二.翼持つ白蛇


 射留められた翼が、鈍い痛みを訴えている。

 視線の先に広がる空はただひたすらに深く蒼く、太古の時代から変化していないように思う。


 翼持つ白蛇は、砕かれた翼から流れる血だまりの中に全身を投げ出したまま、記憶もおぼろな過去へと思いを馳せていた。


「どうした、早く殺せ」


 空気を震わせ届く音は、人間が発声する言葉だ。しかし身体はすでに麻痺していて、頭を動かし相手を確認することすらできそうにない。

 殺せと言うからには、彼らは自分の命を奪う気なのだろう――と考える。


「でも呪いが……!」

「煩い。そんなもの、ただの迷信だ」


 二人連れの片方はまだ若いのか、怯えたような声で抗議しており、それをもう一人が叱りつけていた。

 大の男が無抵抗の獲物を前に言い争いか。

 迷信と言うなら自分が手を掛ければ良いのだ、と思う。それができないところ、彼もまた呪いを恐れているに違いなかった。


 太古、〝乾潤かんじゅん千界せんかい〟と称されるこの世界には、神々が在ったとか。時代を経て、いつしか人と神は諍い、やがて神々は世界を去ったと伝えられる。

 今となっては伝承の真偽を知る者もいないが、神々の名残とされるモノが今でも多く存在している事実を思えば、あながち作り話でもないのだろう。


 真偽が不明ということは、それに基づく信仰も人それぞれだということだ。今も神々の帰還を待ち望む者や、神の介入を厭うあまりに神々の名残すべてを排除しようと躍起になっている者たちもいる。

 この二人は、そういった〝神殺し〟の一派に違いなかった。


「もういい、ならば俺が殺る!」


 年上らしき方の声音とともに金属が擦れる音が響き、乱暴な足音が草を踏みつけ近づいてくる。地に横たわったまま動けずにいる白蛇に、それを止めるすべはなかった。

 白く長い身体と、翡翠の輝きを持つ一対の翼。

 かろうじて憶えているのは、自分がケツァルコアトルと呼ばれる神獣だということだ。

 

 男が掲げた剣が陽光を弾き、ちか、と光る。

 一撃ならともかく、切り刻まれるのは嫌だな、と思う。誰が言い出したのかは不明だが、そうしなければ再生するとか、魂が残って人を呪うとか、噂があるらしい。怯えていた方が言っていたのもおそらく、そのことだろう。


