◆EPISODE:1「嗚呼、夢破れたり…?」

 そんな夢を抱いて抱えて早二十六年、スーツ姿もようやく板についてきた頃、私の携帯にある朗報が届いたのだった。

「―――はいッ、はい、有難うございます!こちらこそよろしくお願い致します!」

 電話の相手にも伝わるくらい興奮状態で通話が終わり、私は鼻息を荒くしたまま、空いていた第二会議室から飛び出した。

 ここは都内某所に事務所を構える、スターレットプロダクション。

 小さい頃からの夢はますます膨らんでいくばかりだった私、西園にしぞのそらは高校卒業後、東京へ出て四年大学のマス・コミュニケーション学科へと進み、卒業後はそのまま多くの芸能人が所属している現在の芸能事務所で芸能マネージャーとして働いている。

 本社の3Fの廊下を進んでいき、待たせていた人物がいる部屋のドアを勢いよく開いた。

「――――ッユート!!」

「わぁっ?」

 そのドアの音で驚く声は、男の子にしては少し高い。それが彼の売りでもあるのだ。

「そらさん、どうしたの?!そんなに息切らして…」

 無駄に広いビルの廊下を走ってきた所為か、少し酸欠気味になって肩で息をする私を心配してくれる優しいイケメン。

 身長170㎝。体重54kg。今年成人を迎えたばかりで無垢さがほのかに残っている童顔。クリーム色の髪、内跳ねの毛先。鼻のそばかすがチャームポイント。

 彼こそが今、人気急上昇中のアイドル――――ユートだ。

 私がこのステーレットプロダクションで初めてマネージャーを担当している男性アイドル。

「っはあ、はあっ…!や、やったよ!この間話してた雑誌で特集組んでもらえることになった!しかもあの原宿系雑誌の“overflow”だよ!」

「ええっ?!ほんとぉ?!」

「さっき連絡きて…っ、この間出演してた深夜番組観てくれていたみたいで、企画会議でもその話題が上がったんだって!来月号に載せてもらえるって!」

「嬉しい~っ!この雑誌のコンセプトに合ってるから、売り込みしたらイケるって前にそらさん言ってたけど、まさかほんとに載れるなんてっ!表紙にも出れるのかなぁっ?」

 ぴょんぴょん跳ねて大喜びするユート。さ、さすがに表紙までは…。

「表紙はまだ無理だろうね…」

「そっかぁ…」

「でも!こうして特集を組んでもらえるってことは、今が売り出し時だってことが周りにも伝わってきたってことなんだよ!」

「うんっ、そうだねっ!」

 表紙に出られないことで一度は肩を落としていたユートだが、私のフォローにふにゃりと笑みを零す。この笑顔こそが彼の一番の魅力なんだ。

『――――甘い王子のようなルックスに加えて、この甘くて癒しボイス、そしてマシュマロのようにとろける笑顔!マシュマロ系男子アイドル、ユートを是非よろしくお願い致します!』

 そんな彼の魅力を伝えるために売り込みに走った日々を思い出す。

 その笑顔を見て、私の涙腺が一気に緩む。突然泣き出しそうになった私に、ユートはあわあわと可愛らしい反応をみせる。

「そ、そらさんっ、泣かないでよぉっ!」

「ご、ごめんね、お、思い出しちゃって…」

「えぇ?」

 スターレットプロダクションのコンセプトは「小さな星々を煌めかせる」、そう、まさに私が求めているものだった。内定を貰った当初は死ぬほど喜んだものだけど、現実はそんなに甘くない。

 アイドルオーディションに受かり、事務所と契約を結んだ新人アイドルのユートのマネージャーを担当することになった、またまた新人マネージャーの私。

 二人して右も左も分からないことばかりだったあの頃。

 何度も挫折した。それでも、二人で支え合ってきた。

 なかなか芽が出ずに、方向性も定まっていなかったユートが落ち込んだ時は私が彼を支え、メディアへの売り込みも邪険にされ、全く見向きもされなかった私が落ち込んだ時はユートが慰めてくれたあの頃。

「嬉しい…っ、よ、ようやく…ユートが、認められ始めてっ……ほんとに、良かった…!」

 そしてここまで来れたんだ。

 先日発売のシングルCD、「マシュマロ☆BOYくん」はオリコン週間シングルCDランキング初登場17位。知名度も少しずつ上がってきて、深夜枠のバラエティ番組やネット番組の出演も増えてきている。今こそ彼がトップアイドルへ駆け上がるチャンスと私は考えている。

「えへへっ、俺がここまで来られたのは、全部そらさんのおかげだよぉ」

「違う!一番はユートの実力だよ!二年間の努力は無駄じゃなかったんだよ!」

「うんっ…」

 ユートは元々オーディションの頃から歌やダンスに魅力があった。

 だからこそそれを伸ばそうと私はトレーナーと相談しながら、ボイストレーニングやダンスレッスンを二年間みっちり仕込んだ。

 逃げ出したくなる時もあったはず。それでも厳しいレッスンを乗り越えた今のユートの歌やダンスの実力は抜群だ。ネットでの評価も良好で、新曲MVの動画再生もぐんぐん伸びている。

「っユート!」

 ステージで歌うユートはキラキラと輝いていた。もう十分アイドルとしても素質は育っている。

 これからは、ユートの時代だ。そう信じて、ここまできた。

 原石から、きらきらと輝く一番星へと変わっていくユート。その姿が今はハッキリと想像できる。

「…これからはもっと厳しい世界になるけど、…二人で、そして今応援してくれるファンと一緒に頑張っていこうね!高みを目指そう!!」

 涙ぐむ目をハンカチで拭った後、私は右手をユートに差し伸べる。

「うんっ!今度はもっと有名な雑誌にもっとバーンッと載れちゃうくらい、もーっともーーーぉっと頑張るっ!」

 その手をぎゅっと握り返しくれたユートは、持ち前のマシュマロスマイルを浮かべた顔で大きく頷いてくれた。

 アイドルを頂点へ導きたい、輝かせたい、そう思い始めて二十年。

 まだ夢は叶ってはいない。だけどようやく今、彼をスタートラインに立たせられたんだ。

「さあ、これからが勝負だよ!!目指せ!!トップアイドル!!」

「おーっ!!」

 私達の挑戦は、まだまだこれから。

 そうだよね?ユート?

