野球部の隅田

のべたん。

野球部の隅田

  野球部の隅田に恋をした。

 


 

 陽が上る少し前、隅田は誰よりもはやく朝練に来て、まだ朝靄のおりるグラウンドを、ひとり丁寧にトンボかけする。グラウンドを綺麗に馴らしたあとは、休む間もなくボールを磨く。

 しばらくして、だらだらとチームメイトが集まってくると、隅田は姿勢正しく元気よく、一人一人に挨拶をする。彼らと一緒にストレッチをしたあと、練習が始まる。

 まずは内野の守備練習。選手たちはそれぞれの守備位置について、監督の登場を待つ。

 サングラスをかけた強面の監督が、金属バットをぶらぶら振りながらバッターボックスに立ち、グラウンドの選手たちに向かって声を張り上げると、ぴりっと空気が引き締まる。監督はバスケットに詰め込まれたボールを手にとって軽く放る。一瞬間が空き、ボールがバットに当たる乾いた音が、ひんやりとした朝のグランドに響く。

 ボールはバウンドし、土が跳ね返る。セカンドで腰を落としていたひとりの選手が、弾んだボールに飛びつくが、ボールはグラブの

先をかすめて後ろへ転がってゆく。監督の怒号が大気を震わせ、さらに空気はぴりぴりと引き締まる。

 次に監督はショートを守る隅田の方に顔を向け、ボールを放り、バッドを勢いよく振り抜く。矢のように鋭い打球が飛ぶ。ボールは地面に触れた途端、弾けるようにバウンドして軌道を変えた。イレギュラーだ。しかし隅田は慌てずに、後方へ下がりながらボールを捕球するとファーストに送球した。

「おー」

 まわりの選手が、口々に感嘆の声をあげる。

 その後もノックは続く。尻餅をついてお尻を汚す他のメンバーを尻目に、隅田は素早く華麗なグラブさばきでどんどん捕球していく。素人目に見ても難しい打球も楽々と捕球してしまう。すごいぞ隅田。格好いいぞ隅田。

 それからお次はバッティング練習。これは守備練習も兼ねていて、外野も含め、各ポジションに選手が散らばってゆく。

 ピッチャーマウンドには、チームのエースが立っている。長身で陽に焼けた肌。時折覗く白い歯が際立つ。ユニフォームにはでかでかと「藤浪」の二文字が刺繍されている。

 隅田は左のバッターボックスに立ち、軽く足を開いてバッドを構える。ユニフォームの上からでも、自慢の太股の筋肉(本人はハムと呼んでいた)が張っているのが分かる。

 ピッチャー第一球。

 振りかぶって投げたボールは、隅田の胸元から、くの字に曲がり落ち、キャッチャーミットにおさまった。判定はストライク。

 隅田はミットの中のボールをちらと見て、袖口を少し引き上げ、バットを構えなおす。

 二球目。外角高めに投げられた球。再び同じ軌道で曲がり落ちる。隅田は視線を逸らさずに、ただ一点。落ち行くボールに照準合わせ、バッドを振り切った。軽快な金属音を残し、打球は澄んだ水色の空へと放物線を描いて飛んでゆき、そのままライトの頭上を越えていった。「藤浪」は悔しそうな顔で、茶色い地面をぽてぽて転がる白いボールを眺めている。その後も隅田はヒットを連発。「藤浪」涙目。

 チームの中で隅田だけが、あいつひとりだけが、輝いて見えた。

 けれどもあいつは、どれだけ才能があって、どれだけ練習を頑張っても、試合に出ることができない身体で生まれてきた。それでも毎日毎日飽きることなくバットを振り、白球を追いかけている。そんな健気な姿を見て、好きにならずにいられるだろうか。


 朝練が済んだ後、隅田は教室のいちばん後ろの窓側の席に座り、先生が授業する声を子守唄にしてうたた寝をする。西日に照らされ気持ちよく寝ている姿も好き。教科書を先生から見えないように立てて目隠しにして、すー、すー。と微かな寝息をかきながら、机に広げたキャンパスノートにきらきらした涎を垂らし、完全無防備な状態でいられる。そんな隅田も好き。すべてが好きだ。

 

 しかし、最近知ったことだが、なんと、このクラスの女子の中に、数名の隅田ファンがいるらしい。何てことだ。ライバルがいるのか。でも、どうせあいつらは安易に隅田のことを背も高いし、顔もカッコいい。意外と肌も綺麗よねー。とか、外面で判断しているのだ。そんなことは二の次。三の次だ。隅田の純情な野球に対する姿勢、誰でも分け隔てなく接することのできる優しさ。などなど、内面の素晴らしさにこそ目を向けてほしいものですな。そんな外面も内面も最高な隅田のいいところを頭の中で次々に妄想する。もちろん映像つきで。

 やばい。なんだか身体が熱くなってきた。

 はやくこの想いを伝えないと、どうにかなってしまいそうだ。そんなときはスマホでカレンダーを見ることにしている。机の中でこっそりとスマホに手を触れると、液晶画面が淡く光る。画面には2月の予定が表示されていて、1日だけ赤丸でマークされている日がある。


