。


「……あんた、緋尖ひせんのスオウか?」


 かかとでぐいとそれを踏みつけながら、手に握ったナイフを牽制けんせいするように突きつけて、ウヴァスは男に話しかける。

 最初バケモノかと思った異相が、手配書にあった賞金首に似ていると気づいたからだ。

 右の藍と左の紫、印象的なオッド・アイ。それは緋尖の生き残りで親神側の旗頭、スオウの特徴だ。

 そうならば、片翼の少女が緋尖の者だという勘は当たっていたことになる。


「肯定は必要か、犬野郎」


 意外にも答えが返り、ウヴァスは内心驚いた。

 白蛇とは違って、鼓膜に届く普通の肉声。思ったより低く明瞭で言葉遣いが悪い。


「殺して証拠を見せても破格の懸賞金、生かして拘束すればその二倍。なるほど双珠の片割れ……。あんたが、蒼竜そうりゅうなんだな」


 緋尖を守護していた神獣は、二柱あったという。国の滅びに際して朱雀すざくは討ち取られ、蒼竜はその復讐のために親神派を率いて神狩り派と戦っているのだとか。

 森と川を意のままに操るという蒼竜であれば、あの不気味な地震も地中からの襲撃も、納得できる現象というわけだ。


 問いを畳みかけ会話を引き延ばしながら、ウヴァスは踵を浮かせてさらに後退る。

 スオウは双眸を細め、口の端を引きあげた。


「人間ごときが俺を殺せると思ッてンのか」

「緋尖の朱雀は人間に討たれたって聴いたぜ。死ににくいのは確かだろーが、不死不滅じゃねぇだろ?」


 明らかに不機嫌そうなしわを眉間に刻むと、スオウはウヴァスを睨む。

 つま先で地面を探りつつ、ウヴァスはナイフの柄を指に挟むように持ち替えた。もとよりそれほど離れているわけではない。踏み込めばほんの数歩の距離で、見せつけるようにナイフを振りかざす。

 警戒するようにサーベルを構えたスオウを睨み据えたまま、ひょいと放った先には――戦闘の輪から外れた治療中の少女がいるはずだ。


 思惑どおり、動揺したスオウの意識がそれる。

 ウヴァスはその隙に、足で踏んでいた物を強く蹴飛ばした。かんと硬い音が響き、腐葉土にまみれた小剣が飛びだす。白蛇の妨害でとり落とした自前の武器だ。

 ユーキが驚いたように顔を上げ、同時に地面から木の根のような物が突き出て、ウヴァスが投げたナイフを弾き落とす。魔術の行使による隙を見逃さず、ウヴァスは小剣を拾ってスオウに斬りかかった。

 当然スオウは応じ切れない。中途半端な姿勢でウヴァスの小剣を受け止める。


 きぃんと鳴く、耳障りな金属音。


「ヨソ見してんじゃねーぜ、このッ」

うるせェ!」


 至近で見れば、彼の両眼は流れ込んだ血糊で濁っていた。これでは視界が悪いだろう。

 剣を通して伝わる力は細腕の割にしっかりしているが、人がかなわぬ馬鹿力というわけでもない。

 表情に余裕がないのはそれだけ精一杯だということか。


 腕力は拮抗。無理には押さず、剣身を滑らせ勢いを削いで、一歩退く。間合いはそのままに再度強く斬り込めば、スオウがそれを打ち返す。

 探り合いのような剣戟けんげきを幾度か交わし、ウヴァスは相手の技量を確信した。


「とあぁぁッ!」


 思い切って踏み込み、大声をあげつつ回し蹴りを食らわせる。スオウは驚いたように身を退いたが避け切れず、咄嗟とっさにサーベルでそれを受けた。

 ギィン、と派手な音がして、痺れるような痛みが足先から全身へ抜ける。サーベルの刀身が衝撃で折れたのが視界に映った。すかさず体当たりに勢いを借りて小剣を突き入れる。左足がひどく痛んだが、構ってはいられなかった。