 それから二日後。

 そこには誰もが知る有名な雑誌のトップ記事を飾るユートの姿があった。

『もーっと有名な雑誌に、ッバーン!と載れるくらい―――』

 ユートが言っていた通り、本当に「ッバーン!」と載っていた。






 ―――衝撃スクープ!有名人気女優××、男性新人アイドル『ユート』との歳の差不倫疑惑!

 ―――記者が捉えた、深夜の高級ホテルでの密会?!

 現在放送の月曜ドラマにも出演中の人気有名女優、××氏(37)に不倫疑惑が挙げられている。その相手は十七歳年下の『マシュマロみたいに、とろけciao♥』がキャッチコピーの新人アイドル、ユート(20)だという。

 二人は先週深夜0:00、都内某所の高級ホテルの前で抱き締め合っているところを目撃されている。その姿は月曜ドラマのシーンよりも情熱的だったという。(右写真参照)

 それから身を寄せ合いながら、ホテルの中へと消えていき、次の日の朝に時間をずらしてホテルから出てきた二人。夫の俳優、□□氏との夫婦仲が冷め切っている噂があった××氏が年下のユート氏と情熱的な夜を過ごしたのはその日だけではない。他にも―――――双方の事務所からのコメントはまだ――――


 有名なに、とんでもねぇスキャンダルを引っ提げて、「マシュマロの皮を被った人妻キラー、ユート」という新たなキャッチコピーで一面を飾っていた。







 ――――スターレットプロダクション、社長室。

「いやこんな形で“ッバーン!”と載ってどうすんじゃい!?」

 私は全身全霊でそう叫びながら、今週発売の週刊文秋の雑誌を「ッバーン!」と長テーブルに叩きつける。

「………」

 ソファに縮こまるように座るユートはひどく落ち込んでいて、記事の中にあった高級メンズブランドの店に入る前に撮られた有名女優の肩に腕を回す粋った優男とは到底思えない。

 ただの借りてきたチワワだった。

「ごめんなさい…撮られてるとは思わなくてぇ…」

「そうじゃなくて…そういう問題じゃなくて…!!そもそも、何で、そんな、…不倫なんてこと…!!」

 ユートと有名女優の××さんとの接点といえば、以前××さんがイメージモデルを務める化粧品の新商品のCMにユートが助演で出演していたけど…まさか、その時に?

「…連絡を取り合ったのはいつからなの」

「化粧品CMの撮影前の挨拶にいった時かなぁ…」

「…ぐ、ッ…」

 楽屋への挨拶には私も同行した。しかし、その後すぐに別番組のプロデューサーから連絡がきて、一度だけ私はユートから目を離した。その隙に連絡交換したというのか。

「でも、そらさんっ!最初はあっちが言い寄ってきたんだよぉっ!大先輩だし、それにあっちの方が事務所大きいし、断れないじゃんかぁっ…。もし断ったら…干されちゃうかもしれないって思ったし…」

「…ユート…」

 目を伏せるユートの悲し気な表情に胸が痛まないわけじゃない。

 …でも、

「…じゃあこの高級メンズブランドの時計とか、靴とか、××さんに買わせていたっていう記事は嘘なんだよね?」

「………」

「この記事にある写真だと、君がブランド店を指差して誘導しているように見えるけど気のせいなんだよね」

「………」

 私の問いに答えることなく、黙り込んでしまう。気のせいじゃないみたいだ。私達の会話を黙って聞いていたチーフマネージャーと社長は、ほぼ同時に溜息を吐いた。

「…ユート。この記事にはお前が他にも若いモデルやアイドルと関係を持っていると書いてあったが…それも本当なんだな」

 社長の追求にユートの身体がわずかに身じろぐ。彼が座っていた重厚な黒の革製ソファーが、ぎし、と軋む音がした。

「……っぅ、…うっ、だって、…だってぇ…俺も男だし…」

「…呆れた」

 そう呟くチーフマネージャーの言葉が私の胸に突き刺さる。

『西園さん。あなたみたいなやる気に満ち溢れた子、今時貴重よ。…期待してるわ』

 ユートのマネージャーを任された私に、チーフマネージャーはそう声を掛けてくれた。

 だが、結局その期待を裏切る形になってしまった。

「…社長、チーフマネージャー、申し訳ありません…!私の管理不足でこのような不祥事を起こしてしまい…ッ!」

 ソファに座ったまま項垂れるユートの隣に立っていた私は、上司であるチーフマネージャーと社長に必死で頭を下げる。けれど私が頭を下げたところで、他事務所とのスキャンダルが解決するわけじゃない。

「…あちらの事務所はユートの方から関係を迫ってきたと話している。どちらにせよ、マスコミにとっては良い餌だろうな…」

「………」

 アイドルのスキャンダルは最も気を付けなければならないことなのに、それを守ることもマネージャーの仕事なのに。

 所属タレントの携帯をマネージャーがチェックする事務所もある中で、私はプライベートを深くまで詮索することで彼にストレスが掛かるんじゃないかと思い、そういう管理は口頭だけに留めていた。

