ライ麦のパン⑧ ライ麦のパン

 その時ふと、リュドが放るように牢獄の中に置いたままにしていた黒パンの載った盆がアデールの目に入った。

 これまでの食事の量から考えるとやや多めの数切れの黒パンは、無造作に白皿の上に載っていた。


 アデールはその黒パンを見て、牢獄に入れられてからの自分の食事について考えた。


(そういえば私は、もうずっと誰かと食事をしていないですね)


 元々そう食に興味がないために気にしていなかったが、アデールは自分が何十日も食事を一人でとり続けていたことを思い出した。

 するとこれが最後にするべきことなのかもしれないと、アデールに一つの考えが思い浮かぶ。


 それは小さなことだが、アデールとリュドにとっては大きな意味があるように思える行為だった。

 もう他に自分にできることはなさそうなので、アデールはその考えをリュドに伝えることにした。


「じゃあ少しだけわがままを言っていいですか」


 得た答えを胸に、アデールはリュドにそっと声をかけた。

 単なる諦めでも謝罪でもなくなったアデールの言葉は、やわらかく牢獄内に響いた。


「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ。いちいちもったいぶるな、あんたは」


 やっと少しは傷付けないで済むような想いを見つけたアデールの変化に、まだ涙の乾いていないリュドもきまりが悪そうに普段通りに近い反応を返す。


 その聞きなれた憎まれ口にほっとして微笑み、アデールは最初で最後の願いを口にした。


「それじゃあ、言いますね。私はあなたが持ってきてくれたこのパンを、あなたと二人で一緒に食べたいです」


 リュドと二人で食事を分け合って食べること。それがアデールの望みだった。


「そんなことして、何になるんだ」


 突然のアデールの頼みごとに、リュドは困惑した様子で目をそらして答えた。

 どうやらアデールの願望がこうした性質のものだとは、まったく想像していなかったらしい。


 アデールは受け答える前に、皿の上からパンを一切れ手にするとそのまま半分にちぎってリュドに差し出した。

 牢獄を出てふれることができないのならせめて、一枚のパンを分け合いたいというのがアデールの気持ちだった。


「私がそうしたいからじゃ、駄目ですか。どうしても理由が必要なら、これまで本を持ってきてくださったお礼ということでどうでしょうか」


 大きく澄んだ水色の瞳に、アデールは真っ直ぐにリュドを映す。

 目を赤くしたリュドをじっと見つめていると、この牢獄でリュドと出会ってからの日々が少し早めの走馬灯のように思い出された。


 他の反乱軍の大人たちの前でリュドがどう振る舞って生きてきたのかを、アデールは知らない。

 だがアデールと心を通わせたリュドを知っているのは、きっとアデールだけであるはずだった。だからこそリュドは、最後にアデールへの想いをすべて明らかにしてしまうしかなかったのだ。


 しばらくリュドは何も言わずに黙っていた。だがやがて根負けしたように、鉄格子越しに差し出されたパンをアデールの手からとった。


「だから俺はあんたが嫌いだ」

「ありがとうございます。私の方はきっと、あなたのことが好きだったと思います」


 今回もまた口では拒みつつも結局は思い遣ってくれたリュドに、アデールはお礼を言った。

 するとリュドはさらに嫌そうな表情になったが、それくらいならきっと大丈夫なはずだとアデールは思った。


「じゃあ、いただきましょうか」


 アデールはそう言って、これまでは特に何も考えずに食べてきた黒パンをじっくりと見た。


 表面に押麦がまぶされた黒パンの色は焦げ茶で、それは王族であるアデールが昔から食べてきた白パンとは違う庶民のための粗食である。

 だけど今日は、リュドと分け合って食べるのだから何よりも特別だった。


「ああ。食べるぞ」


 アデールの呼びかけに、リュドが短く返事をする。


 そうして、ドレスで着飾った王族の少女とぼろぼろのチュニックを着た農民の少年は、囚人と牢番として向かい合って同じ黒パンを口にした。


(何となく美味しいような、気がします……)


 ほろ苦さとともに生地を噛みしめ飲み込むと、アデールは乾いて固いはずの黒パンにいつもとは違う美味しさを感じた。

 冷えてパサついていても麦本来の味わいは確かにそこにあり、ときどき感じられる押麦の食感もほど良い。普段は苦手だったほのかな酸味も、今日は好ましいものに思えた。


 そう心満たされるのは、誰かと食べる食事が久々だからなのかもしれないし、これが最後の食事だとわかっているからなのかもしれなかった。


「美味しいですね」

「そうだな」


 アデールが静かに喜びを口にすると、リュドもぶっきらぼうに同意する。

 見てみるとリュドの方も神妙な顔をして、ちゃんとそれなりに味わって食べてくれているようだった。

 本も食事も、誰かと分かち合った方が幸せなのだと、アデールはしみじみと思った。


 高窓から見えるよく晴れた青空から、まだ爽やかに心地の良い秋風が吹いて二人を包む。


 アデールは黒パンをもう一口食べて、小さく息をついた。

 重くて固いぶんよく噛んで食べることになるので、黒パンはやわらかい白パンより食べごたえがあった。


(これで少なくともリュドとは、綺麗に別れを迎えることができました)


 もつれた黒髪に半分隠れたリュドの不器用に優しい瞳をひっそりと見つめて、アデールは確かな満足を得た。

 陽光もいつも以上に暖かく感じられ、心はとても軽くなったような気がする。


 実のところはやはり、アデールは死ぬしかないのなら愛されるのはつらいし、愛してもらえるのなら生きたかった。だがそれでも死が避けられないのなら、幸福だった自分を伝えられる人に伝えるしかなかった。


(首を斬られて終わる人生だったとしても、最後に美味しく食べられればそれでいいですよね)


 アデールはもうあまり何も考えたくない気分で、黒パンをまたもう一つちぎった。


 処刑場で待つ人々や、都にいるシルヴァンに、アデールの一生がどう見えるのかはわからない。


 だが今、目の前で一緒にパンを食べてくれているリュドは、きっとアデールと同じ小さな幸せを感じてくれているはずだった。


《偽王の晩餐と姫君の首・完》

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