三.少女の願い
おはようを伝える相手がいない朝は、
この屋敷は一人で住むには広すぎるし、早起きしたところで一緒に食卓を囲む相手もおらず、かといってだらだら寝過ごす気にはなれない。
だが、今日はいつもと状況が違っている。
寝室の椅子に膝を抱えた格好で座り、少女は眠そうな顔で、ベッドを占拠するイキモノとそれを手当てしている青年を眺めていた。
白く清潔なシーツに横たえられているのは、鱗の滑らかな白大蛇だ。頭から尾までざっと三メートルはあるだろう。真ん中と頭の中間くらいに翡翠色の翼が生えている。
森に
ずっと無言のまま砕かれた羽翼を手当てしていた彼が、ふぅっと息を抜いて少女を振り返った。
「もう大丈夫だよ。彼もようやく寝たようだし、カナイも少し休んだらどうだい?」
「ホント? ユゥ
短く揃えられた濃茶の髪と、眼鏡の奥で優しげに笑う黒茶の目。スオウとは印象も身にまとう雰囲気も対照的な彼の名を、ユーキ・バクワーズという。
この屋敷の大家でもある『
兄と仲の良い彼に、ここに来てからは何かと世話になっている。カナイが『眠熊』でバイトを始めてからは、まるで家族のように身の回りをいろいろ気にかけてくれたので、気持ちの上ではすっかりもう一人の兄扱いだ。
「でも、驚いたな。スオウならともかく、カナイがこんな無茶をするなんてね」
柔らかい口調ではあるものの、言外に無謀を咎められ、カナイは抱えた両膝の間に顎を埋めた。
「誰も殺してないもん」
「そうじゃなく。……解るだろう?」
「ン。解ってるケドぅ」
はぐらかすつもりをさり気なく阻止され、カナイはうぅと唸る。
この翼持つ白大蛇は、ケツァルコアトルと呼ばれる神獣だ。
遠い遠い昔、神々がまだ世界にいた頃、光の神に
反神派の中には神々を
恐らくその一派であろう男たちの神狩り現場に偶然出くわしたカナイは、衝動的に、殺されかけていた白蛇を奪い取って逃げてきた。しかし魔法も医療も心得ない彼女はどうしていいかわからず、結局はユーキに泣きついて今に至る。
そもそも戦火と追撃を逃れるため、そしてカナイ自身を危険から遠ざけるために、スオウは彼女をここまで連れて来て、別れたのだ。その兄の想いを台無しにしかねない危険を犯したことは、わかっていた。
けれど無害な獣が殺されるのを見ない振りするなんて、自分にできるわけがない。
カナイが静かになったのでユーキは振り返り、うなだれる少女の様子に口元をゆるめた。
「とにかく今度からは、せめて僕か父さんに相談すること。いいかい?」
「無理だッたもん。間一髪だッたんだからぁ」
「まあ、わかるんだけどね」
ユーキは応じてゆるく笑い、薬と治療道具を片づけはじめた。
蛇の長い胴や折れた翼には白い包帯が丁寧に巻かれている。ぴくりとも動かないのは昨日から変化ないが、ユーキが大丈夫というからには心配ないのだろう。
白大蛇の傷は相当ひどかったし、
カナイも眠かったが、集中して施療していたユーキはそれ以上に違いない。
ことに薬に関しては、ご近所で〝
「じゃあ、僕は帰るよ。何か気になることがあれば、すぐに呼んでくれて構わないから」
荷物をまとめてユーキが立ちあがったので、カナイは思考を引き戻され、慌てて椅子から飛び降りた。
「ユゥ兄、ホントにありがとッ。ごめんね無理させて」
「大丈夫大丈夫、カナイも気にしないでおやすみ」
そうは言われたものの、ユーキを見送ってからカナイはすぐに白蛇の元へと戻る。
椅子をベッドの隣へ運んでさっきみたいにちんまり乗っかり、ぼぅっと眺めるくらいしかできることはないのだが。
白大蛇の名前を、カナイは知らない。助けた時に少し言葉を交わしたが、彼はカナイが思いつきで呼んだ『シロ』という名を気に入ってしまったようで、教えてくれなかった。
あるいは神獣であれば名前そのものに特別な力が付されており、明かすのをためらったとも考えられるが……ともかく。
目が覚めたなら、彼に聞きたいことや話したいことが色々あるのに。
窓の外、薄まりはじめた闇の色は、夜明けの近さを示している。朝が来れば食事をとって身支度を整えて、バイト先の『眠熊の足跡亭』に行かなければならない。
いつでも人手不足の店だから、今日も夕方まできっちり仕事が溜まっているだろう。その間に彼が意識と魔力を回復していなくなってしまう可能性は、ないと言いきれない。
追っ手が掛けられている可能性だってゼロではないのだ。