2/14 


 バレンタインだ。

 この日に絶対、隅田に想いを伝えるんだ。そう自分に言い聞かせて、気持ちを無理やり押さえ込むのだ。


 バレンタインを翌日に控えた休日の昼下がり。母に作り方を教わり、エプロンを茶色く汚しながら、生まれてはじめての手作りチョコを作った。それはチョコと言われてみれば、たしかに茶色くて甘い固形物ではあるけれど、なんだかぐずぐずのコールタールのようにも見えた。妹はリビングのソファで寝転びながら、こっちを見てにやついている。

 なにを笑っているのだ妹よ。というか貴様はチョコを作らないのか? それでいいのかmy sister。恋を知らない憐れな乙女よ。二度と戻らぬ青春の日を、ソファに寝転がって過ごしたことを後悔するがいい。

 そんなことを考えながら、ふと鏡を見ると、頬や額にチョコが張り付いていた。そうっと指先でつまみ上げ、舌の先にのせる。

 苦くて、甘い。これが、恋の味ってやつか?


 可愛い赤いリボンのついた紙箱は、母親が常々集めている空箱コレクションの中から拝借した。無印良品の紙袋に入れ、通学鞄の中にしまい、ベッドに寝転びながら目を閉じて、妄想を膨らませながら朝を待つ。

 次の日の朝、スマホのアラームが鳴り、時刻を確認する。5:30の表示を眺めながらベッドから這い出し、一階の洗面所で水をじゃーじゃー流し、眠気眼の顔を、ばしゃばしゃと洗いまくる。それから歯を磨き、寝癖をなおし、部屋に戻って制服に着替える。机上の通学鞄の中身を確認し、緊張がこみ上げ、少しえずく。 

 母が用意してくれたベーコンエッグを頬張りながら、チョコを渡すイメトレを繰り返す。空の皿をキッチンの洗い場に持っていき、スポンジでごしごしやっている間も、隅田のことが頭から離れない。

 通学鞄を持って玄関を出る。肌寒い空気。息が白いな。毛糸のマフラーを口元に持っていく。犬の鳴き声が聞こえる。林さん家のシベリアンハスキーのジョンだ。朝からご苦労様。自転車のカゴに鞄を入れると、くしゃっと紙袋の擦れるが音がした。ペダルを踏み込み、いつものように隅田のいるグランドへと向かう。

 火照っているのか、つめたい風が妙に心地よい。

 なんだか胸が、高鳴って仕方がない。心臓だけじゃない。身体中が熱を帯びている。高揚感てやつか、これが。

 シャーっと、街を見下ろす下り坂を自転車で降りていく。ブレーキは握らない主義だ。

 青いコンビニ、神社、先月潰れた中古車販売店の前を走りすぎる。

 だんだんと学校のグランドが近づいてくる。

 もうすぐだ。

 そう思った瞬間、


 いいではないか。別に、いまでなくたって。


 ふと、そんな考えが浮かんできた。

 自転車を止め、天を仰ぐ。雲が流れていく。自分がこんなにも臆病な人間だったとは。かなりショックだ。


 わかっている。恥じらいをもっともな理由をつけて避けようとしていることぐらい。

 いままで「好き」の二文字さえ言えなかった。だから今日、隅田にチョコを渡さなければいけないんだ。今日渡すことが出来なかったら、これからもずっと、この想いを伝えることはないだろうから。

 

 グラウンドには、怒号や掛け声が飛び交っている。既に朝練は始まっていた。本当は練習前に渡すつもりだったのに。心を落ち着けるために学校の自販機コーナーのベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら立ったり座ったりを繰り返した結果、ぐだぐだと時間だけが経ってしまった。改めて自らの意気地のなさに辟易するけど、いまさら後悔しても遅いし、何よりこのチョコは死んでも渡さないといけない。

 隅田の後ろ姿がフェンス越しに見える。

 普段は内野を守っている隅田だが、守備練習は、たまに外野の選手と入れ替えていたから、今日はたまたまその日だったみたいだ。

 いつもここから、あいつを見ていた。

 砂だらけのユニフォームでボールを追いかける。あいつの横顔はいつも真剣そのもので、けれども時折、ごくたまにだけれど、満足のいくプレーが出来たりすると、すごくうれしそうに顔を綻ばせる。そんなとこにも、惚れてしまった。やっぱり、好きだ。これはもう、どうしようもないことだ。

 紙袋から、チョコの入った箱を取り出す。

 金網の網目は、ぎりぎり箱が通るくらいの隙間があった。助かった。

 胸が張り裂けそうになる。やっぱりドキドキする。握りしめた手の温度で、チョコが溶けてしまわないかと不安になる。









 

「おい! 隅田」

 声をかけると、隅田は気が付き、振り返り、走り寄ってきた。

「阿久津じゃん。どしたの? てか、顔、真っ赤だよ!」

 震える手で、チョコの入った箱を差し出す。

「あたしに? 普通、逆じゃない?」

 隅田は笑った。笑い顔も可愛かった。

「ありがと」

 隅田は俺のチョコを受けとると、練習に戻っていった。

 

 



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野球部の隅田 のべたん。 @nobetandx

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