 スオウの顔に焦りが浮かび、血に塗れた右手が折れたサーベルを棄てて自分の喉元へ伸びるのを見る。

 恐怖が迫り上がったが、今さら後には退けない。


 ぐ、と襟首をつかまれた。同時に、小剣の先に柔らかな手応え。至近に迫ったスオウの表情が苦しげに歪み、そしてぐらりと世界が傾いた。鈍い衝撃が背を打つ。

 スオウに地面へ押し倒されたのだと遅れて認識し、ウヴァスは逃れようと身をよじって、様子が変だと気がついた。

 つかんでいた小剣が手元から失せている。


「……ぅッ、――ぐ、」


 獣みたいに呻いているのは誰だ。うまく立ちあがれないのは足が痛むせいだが、これは自分が漏らす声じゃない。

 身動きが取れない原因を知ろうと視線をさまよわせたウヴァスは、自分の上に覆い被さっていたスオウが上体を起こしたのに気づき、心臓が凍った。


 ぎらつく異色の両眼が、真上から自分を見おろしている。


 腹の辺りがぬめるように熱かった。ぽたり、ぽたりと自分の上に落ちるのは、スオウの身体から流れる血液だ。

 自分の小剣が彼の脇腹を貫通していて、背側に切っ先が突きでている。


 右手と左手それぞれを彼の手につかまれていた。手首を絞める五本の指を妙にはっきり知覚する。

 ここでスオウの腹に蹴りでも食らわせれば逃げられそうなのに、何かに縛り付けられたみたいに両足は動かなかった。


 絶対スオウの方が重症そうだってのに、悔しい。


「……殺してやるッ」


 指に力が込められたのを感じる。声と一緒に吐きだした彼の息には、血が混じっていた。


 左の足がじくじく痛むのは、折れたからだろうか。今きっと自分はさっきの雇い主のように、無防備に喉をさらしているだろう。

 あんな風に地面から手が出て、首を掻き切られるかもしれない。

 そんな想像が頭を過ぎったが、もう怖いとは思わなかった。


「やだね」


 挑発的に笑い、ウヴァスは答える。


 もとは綺麗だろう紺青こんじょうの髪を、赤黒く汚して。

 顔も目も唇も、こびりついた血でひどい有様だ。

 細くて長い両手の指は、視界には見えないけれど、乾きかけの血がべたついて相当不快に違いない。


 そんなナリで、人ひとりためらいなく殺しておいて、今も殺すとか宣言しやがって。


 なのにどうしてあんたは泣いてんだ。


「死んでしまえ、犬め」


 ぱたりと雫が落ちて、ウヴァスの額を濡らした。

 威嚇して唸る手負いの獣みたいだった。失礼極まりない罵倒を向けてくるくせに、雇い主のような憎しみの色は感じない。本心じゃねえだろ、そんなふうに思う。


「犬じゃねぇ」

「金のために無害な者を狩り殺すのは、犬野郎だ」

「はは、そりゃ犬に失礼じゃね?」


 確かに、白蛇の神獣が無害な獣だというのに異議はなかった。好戦的な鳥人の少女と眼前の人殺しが無害だというのは、納得しかねるが。


 はぁ、はぁと荒い呼吸を繰り返しながら、スオウが身動いだ。

 両手首の絞め圧が、痛みをともない増してゆく。

 何をされているのか解らず表情を取り繕う余裕もなくなって、脂汗が滲む。堪えきれずに呻き声が喉から漏れた。


 ぽきん、とあっけない音がして、身体の内側を激痛が走り抜ける。

 絶叫こそ飲み込んだものの、堪えきれない痛みに漏れる呻きを抑えられず、ウヴァスは奥歯を噛みしめスオウを睨みあげた。


 どうやってかはわからないが、骨を砕かれた。今から殺すなら、どうしてわざわざ痛めつけるような真似を。

 問いたくても痛みが強すぎて言葉は声にできず、両手は動かせなくて滲んだ涙を拭うこともできず、ただ喘ぐような息を吐きだすしかできない。


 彼の右手が自分の左手から離れ、喉に当てられるのを感じる。

 同じ仕方で、潰されるんだろうか。


 悔しい気持ちは消えてなどいない。この身体が動くなら、殴りつけて、逃げて、生き延びてやりたい。

 命が惜しいというだけでなく、今失くしたくないのはたぶん別の何かだ。それがまだ解らないからあきらめきれない、足掻あがきたい。


 どうせ人間、死の瞬間まであきらめがつくはずないのだ。


「――な、ぁ、……スオウ」


 喉を滑る彼のてのひら。血糊でべとついて冷え切ってはいるが、ちゃんと体温も感じる、人と変わらぬ手。

 ヒトのカタチをとる神獣と、人との違いは、どれだけの差異なのだろう。


「なんだ」


 かすれた声が応じた。

 濡れた異色の双眸が瞬き、まっすぐ自分を見る。


「死にた……、ない」

「馬鹿だろオマエ」


 失笑し、スオウの指が探るように動いて、頚部の脈に触れた。

 左足と両手首の痛みのせいで、脈打つ鼓動が痛くて苦しい。観念して目を閉じようかと一瞬考えたが、やめた。

 疲れきったような藍と紫の両眼を、ウヴァスは黙って睨み返す。どうせ殺されるなら、彼がどんな顔で自分を殺すのか見てやろうと思った。


 今度生まれ変わった時は、犬、なんて呼ばれてたまるか、と。



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