バイトを休むか店に連れて行くのは無理だろうか……とそこまで及んだ思考は、しゅるりという布の音にさえぎられた。
反射的に上げた瞳に、ゆらゆらと動く翡翠の翼が映る。
思わずカナイは椅子から飛び降り、ベッドの端にすがりついた。
「シロ、起きたのッ?」
白大蛇の金の瞳が人のように瞬き、部屋の暖光を弾いてカナイに焦点を結んだ。しゅる、と布をこすって長い尾が動く。
『ユーキは帰ったのか。眠ってしまったようだ、申し訳ない』
「ん、ユゥ兄は朝早いから。シロは眠れた? まだ、傷は痛む?」
折れた翼がどれほど痛むかわからなくて、触れていいかも判断できず、カナイは白蛇を覗き込んで尋ねた。
かれは頭をわずかに持ちあげ、ゆるく首を傾げるような動作で
『多少痛むが、問題ない。
鼓膜を通さず直接意識に言葉が届く。
カナイは魔法に疎いため、心話と呼ばれるこの術がどんな仕組みなのかは全然わからないが、伝わる範囲や距離は音声の場合とあまり変わらないようだ。
この場にユーキがいれば、白蛇の声は彼にもしっかり聞こえていただろう。
神獣や幻獣たちの特殊な能力は、人の理解を超えている。
それが反神の者たちに厭われる一因だと、カナイは今までの経験からなんとなく理解していた。
人は自分が理解できない未知を、恐れるのだという。
でも怖いからといって
兄が、友人が、見知らぬ誰かがそういった
だからやはり彼を見捨てずにいて良かったと自分に言い聞かせ、カナイは白大蛇に笑顔を向けた。
「そっか、良かったぁ。何か食べる?」
『否、今は要らぬ。
生真面目に返答するかれの語調は穏やかだ。
ケツァルコアトルは神獣の中でも特に温厚な性質だ、と兄が言っていたのを思い出し、カナイは胸の奥に明かりが灯るような感覚を覚える。
この何気ない会話がなんだか無性に嬉しい。
「ここはカルバーニって街みたい。交易商業都市なだけに人外種族も多いから、神狩りのヤツらはあんまりいないンだって、ユゥ兄が言ってた」
多種族混合の自治区・カルバーニ。スオウがカナイの住みかとしてここを選んだ理由が、それだったらしい。
大陸
〝自由〟を掲げるだけあって治安の悪さも目立つのだが、よそ者にとってはその方が住みやすくもある。スオウ自身が来やすいという理由もあるのだろう。
『成る程、西方の街か』
考え込むように瞳を伏せた白蛇を、カナイは身を乗りだすようにして覗き込む。
「シロもココに住むといいよ。帰る場所ナイって、言ってたよね?」
『カナイは構わぬのか。私は人に
白蛇が瞳を開けて問い返したので、カナイはくふ、っと笑ってみせた。
「大丈夫、慣れてるもん。あたしがシロを守ってあげるよぅ」
『有難さより情けなさが先立つな。それでは私の気が済まぬ』
ため息にも聞こえる呟きを漏らし、白大蛇はゆるゆると首を振る。遠回しな断りのように思えて、心臓がきゅうと締めつけられるように寂しくなった。
「いいの。シロがいてくれれば、朝も夜も寂しくないからッ。それにあたし、シロが好きだもん。それじゃダメ?」
そのまま会話が終わってしまうのが怖くて思わず言うと、白蛇は思慮の深そうな瞳を戸惑うようにさまよわせた。
人とは違うが蛇らしくもない不思議な動作に、彼が神獣だという事実を改めて実感させられる。
独りの夜、会話のない朝。息苦しいだけでちっとも楽しくなんかなかった。
一人は寂しいと、心が訴えている。
バクワーズ夫妻もユーキも街の人たちも、自分を親切に迎えてくれたけれど、彼らの温かさに触れるたび、心のどこかに鈍い
彼を引き止めたところでそれが癒えるわけでないのはわかっていたが、金色の瞳に宿る穏やかさには、懐かしさに近い引力があった。
『難しい事を言う』
笑うように聞こえる声が心を震わせて通り過ぎる。
『今はまだ十分には動けぬ
蛇は慎重なイキモノだ、と言う。大蛇の姿を
「うん、解ッた」
去りゆく者にすがりつくのは身勝手なワガママだ。かれの答えが望み通りでないとしても、カナイに止める権利はないのだから。
人族が彼らに強いてきた歴史を思えば、一度助けたくらいで信頼を得られるなんてのは楽観しすぎなのだと、カナイは無理やり自分を納得させる。
「あたし、バイトあるから……気持ちが決まったら、答え聞かせて?」
『了解した』
白みはじめた窓の外を一度だけ眺めやり、カナイはため息を吐きだして寝室を後にした。
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