『ユート、今が売り出し時。今は仕事に集中してほしいから、厳しいかもしれないけど恋愛は禁止だよ』

『うんっ、大丈夫だよ。俺、そういうのに興味ないしっ』

 不倫の方には興味があったというのか。いや真っ当な恋愛を我慢した分の反動がこれだったのかもしれない。

 なにより私はユートを信じ過ぎていた。マネージャーとしての責任を軽んじていた。これはユートだけの所為じゃない、私の責任でもある。

「ねぇ、俺、どうすればいいの?謝ればまた活動できる?」

 心配そうに揺らぐ瞳が私を見つめる。ぐ、と言葉を詰まらせる私の代わりに、チーフマネージャーが額を押さえながら言う。

「……難しいわね。ただの恋愛云々の問題じゃないし。スキャンダルの内容が酷すぎて、払拭する機会を与えられるとは思えない」

 この間の雑誌の出版社からも、先ほど連絡がきて「今回の特集はなかったことに」との悲報が飛び込んできた。他の仕事のキャンセルの連絡も後が経たない。

「弁解の余地も無さそうだ」

 仕事を貰うために何千と歩いて、何百という時間を要した。

 けれど仕事を失うのはあっという間だ。頭の片隅でそんなことをぼんやりと思ってしまった。それでも思い出すのは、二人三脚でここまで来たユートとの記憶。

「…ネットも相当荒れているみたいよ。それにまだ週刊誌の方もネタを持ってそうだわ」

「………」

 ここで諦めたくなかった。

「すぐに謝罪文を手配するにしても、また新たな火種が出たらそれこそ面倒なことになりそうね」

「……じゃあ俺、クビなの…?」

「……とりあえず自宅謹慎よ。その後の貴方の処分は会議で決めるわ」

「………」

 チーフマネージャーとユートの会話を聞きながらも、私の頭の中で再生されるのは半月前のユートとの会話。

『目指せ!トップアイドル!』

『おー!!』

 不倫という最低な過ちを犯した彼だが、本当に反省しているのなら、迷惑をかけた関係者全員へ謝罪に回り、0から、いや、-100からやり直していきたい。

 きっと今まで以上に辛い道になるが、一緒に夢を誓い合った仲だ。最後まで付き合いたい。

「…ユート」

 そして私が俯くユートの肩にそっと手を添えようとした時。

「―――――ま、いっか」

 あっけらかんとした声が、社長室に響く。

「……は?」

 横目で捉えたユートは涼しい顔をしていて、「ん~っ」と伸ばしていた腕を頭の後ろで組む。

「クビでもいいよ。てゆーか、謝罪するのも面倒臭いしねっ!丁度ね、この間のパーティーで知り合った他の芸能事務所の女社長のお気に入りになれたから、ここ辞めても金には困らないだろうし!―――もともと俺、ヒモ志望だったんだよね」

「ひ?!ッも……?」

 とんでもねぇ下衆な発言に目を見開く私や社長。その開き直った態度を目の前にして、私は一瞬、横にいる男が別人にすり替わったのではないかと疑ってしまった。それほどまでに強烈な変わりようだった。

「オーディション受ける前は、もっとアイドルって楽できるものだと思ってたんだけど、案外売れないし、キツいし、しんどいしさぁ。マシュマロ系男子ってコンセプトも嫌だったんだよねー。なんか太ってるみたいじゃん?てか俺自身、渋谷系だし。どっちかっていうと三代目系?あと恋愛禁止とか、そらさんの考え全体的に古臭いんだよね…っ。そういうの今時流行んないよ?ほら、あるじゃん。一般的な会社でいうとクールビズ的な?必ずしもネクタイを締めなくちゃいけないって決まり、古いでしょっ?それと一緒。アイドルが恋をしちゃいけないなんて決まりもいらないはずだよねぇっ。あ、誤解しないでねっ、あくまでもこれは俺の意見だから、そらさんの考えが悪いってわけじゃないよっ」

 思考が追い着かない頭で何とか理解したのは、ユートは原宿系ではなく、渋谷系で三代目系だったということだ。ランニングマンだかジョギングマンだかを踊る系だったらしい。

「……ゆ、ユート?君、何を言ってるの?あんなに、二人で頑張ってきたのに、こんなところで諦めるの?!トップアイドルになるって、話してたよね?!」

 ユートは私の精一杯の訴えを欠伸を掻きながら聞いた後、小さく苦笑を零した。

「いやいや、それ、社交辞令って分かんない?そらさんは俺より六つも年が上なんだから、フツー年上に話を合わせるものでしょ」

 じゃあ今も合わせてくれよ、と言いたいが。

「……ッ」

 言いたい、ところだが。

「俺ももう二十歳で、将来のことをちゃんと考えなきゃいけない時期だしねっ!アイドル“なんて”安定性なさそうだし、辞める良いきっかけになったよ!でもこうして金持ちと引き合わせてくれたんだし、アイドルになれて良かった!俺をアイドルにしてくれて有難う、そらさん!」

 ヒモの方がどう考えても安定性ないよ、ユート。ヒモに理想抱きすぎだよ、ユート。

 そう言いたいけど、上手く言葉が出てこない。全身が固まって動けない。

 ユートは清々しそうな表情でソファから立ち上がり、唖然とする私や社長達に頭を下げた。

「二年間、お世話になりましたぁ!」

 熱意の籠っていない礼を終えて顔を上げたユートは、甘くてとろけるようなマシュマロスマイルのまま口を開く。

「今日限りで、アイドル辞めさせていただきますっ!」

 堂々の引退宣言をしてからすぐ、ユートはスターレットプロダクションを去り、それ以来一度も事務所に姿を現さなくなった。失踪した、という方が正しいのか。恐らくどこぞの女社長のヒモになったんだと悟った。

