十.死んでも忘れねぇ


 森に踏み込んだ途端、ユーキは臭いに気がついた。

 薬師を志す者の知識と感覚でその効用を即座に判断し、悪い予感を感じつつも小道を屋敷の方へと駆け急ぐ。


 途中、大きな樹の根元にカナイの荷物と魚の包みが置いてあるのを見かけ、その予感はピークに達した。

 身軽になるために、診察用具の入った鞄を置いていこうかとも考えたが、そんなに変わらないだろうし必要になった時困るので、思い直す。

 どこを目指すべきかは迷わなかった。まるで指標のように、灰色がかった煙がまっすぐ立ち上り、その場所を示しているからだ。


 火元と思しき場所はそれほど遠くない。そろそろ木々の間から見えそうな近さまで至った、ちょうどその時。不意に足下の地面がうごめくような違和感を感じ、ユーキは本能的に立ち止まる。

 うるさくわめいていたカラスの声が突然にやみ、次の瞬間、梢から鳥たちが一斉に飛び立った。


「――……ッ!?」


 咄嗟とっさにしゃがみ込んだのは、異変を察知したからではない。理由がわからなくても野生動物なら感じることのできるに従ってのことだ。

 直後、激しい振動が真下から突き上げた。

 ユーキは波うつ地面に縋りつくようにして、激しい衝撃をやり過ごす。


 地震であるのは、間違いない。だが、何かが違う。

 考えるでもなく答えは頭に浮かんでいた。喋ろうとすれば舌を噛みそうな揺れの中、ユーキは少しでも先へ進もうと地面に爪を立てる。


(スオウ……ッ!)


 いるのだろう、側に。

 見ているのだろう、この森を脅かす存在を。


 そして――最愛の妹に迫った危険を。


 オマエはカナイを頼む、と。


 耳元をかすった低い声は、幻聴ではないはずだ。


(どこにいるんだ、スオウ)


 危機感とも違う焦燥感に駆られ、ユーキは歯を食いしばって頭を上げ目を凝らす。

 木々の向こうにちらりと、人の姿が見えた気がした。

 治まらない揺れがひどく長く感じられる。視界にとらえられる距離がどうしようもなく遠い。

 ぞく、と悪寒で全身が粟立ち、堪えきれずにユーキは叫んでいた。


「スオウ、やめろ――ッ!」


 悪ィな、と。聞こえた気がしたのは。


 聞き返そうと発しかけた声を遮ったのは、耳をつんざく絶叫。

 獣でも魔物でもない、間違いなく人間のものであるの。


 あぁ、と、声にならない吐息が漏れた。重い悔しさが込みあげ、ただでも不鮮明な視界がぼぅと歪む。

 ほぼ同時に振動が和らぎ、ユーキは立ちあがって眼鏡を外すと、乱暴に目元を拭った。


 地面に染み込む血の匂い。獣を狩る時、魚を捌く時、もう慣れっこになっている鉄の臭気。

 でも、こんなのは嫌いだ。

 食うため以外に命を奪うなんて、こんなのに慣れたくなんかない。


 もう足元は揺れていなかった。

 眼鏡を掛け直し、鞄を置き、木々の向こうに瞳を向けたユーキはそこに、人血を浴びた親友の姿を見た。




 +++




 死んでも忘れねぇ、とウヴァスは思う。


 足元から突き上げた振動は狙いを定めていられないほど激しく視界を揺さぶり、動作の自由を奪っている。

 なんとか片膝立ちでいるものの、その場から一歩も進めず何もできない。

 右腕の利かない雇い主が足をすくわれ転倒したのはわかったが、助け起こすことも叶わなかった。


 辺りに視線を巡らせ、白蛇が地面にぴったり身体を伏せているのに気づく。

 蛇の魔法じゃねぇのか、と思いながら視線を転じて昏倒している少女を見たウヴァスは、ぞっと背中に冷汗が噴きだすのを感じた。

 揺れ続ける地面に横たわっていながら、少女と周りの空間だけが切り抜かれたように静かだ。その超常の現象を見た途端、ウヴァスは弓矢を放り出して腰ベルトからナイフを引き抜いた。


 これは、魔法だ。


 眼前の白蛇とは違う何者かが、この同じ空間にいて自分たちを見ている。

 少女を傷つけ殺そうとした自分に対し、強い敵意を剥き出して。


 視線も殺気も拾えないのはなぜか。

 いったいどこに。


 恐怖なんてとっくに通り越し、挑むような気分で周囲を睨んでいたウヴァスの視界の片隅で、白蛇が身動ぎした。

 思わずそちらを見、金色の瞳と視線がかち合う。


『逃げろ、若者』


 白蛇の鋭い声に被さるように、何かがぼこりと崩れる音がした。戦士としての耳はそれを知覚し、無意識に視線を導く。

 そして瞠目した。


「な、……ぅぐッ」


 いまだに起きあがれずにいた騎士の真下から、人のものに見える手が伸びて彼の首に絡みついていた。

 抗うようにつかんだ剣を動かす左手にも、同じように。


 ヤバイ、と脳内で警鐘が鳴り響く。

 即座に立ちあがって逃げられるものならば、そうしただろう。――が、意思とは裏腹に身体は動かず、その奇妙な光景から目を逸らすこともできなかった。


 ひいぃ、と息の抜けるような雇い主の悲鳴。

 人の手はまるでそれ自体が生き物のように、滑らかな動きで彼の左手から長剣を奪い取る。

 そして、太い喉元にそれをあてがった。


「や、やめ」


 最後の台詞を発することさえ許さず。無慈悲な刃が彼の喉を滑った。

 磨かれた剣身が皮膚の間に沈み、おぞましい絶叫をともなって鮮血がほとばしる。あふれた血が白い手を赤黒く染めあげ、地面の色をも変えてゆく。

 一部始終を目をそらすこともできずに見ていたウヴァスは、雇い主が絶命したことを確信した。


 次は、自分か。


 風に混じる錆びた臭気を嗅ぎ取って、ウヴァスは奥歯を噛みしめ立ちあがる。

 揺れはもう治まっていたが、逃げようという気は起きなかった。


 もの言わぬ骸となったかつての雇い主の、影から、まるで生え出るように身を起こす、人のカタチをした異形いぎょう

 土と混じった血の臭いが、濃くなる。


 あんな死にざまは嫌だな、と思った。

 それでも、神と呼ばれる存在に刃を向けた者の末路としては相応ふさわしいのかもな、とも思った。


 長い前髪からほふった相手の血を滴らせ、視線をゆっくりとこちらに向けた、背の高い男。顔も衣服も血と泥でまだらに汚れていたが、強く光る藍と紫の双眸は不思議で印象的だった。


 次は、自分だ。


 神を殺せと叫んだ男が断罪されたのなら、神に弓引いた自分も容赦されるはずない。


 どうせ敵わないなら、せめて無様ではない最期を望みたいものだ。そう思い、てのひらのナイフを握り直す。

 開き直りに近い自嘲が、自覚なく笑みのカタチに口元を歪めた。

 こんなことなら引き受ける前にカルバーニの名物食堂で、美味い飯と酒を飽きるくらい食らって来るんだった。……なんて、今さらもいいところだが。


 ここで死ぬのか。


 自分がまいた種なら仕方ないが、無論タダ殺されてやるつもりもない。


 金色の瞳からもの言いたげな視線を感じつつも、ウヴァスは血染めの男へと視線を向け、にやりと不敵な笑みを浮かべる。


 この失敗は死んでも忘れねぇ。

 絶対、来世では繰り返さないようおぼえててみせる。


 さて。


 どんな風に殺されてやろうか。



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