六.どうか隠れていて
カナイが住む森の中の屋敷は、
カルバーニ近海で名うての海賊だったクーゼン・バクワーズが
森の片隅に屋敷を建て人目を避けて暮らしていた夫妻が、ある日突然に幼い子供を連れて街に移り住み、酒場を開いてもう二十年近く経つ。
陸に上がろうと接客商売を始めようと海賊時代に培った気質は抜けるものではなく、開店したばかりの眠熊亭は閑古鳥が鳴く寂しい酒場だった。バイトどころか客にさえ、遠慮なしに雷声と鉄拳を振舞うクーゼンが原因だったのは、言うまでもないだろう。
本人は流行ろうが寂れようが構わなかったのかもしれないが、まだ幼かったユーキはこの事態に非常な危機感を覚えたらしい。彼は毎朝店の前に立って道行く人に声を掛け、母の作ったパンを配って必死に呼び込みを頑張った。
見かねたライサが夫に説教したのと、ユーキを可哀想に思った近所のおばちゃんらの口コミが功を奏して、一時は存続の危機かと思われた眠熊亭もなんとか持ち直し、今ではこの辺の名物処となっている。
カナイは当時を知らないが、常連客やらご近所さんやらに代わる代わる昔話を聞かせられれば、知ってる気分になってくる。
そんな昔話を知ってしまえば、最初はあんなに恐ろしかった熊親父の落雷もさほど怖くなくなるから不思議だ。
昼時の超繁忙時を眠気と戦いつつもなんとか乗り切り、ユーキに言われた通り帰宅しようとしていたら、仕切りカーテンが揺れて誰かが入って来た。
「まだいたわね、カナイ。よかったわ」
柔らかい声とふわんとした笑顔、常連客からは美女と野獣なんて噂される女将さんこと、ライサ・バクワーズだ。
手に小振りのバスケットを抱えている。
「あ、女将さん。早上がりゴメンなさいですッ」
「いいのよ、カナイはいつも一生懸命やってくれてるもの」
勢い良くぺこりと頭を下げたら、優しい笑顔が返ってきた。
そろそろ四十代に差し掛かろうという彼女だが、全くそう見えない可愛らしい容貌をしている。常連以外の客、実に五人に一人が、ユーキとライサを夫婦と間違えるくらいだ。
笑顔が魅力的で人当たりもいい彼女は、期待を裏切らず料理の腕もいい。
カナイも元々料理は好きだが、ここでバイトするようになってからはレシピのレパートリーや腕が格段にレベルアップした自信がある。
「あの、女将さん。マスターは?」
「厨房かしら、言っておくから大丈夫よ。それとこれ、昼の余りだから持ってって食べて」
笑顔のライサにバスケットを手渡され、カナイはなんだか胸が一杯になって、こくりと頷いた。
こういうさり気ない気遣いが、今はどうしようもなく心に染みて仕方ない。
「ありがとです、女将さん。マスターにもよろしくお伝えくださいッ」
「ええ。それじゃカナイ、また明日ね」
挨拶を交わして出ようとしたら、ちょうど入ろうとしていたマスターに出くわした。
予想外のことに慌てて意味もなく方向転換するカナイに、クーゼンはドスの効いた声でおい、と声を掛ける。
「マ、スターすみませぇん! 先に上がりますッ」
挙動不審な返事にも彼は無言で頷き、無言で長い包みを差しだした。疑問符を浮かべて首を傾げるカナイに一言、加える。
「魚屋からだ。美味いモン食って、しっかり休めだとよ」
「ぇ、うっわぁ……、ありがとですッ」
雑紙で厚く包まれ中身は見えないが、縦長のそれは魚のシルエットだと思われた。わざわざ届けてくれたのだろう。
どうも想像以上に心配を懸けてしまったらしい。
申し訳なさとありがたさに、カナイはそれしか言葉が出てこなかった。
皆、気づかぬフリをしてくれてるだけで、本当はイロイロと見抜かれているのかもしれない……、自分の悩みも不安も、飲み込んで表に出せない本音すらも。
びんと重く張った包みを受け取り、感謝を述べて眠熊亭を後にする。いつもなら夕飯のおかずになりそうな物や、貿易船と一緒に入ってきた珍しい物品なんかを見て回りながら帰るのだが、雑事は明日へ持ち越しだ。
繁華街を抜け、街道を通って郊外に向かう。
しばらく歩いて視界に森が見えてきた頃、カナイは鼻につく異変に気がついた。
立ち止まって意識を澄ませ、音を聴く。
風に乗って流れてきた匂いは、枯葉やゴミなんかをくべた時の煙に似ている。
夕刻を控えて火焚きをする家がないとは言えないが、それが郊外から流れてくるのはオカシイ。
しかも、火元が間違いなく屋敷の方向なのは、どう考えたって悪い予感しかしない。
(もう、追いつかれた?)
考えたくないが可能性が高いのは、白蛇を殺そうとしていた者たちの襲撃だろう。
まぁ、ただの山火事だったとしてもオオゴトには変わらないが。
様々な可能性を思い巡らし自分なりに結論づけて、カナイは再び早足で歩きだした。
実を言えばあの屋敷は、兄によって守護魔法が掛けられている。だから、そう簡単に燃えてしまうことはない。
だが白蛇が屋敷の外――魔法範囲の外へ出てしまえば、傷が癒えていない彼は最悪、追っ手の者たちに狩られてしまう。
それはどうしても阻止しなくてはいけない。
早足が段々と、駆け足に変わる。
どうか隠れていて、――願うのはただそれのみだ。
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