四.失くした記憶の痛み


 しあわせとふしあわせの境目って、どこにあるのだろう。


 『眠熊ねむりぐまの足跡』亭・朝の名物、特製ミルクブレッドに群がる常連客を眺めながら、カナイはふわぁと出かかったあくびを飲み込む。さすがに徹夜が効いてか、眠い。


(あたしは、不幸せなのかな)


 欠けた記憶、揃わない家族。それでも朝目覚めれば、やるべきことやりたいことはたくさんあるし、美味しい物を食べたり美しい物を見聞きすれば満たされた気分になれる。

 それで――十分だったのに。


(見ないフリしてたから、こうなっちゃったのかな)


 そんなささやかな日常さえあれば、それ以上なんてらなかったのに。


 兄が心に負った傷の深さを知ろうとしなかったのは間違いだったかもしれないと、ここに来てからカナイは思うようになっていた。

 あちこち抜け落ちた不完全な記憶の今でさえ、翼を奪われた時の恐怖を思いだせば心臓が凍る気がする。そういう怒りとか憎しみとかを抱えて生きるのは結構しんどくて、だったら兄は今まで、どれだけ息苦しい感情と戦ってきたんだろうと思うのだ。


(だから、なんも憶えてないのかな)


 根拠はないが、自分の記憶を抜き取ったのは兄じゃないかと思っている。


 ここへ来る前に住んでいた深い森の中の隠れ里は、突然に踏み込んで来た武装兵たちによって焼き払われた。同胞たちがたくさん殺された中で無力な自分が生き延びられたのは、奇跡みたいな偶然に過ぎない。

 現に自分は片翼を引き裂かれ、全身に傷を負った状態で兄に助けられた。


 誰がどんな風に自分を傷つけ、そこからどうやって助けだされたのか、カナイ自身はまったく覚えていないし、思いだそうとすると酷く頭が痛むのだ。

 だけれど憶えていることもあって、たとえば蒼い光が輝いたことだとか、鳥人だったはずの兄がいつの間にかそうじゃなくなっていたことだとか。


 薄々感じてはいたけれど、やっぱり、と思った。

 彼は自分の兄であることをやめたのだ、と。


 それは直感だったが絶対の確信があって、だからカナイはけなかった。幼い頃なら無邪気に口にできただろう、〝あなたはだれ〟という疑問を。


 知ろうとしなかった――、いや考えようとすらせず、兄に言われるままこの国へ来て、あの屋敷で別れた。

 だから結局カナイは今も、兄と自分の関係に関わる真実を知らないままなのだ。


 自分がこんなに寂しいのは。

 どれだけ優しくされても、美味しい物を食べても、綺麗なものを見聞きしても、心の隅っこが満たされないのは、独りだからじゃない。


 本当はわかってる。

 この後悔が胸にこごっている限り、この孤独は絶対に癒されない。


(でもだからッて、今さら――……)


「こぉらぁカナイ! オーダー入ってンぞ、ボーっとしてるんじゃねえ!!」

「きゃぁぁぁゴメンなさいぃッ!」


 いきなり雷鳴のような怒声が飛んできて、カナイは思わず持っていたトレイを放り投げそうになった。

 慌ててつかみ直した反動で、乗っていたグラスが賑やかな音を立てる。


「おぅ、カナイちゃん危なかったなァ」


 隣席で野菜スープを食していた魚屋に大笑いしながらからかわれた。危うく頭から氷水を被せられるところだったというのに、いつもながら陽気なオジサンだ。

 折角だからカナイも便乗して、あははと笑って誤魔化しておく。


「ちょとぉ、寝不足でッ」

「そりゃイカンなー、カナイちゃん。三食快眠ついでに昼寝は眠熊ねむりぐまの基本方針だぜ? ここの小熊を見倣ってだなァ」


 大真面目な顔でなぜか店の方針を語りはじめたから、どうかわそうかと視線を泳がせていると、通り掛かったユーキがさり気ないふうを装って近づいてきた。


「僕が何ですって?」


 笑顔で適当に魚屋と話を合わせながら、グラスにトマトジュースを注いで話題を逸らすと、ユーキは小声でカナイに囁いた。


「カナイ、気になるなら今日は早く上がってもいいよ? 父さんには、僕からうまく言っておくから」

「うん、ありがとユゥ兄。でも大丈夫ー」


 忙しい彼に気を遣わせてしまったのが申し訳なくて、へら、と笑って答えた途端。カウンターの方から本日二度目の怒声が飛んできて、思わずカナイは首をすくめる。

 もしかして今日は、落雷警報が出てたんだろうか。


「マスター怒ってるからカウンター戻りまぁすッ。ユゥ兄も厨房戻ってっ」

「了解。でも、無理はしなくていいからね」


 短く言葉を交わして離れ、それぞれの持ち場に戻れば、山のような仕事が待っている。宿屋を兼ねた食堂である眠熊亭の朝は半端なくひたすら忙しくて、ぼんやり物思いにふける余裕などあるはずがない。

 用意されている小鉢とグラスをトレイに乗せ、お客さんの所まで持っていく。

 セルフバイキングの大皿に料理を追加して、次々に積み重なってゆく食器を急いで洗って片づけて。


 めまぐるしく駆け抜ける時間に追われ、頭に渦巻いていたもやもやはいつの間にか姿を消していた。胸を圧迫する後悔の残滓ざんしもこんな風に押しやられてしまえば、残るのは普段通りの日常だ。




 


「はぁーっ、つッかれたぁ」

「ご苦労さん。これ、どうぞ」


 カナイがテーブルに突っ伏していると、ユーキがホットレモネードを置いてくれた。のろのろと顔を上げカップを両手で持って、くんくんと香りを確かめる。


「もっと甘くして?」


 仔犬の瞳を真似して、上目づかいでねだってみたが、


「ココアじゃないんだから」


 と笑顔で流されてしまったので、あきらめる。視力の悪いユーキには効果が薄かったのか、わかってて流されたのか微妙な線だ。

 そんなどうでもいいことをぼんやり考えながらカップを口に近づけ、ふぅっと息を吹きかけると、酸味混じりの湯気が広がって少し目が冴えた気がした。


 ふぅふぅと冷ましながら甘さ控えめレモネードをついばむ少女の前に、ユーキは椅子を引いて座ると声を潜めて囁いた。


「彼、シロ君は、目が覚めたのかい?」

「うん、ユゥ兄が帰ってすぐに、起きたの。まだちゃんと動けないから、も少し寝るって言ってた」


 今朝のやりとりを思いだしながら、カナイは答える。

 ユーキは口元に手を置いて何かを考えていたが、厨房の方から聞こえた呼び声に気づいて立ちあがった。


「夜までには時間を作ってに行くから、カナイは少し早めに上がって、シロ君に、どんな状況で追われてたのか聞いててくれないかな」

「解った。なんかゴメンなさい、ユゥ兄にお世話かけっぱなしで」


 休憩室を後にしようとする彼に言うと、ユーキは立ち止まって振り返り、また戻ってきてカナイの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。


「謝ることないよ。僕はむしろ、カナイに何かをしてあげられるのが嬉しいんだから」


 笑って優しくそう言って、それから足早に休憩室を出ていく。

 残されたカナイはカップに残ったレモネードを一気に飲み干した。酸っぱさにちょっと涙がにじんだが、気合いを入れ直して勢いよく立ちあがる。


 頭を撫でてくれたてのひらの重みが、いつまでも残ってるような気がして。なんだか胸が苦しくなったのは、嬉しいからなのか寂しいからなのか、わからなかった。


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