 そして爆弾や手榴弾をいくつも投げ込んだユートが事務所から去って一週間、ようやく私は気付いた。

 あ。私の夢、破れたんだ。

 こうして私が導こうとしていたアイドルは、輝く一番星になるどころか、――――自ら“ヒモ”になることを選んだのだった。



『―――― 一時の気の迷いで、夫や事務所、そして、ファンの方々を裏切る様な真似を、…うッ…うぅ…本当に申し訳ありませんでした……今後はこのようなことがないように――――』

 さすが実力派女優というべきか。

 マスコミの質問攻めをすべて当たり障りなく、一時の気の迷いで行ってしまった不倫を本気で反省しているように神妙な面持ちで謝罪会見を行う有名女優の××氏の様子が会社のテレビで放送されていた。

「…一時はどうなるかと思ったけど、こっちもちょっとの損害で済んで良かったよね…。ま、ユートのも一応メディアには責任を取っての引退になってるからね、これ以上マスコミも叩きようがないかー」

 あのスキャンダルの一件で一時はどうなるかと思ったが、相手の事務所も事を大きくしたくなかったようで、有名女優の××さんの謝罪会見でとりあえずこれ以上問題が広がることはなさそうだという。

 しかし、

「―――ねえ、聞いた?西園さん、会社辞めたんだって」

 問題のアイドルのマネージャーをしていた私の問題は消えない。

「…うっそ、マジで?」

「自主退職?…まあ、気持ちは分かるよねー。手塩にかけて育ててきたアイドルにあんな形で裏切られたらさー…」

「でも勿体ないよね~。折角大手事務所に就職できたわけなのに。ここに就職できて感激ですーって、この間の飲み会でもすっごい語ってたのに…」

「やる気は誰よりもあったから、余計に今回のことが辛かったんじゃない?」

「あんな事あってからじゃ、事務所にも居辛いでしょ。ま、担当のアイドルはしっかり見張らないとダメってことで、他の社員にも示しがついたんじゃない?」

「でもここ辞めて、西園さんどうするの?もう次の就職先決まってるワケ?」

「実家に帰るって言ってたよ」

「実家って、…ああ、前にも言ってたよね。たしか古い芸能事務所やってるっていう――――」

 ユートが失踪を遂げてから二週間目が経ったある日、会社のトイレの鏡に映った自分の姿を見て、「あれ?落ち武者?」と見間違えるほどに自分がやつれていることに気付いた。

 事務所に自分の居場所がないことも、薄々気が付いていた。居てもたってもいられず、私はその日に辞表を提出した。問題のアイドルとそのアイドルに捨てられた落ち武者のように陰気なオーラを纏う私がいなくなって、スターレットプロダクションの社員たちも一安心だったと思う。妙に気遣わせてしまい、他の人の仕事への支障も出てしまいそうだったから。

 …これで、良かったんだ。

 その足で自宅のマンションに帰った私は真っ暗な部屋で一人、こう呟いた。

「そうだ、田舎に帰ろう」

 思い立ったが吉日、ようやく住み慣れてきたマンションを引き払い、荷造りを終えた私の手には帰りの新幹線の切符があった。

 東北行きの新幹線に乗り込む私は、ふと大学進学のために都会へ上京してきた時の心境を思い出す。

 あの時は両腕では抱えきれないほど大きく膨らんだ夢を抱き、はち切れんばかりの夢に胸躍らせながら、東京行の新幹線に足を踏み入れていた。

 それから八年。そんな若気の想いは全て都会に置き去りにして、空っぽの状態で田舎に帰る今の状況を考えていたら、ふっと苦笑いが零れた。

『―――東北新幹線をご利用いただき、有難うございます』

 車内アナウンスが流れ、東北行きの新幹線が発車する。

 案外傷は深くないのか、不思議と涙は出てこなかった。全てのことが新幹線の如く猛スピードで過ぎ去っていくため、感傷的になる暇もないらしい。

 駅弁を貪りながら私はこれからのことについて考えていた。

 帰ったらハローワークへ通いつつ、次の職場が見つかるまで実家の事務所の手伝いをしていこう。

 東北の実家は元々小さな芸能プロダクションを経営していたが、所属していたタレントは一向に芽が出ないことで次々と辞めていき、経営は火の車となった。そうして私が中学生だった頃には、ほぼ地域のイベント企画や運営を主に仕事として生計を立てていた。

 夢が不完全燃焼のまま打ち切られたのは悲しい。

 けれど夢が消えたとしても、私の人生は終わっていない。

 年金生活までまだまだ先は長い。金を稼いで、ご飯を食べて、生きていかなければならない。

「仕事…どうしよう…事務職とか募集あるのかな…」

 そうしてスマートフォンで実家近くの事務職を募集している企業がないか検索する。

 一度挫折して落ちるところまで落ちたからか、もうこれ以上落ちることはないだろう。そう高を括っていた私。

 けれど、一難去ってまた一難。

 一度挫折した人間にも人生様という奴は、そう簡単に甘くはならないらしい。


 久々に帰ってきた故郷、そして高校までずーっと住んでいた私の実家。木造共同住宅の一室を事務所として使用している西園芸能事務所のドアの立て付けは古くなっていて、少し叩けばすぐにぶち破られてしまいそうだった。

 ―――ドンドンッ!