 神獣にも生身の肉体があり、痛覚がある。

 当たり前だが、死にたくないという意思だってあるのだ。

 だからかれは駄目元で、自分を殺そうとしていた男へ訴えかけてみた。


『嫌だ』


 神獣の声は空気を伝う音ではない。心話という、意識に直接言葉を届かせる声に驚いたのか、男は一瞬呼吸を乱し後退る。白蛇に向けられたその顔が、恐怖の色に染まっていく。


「貴様、畜生の癖に魔法を使うのかッ」


 神獣と呼ばれるくらいなのだから特殊な能力を操るとしても不思議はないのだが、〝神殺し〟の一派は神獣を、人より知性の劣る忌むべき獣として蔑んでいるのだろう。

 強まる殺気に、白蛇は対話が逆効果だったと思い知る。

 それでも言わずにはいられなかった。


『なぜ殺されねばならない。私がオマエたちに何かしたか』

「神の再来を防ぐためだ。貴様らが地上にいる限り、神々がいつ降来するか解ったものではないだろう!?」


 彼らは、狂信者のようなものだ。

 神を信じないという教義を信仰のように掲げ、頑なに守り抜いている過激派。

 そういう手合いを言いくるめるほど会話に長けているわけではないし、逃げる力も方法もない。助かる道は、見つかりそうになかった。


 再び剣を掲げる男の動きに、覚悟を決めた――その時。

 鋭く風を切り裂く音が聞こえた。


「――ッてぇ!!」


 悲鳴をあげた男が、剣を取り落す。血の匂いを風が吹き散らし、鋭い音が再度空気を切り裂いた。


「このッ、小娘!」


 白蛇の目に、襲撃してきた者の姿は見えていない。入り乱れる足音に羽ばたく翼の音が混じり、それが鳥人の娘であることだけは理解する。

 何度かやじりが風を裂く音が聞こえ、彼女の武器が弓矢であることも理解した。


「シロ、逃げなさいッ!」


 甲高く空気を震わす音声が、身に覚えのない名を呼んだ。困惑する間もなく、大柄な男の身体がどさりと地に転げる。

 死んではいないようだが、完全に昏倒している。彼女の武器は毒矢なのかもしれない。


「もうっ、神獣のクセに気絶してるんじゃないのぅッ!」


 軽い足音を響かせて少女は白蛇の元へと走り寄り、いきなり胴体を鷲掴みにした。彼女の身長を超える蛇の身体を抱えきれず、余った尾を引きずりながらも駆け出す。

 ひゅ、と少女の真横を風が掠った。右往左往しているだけだったもう一人が、我に返って矢を射てきたのだろう。

 痛いと思っても言い出せない状況だが、彼女の表情を見るに、向こうの矢が当たる恐れはなさそうだった。


『気絶はしていない。封じられて身動き取れないだけだ』


 少女の余裕を見て、言うべきことは言っておこうと白蛇は思う。引きずられている尾は痛いし、意識はあるのだから会話もできるのだし。

 驚いたように、少女は黒い瞳をかれに向けた。

 一度瞬き、それから空を仰ぎ見る。彼女の視線の先にあるのは、あの、深く鮮やかな蒼天だ。


「掴まっててーッ!」


 手足のない相手に無茶なことを言いつつ、少女は白蛇の返事を待たずに翼を広げた。翼そのものではなく風の魔力を受けて、あっという間に地面が遠ざかる。

 尾を擦られるより数倍も恐ろしい我が身の覚束なさに、かれは何とか翼を動かそうと試みてみたものの、無駄だった。


 神狩りの男が用いたやじり降魔矢こうまやといい、魔力を封じる効力を持つ。それによって翼骨を砕かれたため、封じの術を解かないうちは身体を動かすこともできないだろう。

 彼女がその手段を持っているかは気になったが、それより気にかかるのは今の状況だ。


『死にたくない。落とさないでくれるか』

「落とさないよぅ」


 少女が応じて、笑う。朝日に歌う小鳥に似た綺麗な響きが、勢い良く通り過ぎる風に混じって散った。

 胴と翼を掴むてのひらに幾らか力を増して、少女は屈託なく尋ねる。


「シロ、お家はどこ? 送ってあげる」


 身に覚えのない呼び名だったが、どうやら彼女なりの仮称だったらしい。

 名前違いはさて置き、白蛇は自分の記憶を探る。家、故郷、あるいはせめて帰れる場所をと。――だが、今まで住んでいた森は焼き払われ、もう帰ることは叶わなそうだった。


『無い』

「じゃ、あたしンちに連れてく。綺麗にして包帯巻いてあげるから、安心して」


 意外なほどにあっさりと、少女は申し出る。

 神狩りの者たちが狙っている神獣を匿うということが何を意味するか、彼女は分かっているのだろうか。


『何故』

「別になぜでもイイじゃない」


 鳥人の少女はからりと笑った。

 利害や義務ではなく、そうしたいからだと言外に仄めして。


『私が怖くないのか』

「シロはどう、あたしが怖い?」


 黒い瞳に見つめられ、白蛇は戸惑った。

 怖いかどうかを判断するにはまだ何もわからないというか、いや――それよりも。


『私はシロではないのだが』


 蛇違いということはないと願いたいが、間違いであったら大変なことだ、と思う白蛇だったが、娘はきょとんと目を丸くし、相好を崩した。


「ごめぇん。名前解んなかったから、とりあえず呼んだの。ホントの名前教えて?」


 その拍子抜けするような返答に、脱力感と安心感が白蛇の全身を満たしてゆく。


 かれの名は、白夜びゃくやという。

 光の神の眷属の、闇の無い白き夜を示す語。肩書きと同じく此方も見事に名前負けだ――と思ってしまう。だから。


『いや。構わん、シロでも』


 殺されかけた自分をすくい上げたのは、この少女だ。彼女がそう呼ぶのなら、シロという名も悪くない、ような気がした。


「ぇ、構わんってー! 名前重要でしょ!?」

『いいのだ、オマエに見えた私がシロならば。オマエの名はなんと言う?』


 問い返せば、少女は少し黙ってから、ゆっくり噛みしめるように答える。


珂乃かない

『カナイか、憶えた』


 神獣と呼ばれるものの、神という肩書きは名ばかりで、かれには人を呪う力も神を招く力もない。そうでなければ、緑豊かな故郷の森を失うこともなかっただろう。

 そんな神獣よりもずっと、人は儚いものだ。

 だから護ってやれるよう、せめてもう少しだけ強くありたいと願う。


「うん、ありがと。シロのホントの名前も、いつか教えて」

『そうだな』


 せめて、名を聞かせて笑われぬ程度には役に立てるようになりたいものだと考えながら、白蛇の神獣は彼女とのこれからに思いを馳せた。



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