「―――西園さーん、いるんでしょー。開けてくださいよー。つか今日の十三時に回収しにきますからって連絡しましたよねー?約束守れる女って俺好きだけどなー」

 ドアに打ち付ける拳の振動が背中にびりびりと伝わってくる。

「そら姉ッ…も、もうッ、限界…ッ!!」

「せ、星奈せいなっ!…もう少し頑張っ、」

 ドアがぶち破られることを恐れて、反対から女二人分の体重で何とか押さえているこの状況を誰が想像できただろうか。少なくとも、数十分前に実家へ帰ってきたばかりの私には想像が尽かなかった。

 地元の大学に入って実家から通っている妹の星奈は、何となく今の状況を察知しているみたいだが、追及している暇はなさそうだ。

「―――おい、どけろ。テメエのやり方じゃ埒が明かねえ」

 ただ、

「えー、でも鮫木さん。たしかこの事務所に今いるのって、あの若い大学生の娘だけですよねー。あんまり乱暴しちゃ可哀想じゃないっスかー?」

「あめーあめぇー。お前は甘すぎんだよ。口調も甘けりゃ、中身も甘々かテメエは、このボケ」

「俺って甘ちゃんなんスよー。知ってんだったら、もっと甘やかしてくださいよー」

 ドアの向こうにいるを、事務所に招いてはいけないことだけは本能的に察していた。

「だーってろ!!オイ!!いるのは分かってんだよ!!本来だったら先月に事務所の中身全部差し押さえしてるところだったのを見逃してやったのは誰だと思ってんだ?!あ"あ?!」

 しかも訪問者は一人じゃない。もう一方の男の怒号にも似た声がドア越しに聞こえてくる。

 男達は、堅気じゃない。間違いない、これは、

「今金返せねーんなら、土地売り飛ばしてでもどうにか金作れって言ったはずだろーが!!なあオイ、娘さんよぉ!!」

 ――――――借金取りだ。

 今ドアを挟んだ向こうにいる男達からは、「汗水流してお金稼いでます!」などという真っ当なオーラは一つも感じられない。その姿は見えていないが、声や口調からガンガン滲み出ている。

 …それより、借金?いつ?誰が?

「星奈…借金って…この事務所の…?それに父さんはどうしたの?」

「………」

 隣にいる星奈に小声で訊ねるが、言い辛そうに下唇を噛んで俯くばかりだった。

「…星奈…?」

 顔を覗き込もうとした時、不意にドアを叩く音が静まる。

「ダンマリかよ。仕方ねえな。…おい、八戸咲。とりあえず下にある車を差し押さえとけ。娘のアンタがだんまりじゃあ、やっぱり保証人の父親のとこ行くか。入院してる病院は、この近くだと旭病院か?」

「ういーッス」

「…ッ!!」

 入院?!保証人?!父さんに一体何があったの?!

 またまた新たな話が耳に飛び込んできて、私の頭はショート寸前だった。何が何だか分からず戸惑う私に、ようやく星奈が口を開いた。

「……っ事務所に入ってたアイドルの子が、…ホストか何かに貢いで借金してたみたいで…、お父さん…っその子の保証人になってたの…っ!!それで、その子と連絡が取れなくなって…お父さんが借金返すことになっちゃって…っ何とかお金返そうとしてたんだけど…っ、昨日、倒れて…っ病院に運ばれたの…」

 ドラマでは何回も見たような話だが、まさか現実で、まさか実家で再現されるとは思わなかった。頭を抱えたくなる。人の好いお父さんのことだ、自分が可愛がって育ててきたアイドルを実の娘のように思っていて断り切れなかったんだろう。

「保証人…っ?!それに倒れたってっ……?!うそ、…お父さんが…っ?!あんな、…健康だけが取り柄のお父さんが……っ、だ、ッ大丈夫なの?!」

「昨日…っ、お父さんが食べた生牡蠣があたったみたいで…、一週間は入院が必要だって…」

「あ、ストレスとかは関係ないんだ」

 とりあえず命の危険はないようで安心………してはいられない。

 駐車場に停めていたお父さんのボロ車を差し押さえに行くのか、カンカンとアパートの階段を下りる音が聞こえる。

 このままじゃ、入院している父さんに被害が出てしまう。闇医者と共闘して父さんの内臓が持っていかれてしまうかもしれない。

 私は意を決したように、ドアノブをぐっと握り、

「…ッ…え?!そら姉ッ?!」

 そのまま思いっきりドアを開いた。

「――――待ってくださいッ!!」

「あ"あ?」

 慌てて事務所から飛び出して、階段を下りている途中の借金取り二人を呼び止める。どちらも体格の良い柄の悪そうな若めの男だった。

「アンタ誰だ?……もしかして東京で働いてるっつー、長女か?」

「…はい」

 黒髪をオールバックにした黒いスーツの男は、金髪の長い髪に派手なヘアバンドをした男に「書類、寄越せ」と催促する。大きめの真っ白なパーカーを着た金髪の男は、その手に持っていたサラリーマンが持つようなビジネスバックの中から何枚かの書類を取り出して隣に手渡す。

 それに一通り目を通した後、鋭い一重の目で階段の前に立つ私を見上げる。家族関係なども調べられていたのか。

「…ふーん、間違いねえみたいだな。何だ?父親か妹に連絡受けて帰ってきたのか?」

「いえ、仕事を辞めて実家に帰ってきたら、このような事態になっていて大変混乱してます」

「へえ、そりゃあ災難」

「あわわ…そら姉っ…何してんの…っ!」

 事務所のドアからこっそりと私達の様子を窺う星奈。あと少し恐怖ゲージが上昇したら、私を置いてドアを閉めてしまう勢いだ。

 でもここで帰したところで、結局また後日同じことになる。それなら、今、ここで一度話をした方が早い。

「…どうぞ、お入りください」

「あわわわわわ…」

 星奈が閉じかけていた事務所のドアを無理やり開けて促すと、オールバックの黒髪の借金取りはにやりと笑った。

「中に入れてくれるのは有り難いが、コーヒー出されたくらいじゃ満足しねーぞ」

「オレンジジュースなら満足ですか」そう返すと、もう一方の金髪の借金取りは少し拍子抜けしたように垂れた目を丸くした。

「意外にも肝の据わったオネーサンっすねえ」

「ンなわきゃねーだろ、よく見ろ。脚が震えてる。こりゃ、たっぷり絞れそうだな」

「………」

 この先どうなるんだろう。

 なんて他人事のように思いながら、借金取り二人を家に通した後、震える手でドアを閉めた。いつでも逃げられるようにと、鍵は開けたまま。


 赤銅色の長ソファにどかりと座る態度のデカいオールバックの男。その隣で長い足を高々と組み、鼻歌を口遊みながら事務所の中を見渡している金髪の男。恐らく金になる物に見当をつけているんだろう。

 一応出したインスタントコーヒーには、二人共、口一つ付けていない。

「はいこれ名刺」

「………」

 怪しさ満点の金融会社の名刺を差し出され、私はそれを黙って受け取る。

「…つーかね、アンタの父親の事務所には別の借金もあんだよ。これはバッチリ父親のもの。300万円。アンタの父親が連帯保証人になったブスなアイドルの借金は1200万円。トータル1500万円」

「せん、ごひゃく……ッ!?」

 売れっ子アイドルの稼ぎ様を見ていた、スターレットプロダクションにいた頃の私だったら特に驚きはしない。けれど、今、職無しの私には少ない貯金しか手元にない。

「………」

 軽い眩暈がした。…けれど、まだ西園事務所には頼みの綱があった。

「…借金の件ですが、弁護士の山里さんを通して話をしたいんです。彼をここへ呼んでも…構いませんか?」

 西園事務所の顧問弁護士をしてくれている山里さんだ。昔から父がお世話になっている彼がこの場にいたら、少しは状況も変わってくるはず、だが。

 私の隣に座る星奈が諦めたように首を振った。

「…そら姉。ついこの間、山里さんから親の介護で一時仕事から離れるって連絡がきたんだよ」

「ッえ」

 ほんとに神様という奴は、私をどん底まで突き落としたいようだ。

 彼らを事務所へ入れたのは、顧問弁護士という頼もしい味方がいるからだ。それなのに辞めたとなると…この状況を打開する案は…案は…もう…!!もう…!!

「すみません!!返済はもう少しだけ待って頂けませんか!」

 謝るしかない!

 勢いよく頭を下げて懇願する。私はここ最近で何回頭を下げればいいんだろうか。「命運尽きたな」オールバックの男はそう言いたげな貌をしている。

「待ったとしても…こんなでけえ金、返す当てがあるのか?しかもアンタ仕事辞めてきたんだろ?」

「………」

 オールバックの言うことは、もっともだった。

 返す当てなどない。一瞬、自己破産の言葉が頭に過る。この事務所を手放し、他の弁護士に相談して自己破産の手続きをすれば…。でもこの事務所には、私が知らない父さんや母さんが作り上げた歴史がたくさんある。簡単に手放すことなんて、……。

「しっかし、どのアイドルも見たことない子達ばっかりッスねー」

 私と上司と思しき男が話している間、事務所の壁に貼ってあった西園事務所に所属していたタレントのポスターをつまらなそうに眺めていた金髪の借金取りがそう呟く。

「ああ。結局どいつも芽が出ない、才能の無い自分に気付いて挫折したか、こんな辺鄙な地域にある小せぇ芸能事務所でアイドル目指しても先がないことに気付いたりで、全員辞めたんだろ。あのホスト狂いのどうしようもねー借金女と同じで」

「………っ」

 オールバックの借金取りの言葉を聞きながら、悔しそうに下唇を噛む星奈。恐らく事実なんだろう。

「散々可愛がってきたアイドルに、こんな形で“裏切られる”たあ、あの社長も可哀想だな」

「………」

『手塩にかけて育ててきたアイドルに裏切られるなんて―――』

 笑ってしまう。だって、おかしい話だ。親子二代に渡ってアイドルに振り回されて、ほぼ同じ時期に挫折を味わい、転落人生を辿っているのだから。私に東京で就職することを進めたのは父さんだった。

『マネジメントもプロデュースも、“そら”なりのやり方があるはずなんだ』

『―――流石わが娘!見る目があるなあー!将来が今から楽しみだなあ!』

 ごめん、父さん。

 期待に応えられないまま戻ってきたダメな娘で、本当にごめん。

「稼ぎ頭もいねえ芸能事務所に希望なんてねえよ。事務所の方針で金が稼げねえなら、俺らのやり方で稼いでもらう」

「あなた達の方法って…」

 おもむろに立ち上がったオールバックの借金取りは、向かいのソファに縮こまるように座っていた私達を冷めた目で見下ろす。

 このオールバックの男、わりと顔も整っていて低い声も耳心地が良い。強面キャラとして売り出せば成功しそうなルックスをしている。職業柄なのか、こんな状況でもそんなことを考えてしまう自分が憎い。

「幸いアンタらはまだ若い。風俗でがんがん稼がせてもらうぜ」

「…ッ!!ちょ、ちょっと待ってください!!風俗って…そんな、わ、わたし、二十六で、もうすっかり仕事疲れで干乾びてますし…」

「大丈夫だ。肉付きが悪くて多少くたびれて寂れてる女がそそるっつー客も多い」

「っしかもアンタって、妹はまだ学生なんですよ?!」

 相手が借金取りだということも忘れて、噛み付かんばかりに喚く私。横に座って顔を青褪めさせる妹を庇うように抱き締める。

 その時、私達の姿を捉える一重の目が、すっと細まった。

「関係ねぇ。金になりそうな物は骨まで残さす頂戴するのが俺らの流儀だコラ」

「…私が、ッきゃ、キャバクラで必死で働きますからっ!」

「ダメだ」

「っ……そんな…」

「鮫木さーん、あんまりいじめちゃ可哀想ッスよー。はじめは二人共キャバクラで働いてもらいつつ様子見でいいんじゃ、」

「八戸咲、じゃあテメエが足りねぇ分の金出してくれんのか?」

「あー、出しゃばってスンマセーン。オネーサン、ソープランドに沈められた時は俺も客として通いますから安心してください」

 どう安心しろというのか。

「………」

「そ、そら姉っ…」

 ぎゅ、と私の腕に縋る星奈の指先に力が籠るのを感じた。すると向かいから大きな手がこちらへ伸びてきて、私の手首を掴み上げる。

「…ッ!」

「悪ぃがもうアンタらにそれ以外の道はねぇんだ。とりあえず今から店の店長にお前ら二人紹介すっから立て」

 想像以上に強い男の力にもう逃げ場は無いことを悟る。

 そうだ。私の隣には大切な妹がいて、父だっている。私が高校に入った時に亡くなった母だって、家族がいるんだ。

 今私が守るべきものは、夢じゃないんだ。

 事務所は手放す―――――そう決意しようとした瞬間。

 私の決断を遮るように、事務所の中で誰かの歌声が響く。

 さっきまで事務所に漂っていた陰鬱な雰囲気を全て吹き飛ばしてしまうくらい、爽快で凛とした男性の歌声。

「………」

「………」

「………」

「………」

 その声は事務所に置かれたテレビから聞こえてきて、

 その声の主は誰もが知っている、―――男性アイドルのものだった。

「……あ。これ、の新曲だー。相変わらず良い歌うたいますよねー」

 金髪の男が事務所に置いてあったテレビを指差す。丁度エンタメ情報を放送しているのニュース番組が流れていた。

「…ああ、タクトな。アイドルっつー部類は嫌いだが、アイツは良いな。魂で歌ってるしよ」

「うわ、鮫木さん言い方古ッ」

「るっせーよ!!」

 もう私の耳には、二人の借金取りの会話など届いていなかった。

「……」

 彼の愛称をぽつりと呟いた。

 ―――男性アイドルグループ「Run blitz」、メンバーの平均年齢は既に二十代後半のベテランアイドルだ。

 彼らの中にアーティストとアイドルの境界線などは存在しない。

 高いルックスに加えて、他メンバーの高い楽器演奏技術と、リーダーである“タクト”の魂が震える真っ直ぐな歌声に、老若男女すべてが引き込まれる。海外でも熱狂的なファンが多くいる。

 デビュー曲のシングルCDはオリコン初登場1位。全盛期の頃と変わらず、出すCDはどれも必ずオリコンチャート首位を獲得している。

「Run blitz」のデビュー後、結果や人気を含めて、彼らを超えるアイドルグループは現れていない。いや、そう簡単に現れてほしくないと思う自分もいた。

 何を隠そう私自身「Run blitz」の大ファンで、そして、リーダーの“たっくん”に衝撃を受けて、今の道を選んだのだから。

 そう簡単にいかなくとも、彼らと同じような、いや、彼らを超えるアイドルをプロデュースしたい、そう思ったきっかけは今と同じ状況だ。

 テレビ越しで歌う彼の姿を目にして衝撃を受けただけ。

 そんな些細なきっかけで、ここまで熱中する夢ができたんだ。

『――――足元なんか、今は見なくていい』

 新曲のワンフレーズが流れる。それだけで私は目の奥がじんと染みた。

「男にも人気ッスよねー、俺も新曲ダウンロードしちゃいましたよ」

「テメエが車でコイツの歌流すから、俺も覚えちまっただろーがボケ」

 ほら、やっぱりアイドルって凄い。

 たった一つの歌で、こんな怖い奴らの動きをいとも簡単に止めてしまうんだから。

 鮫木と呼ばれる怖い男も、八戸咲と言う軽そうな男も、妹も、みんな、“アイドル”が映るテレビに釘付けだった。

 ああ、悲しい。ずるいよ、たっくんズルい、ずるい。

「ッう、……」

「?どうした、おい?」

 折角、諦めようと思ったのに。

「……っぅ、……っう、ううッ」

「……おい、アンタどうした?」

「…っやっぱり、私、…ッ…あ…」

「…?あ?」

「―――――ッ、アイドルが、好きだァッ!!」

 心からの叫びだった。

「うおッ?!何だぁ?」

 いきなりソファから立ち上がり、そう高らかに宣言した私の目からは滝のような涙が流れる。ぽろ、ぽろと可愛らしい涙ではない、本当に濁流のように汚い泣きっぷりだった。

「そ、そら姉っ…?」

「…ッまだ叶えられてないのにっ…アイドル、輝かせられてないのに…ッ、こんなところで、足元ばっかり見て、…途中で立ち止まって、そのままがけ崩れみたいに落ちていくだけの負け犬人生、絶対に…嫌だ!!」

 ユートのスキャンダルがあった後、大好きだった仕事を辞めても、涙など一つも流れなかったのに。

 子供の頃からの夢を手放すのにも関わらず、今までの私は妙に冷めていて、「こんなものか」と拍子抜けていたが、それはただ自分がもう大人だからと感情に蓋をしていただけだった。

 アイドルの歌声を聴いて、一気に感情が溢れだす。

「まだッ…っま、マネージャーっ、やりたかった…ッ!!裏切られたとしても、―――――まだ夢は捨てたくないぞおおおおおッ!!」

「………」

「こちとら生まれてこの方アイドル育てることに命かけてきたんだッ!!そう簡単に諦められるかちきしょーーーーーーッ!!」

 やっぱり、悲しいんだ。悔しかったんだ。

 恥も外聞も捨てて、私はただひたすらに、がむしゃらに泣き叫んでいた。そんな姿に二人の借金取りはドン引きしているはず。そう、思ったが。

「……ぐすッ」

「エ、鮫木さんなに泣いてんスか。もらい泣きッスか、ウケる」

「ッバカ、な、泣いてねーよ!!」

 慌てて目付きの悪い目を擦る鮫木という男。

「っう、うっうぅっ」

「ぐすッ、…アンタもいい歳してわんわん泣いてんじゃねーよ!みっともねーなあ!」

「オラ!使え!」とポケットティッシュを差し出してくるあたり、案外悪い人ではないのかもしれないという気持ちが湧き始めるが、ポケットティッシュに挟まっていた風俗の広告を見て、それはまやかしだと悟る。

 ようやく落ち着きを取り戻してきた私は鼻を啜り、向かいの男達にぺこりと頭を下げる。

「有難う、ございます…。すみません、御見苦しいところをお見せしてしまい…」

「俺らは職業柄もっと御見苦しい奴ら見てんだよ、これくらいで見苦しい言ってられるのは今の内だぜ。これからは風俗でがっぽり………と、言いてぇところだが」

「…?」

 言いながらソファに腰掛けた鮫木さんは、唇で銜えていた煙草の先端に火を点ける。

「アンタの雄叫び聞いて、気が変わった」

 両腕を背もたれの後ろに回し、そのまま部屋の天井に向かって煙を吐き出した。

「なあ、風俗よりがっぽり稼げる職って何だか分かるか?いや、どの職業よりも稼げるやつだ」

「……えー、と…」

「さっさと答えろ。今すぐ風俗に売り飛ばすぞ」

 その問いに対する答え次第で、私達の未来が変わってくる。そんな気がした。それでも今の感情を露にした私にとって、その問いへの答えは一つだった。

 乾いた唇をゆっくりと動かす。

「アイドル、です」

 私の答えを聞いて、鮫木さんはニヤリと笑った。今まで以上の極悪面だった。

「…へぇ、そう。じゃあそれが正解なのか、アンタが俺に教えてみせろ」

「…え?」

 …へ?

 呆けている私の顔を見て、鮫木さんは「鈍い女だなテメエ」と少々苛立ったように吐き捨てた。

「東京のでけえ事務所の芸能マネージャーやってたんだろ?それなりにプロデュースのスキルはあるはずだ。もう一度このオンボロ事務所で、金が稼げるアイドルを作ってみせろよ」

「…そ、それって、」

「借金なんて鼻で笑い飛ばせるくらい。…そうだな、あの“タクト”なんて雑魚だと思えるくらいのアイドルだ」

「…っ!!」

「借金返済の期限は俺の気分次第。俺が飽きたり、もうアンタに期待できないと思った時が本当の最後だ。アンタを売って絞るだけ絞って金を作る」

「ひえ~、そんなことしちゃっていいんスか~?」

「いいんだよ、社長は俺だ」

「どっちが甘ちゃんなんだかー」

 同情なのか。それとも本気で私に賭けようと思ってくれたのか。将又、ただ面白がっているだけなのか。恐らく答えは後者なんだろうけど、今はそんなことどうだっていい。

 これは地獄へ堕ちる寸前の私に与えられた、最期のチャンスなんだから。

 菩薩でも仏でも神様でもない。そんな善人とはほど遠いような極悪面の借金取り様がくれたチャンス。だからこそ、このチャンスをものに出来なかった時の代償は大きい。

「成功したら借金が返せる上に、泣くくらいやりたかったアイドルのマネジメントも続けられるんだ。一石二鳥だろ」

「………」

 アイドルと金をイコールさせる考えは気に入らない。けれどそれはあくまでも建前として頷いておく。アイドルにはお金なんて非じゃないくらいの価値がある。それを彼らに証明できるくらいの輝かしいアイドルをこの手でこの足で導くんだ。

 私は結論を出す前から、もう既に胸躍らせていた。

 まだ、夢を追い掛けられるんだ。

 それなら悩む必要なんてない。

「そら姉…、ほ、本気なの?」

 星奈の不安そうな声が横から聞こえる。

 その声色に一瞬胸が締め付けられるが、覚悟を決めた私は大きく頷いてみせる。

「ごめん、星奈。もう少しだけお姉ちゃんのこと信じてほしい」

「…あんまり、期待はしてないけど…」

「ぐさッ」

「もう頼れるのはそら姉だけだから…信じてみるよ。私も協力する」

「…星奈…!」

 感極まって「有難う!」と抱き着く私に対し、それをハイハイと受け流す星奈は「万が一のことを考えて夜逃げの準備もしとかないと…」と小さく呟いていた。

 藁にも縋るような思いではなかった。

 トップアイドルと位置付けられてもおかしくない人気アイドルグループ、「Run blitz」に触発された今の私は、アイドルが出演しているテレビに釘付けだった子供の頃のように胸弾ませていた。

「それで?やれんのか、やれねぇのか。俺らも次の仕事があんだよ、あと五秒で決めろ」

 本気で私は、

「やります」

 小さい頃からの夢をずっと抱き続けていた自分に、

 そして、

「やらせてください。この西園芸能事務所から、全国民をめろめろに魅了してしまうような、トップアイドルを出してみせます」

 ――――まだ見ぬアイドル達に、賭けてみようと思った。

 私の返事を聞いた鮫木さんは、「交渉成立だ」と言って笑った。

 私は地獄の一歩手前まで落ちてきた負け犬だ。

 妹や借金取りの前で駄々を捏ねるように大泣きしてまでしがみ付こうとした夢、そう簡単に諦められない。もう怖い物なんてない。地に這いつくばって泥水啜ってでも、叶えてみせる。まだ誰にも見つけてもらえず、輝き切れずにいる原石を探し出して、この手で輝かせてみせるんだ。

 売れれば天国。売れ残れば地獄。

 負け犬、そらの一世一代の大プロデュースが、今、始まろうとしていた。

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血湧ケ、肉踊レ! @kasekizawa_0302

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