ライ麦のパン⑦ 囚人の王女と牢番の少年
それからほどなくして、処刑のときは訪れた。
前日には水桶を持った女たちがやって来て、アデールは約一か月ぶりに体を洗うことができた。
またぼさぼさに乱れていた髪もある程度は綺麗に梳いて結われ、服も元々着ていた絹のドレスに戻される。
処刑を行う際には王女らしい姿である方が好ましいからだと思われたが、死ぬために身だしなみを整えられるというのは妙な気分だった。
(この服の色合いは気に入っていますから、最後に着るには悪くないですけどね)
アデールは三つ編みに結われた銀髪をいじりながら、久しぶりに着飾った自分の姿を見た。
ゆったりと華やかなドレスは狭く寒々しい石造りの牢獄には不釣り合いだが、深みのある青色の生地は一カ月の幽閉でより痩せてしまったアデールの体を鮮やかに隠す。
鉄格子は閉ざされたままだが足枷は外されて、アデールはわずかだがそれなりの解放感を味わうことができた。
そうしてアデールが服をなるべく汚さないように座って処刑場へ連れていかれるそのときに備えていると、落とし戸が開く音がした。
「それが、本当のあんただったんだな」
冷たいふりをした声でそう言ってアデールの前に立ったのは、処刑が決まってからはほとんど口をきいてくれなくなっていたリュドだった。
その手にはアデールの最後の食事なのか、黒パンが数切れとコップの載った盆が握られていた。
「別に、これまでが嘘だったってわけじゃないですよ。私は私です」
アデールは一度怒らせてしまってからやっとリュドの声が聞けたことが嬉しくて、微笑んだ。
しかしそれはそれでまた、リュドの心を傷付けてしまったらしい。リュドはアデールが笑いかけると、目に涙を浮かべて俯いた。
「あんたはそうでも、俺は……」
「リュド……」
込み上げる感情に耐えきれなかったリュドは、言葉に詰まって肩を震わせた。
大粒の涙がぽろぽろとリュドの汚れた頬を流れ落ちていくのを、アデールは何もできずにただ見ていた。その涙の理由がアデールであるがゆえに、アデールには名前を呼ぶことしかできなかった。
「俺は、あんたのことが嫌いだった。あんたたちがいるせいで、俺たちには良いことが何もなかったから」
アデールが黙っていると、リュドは沈黙を埋めるように再び言葉を紡ぎ出した。
半ばしゃくりあげながらリュドが話すのは、アデールが何となくは思い浮かべながらも直接ふれることはなかった、農民である彼自身の人生である。
反乱軍の一員であるリュドに貴族や王族を嫌う理由があることはアデールも最初から知っていたが、本当に聞くのは初めてのことだった。
「俺の母さんは体が弱かったから、妹を生んですぐに死んだ。妹も母さんに似て体が弱くて、いつも病気で寝ていた。俺も父さんも頑張って働いて農地を耕した。だけど税は重くて貧乏だから、ほとんど寝たきりの妹には何もしてやれなかった。俺たちには学がないから、どうすれば妹が良くなるのかもわからなかった。それでそのうち、妹は七つにもならないくらいで死んだ」
唐突に溢れ出るように語られるリュドの過去を、アデールは小柄な体でじっと受け止めた。素朴な言葉遣いの向こうにある悲惨な現実を想像すると、アデールは相づちもうてなかった。自分の生きてきた世界とは違う不幸に、肯定も何も許されない気がした。
リュドは鉄格子に手を伸ばして握りしめ、怒りも何もかもがない交ぜになった感情を滲ませた声を絞り出した。
「王族とか貴族とかがいるから、母さんも妹も死んだんだって、皆言った。だから俺はこの反乱に加わって、あんたたちを全員憎んだ。死んでほしいと思った」
そこまでが、リュドが生きてきた過去だった。
それをすべて言い終えるとリュドの声色はより苦しげなものに変わって、彼はまたもう一つの本音を吐露した。
「でも俺はもう、あんたが死ぬのは嫌だ。妹に死んでほしくなかったように、俺はあんたにも死んでほしくない。それなのにどうしてあんたは殺されるくせに、ずっと笑ってられるんだよ」
リュドはとうとう床に崩れ落ちるかのように屈みこんで、鉄格子の向こうで背中を小さく丸めて泣いた。
それは貧しい農民としてアデールを憎まなければならなかったリュドが、今までずっと隠して忘れようとしてきた願いだった。
結局はアデールを責めるしかないのも、自分の願いは絶対に叶うことはないと牢番として知っているからだろう。
必死に泣き止もうと努力して嗚咽をもらしているリュドに、アデールはつい反射的に謝罪した。
「ごめんなさい。あなたを悲しませたかったわけじゃないんですけど」
アデールは政治に疎いが、アデールの存在がリュドのような人々の犠牲の上に成り立っているというのは間違いのないことだと思っている。
それが国であるといえば、それまでなのかもしれない。
だが同時にリュドが目の前の人間を死なせたくないと感じるのも仕方がないことであり、アデールにはどうすることもできなかった。
だが何とか声をかけた結果、アデールはより一層リュドを傷付けてしまったようだった。リュドは涙を止められないまま、再び声を尖らせた。
「あんたが俺に、謝る理由はないだろ」
耐えることだけを覚え続けたアデールは絶対に持ち得ない激しい感情を、リュドは燃やし続けていた。リュド自身、自分でもどうしたいのか、またどうされたいのかわからないようであった。
(一体私はどう生きれば、誰も悲しませずにすんだのでしょうか)
死を待つ自分のためにリュドがすすり泣いてくれる音を聞きながら、アデールはどこまででも上手く生きられない自分の人生にうんざりした。
アデールもリュドと同じように、過去を語れば良いのだろうか。
なぜ死ぬのが嫌だとは言えないのか、説明すればわかってもらえるのだろうか。
アデールは様々な方法を考えた。
しかし結局のところは、アデールの想いをすべて打ち明けたところできっと、リュドの気持ちが軽くはならないという結論に辿り着く。
それどころかもしかすると、アデールの言葉はまたよりリュドを傷付けてしまうかもしれない。
アデールはリュドが涙を流してくれるのは、殺されるのがアデールだからではないことはわかっているつもりだった。
きっと多分、誰が死ぬことになっても泣いてしまうほどに、リュドは他人を思い遣る心のある少年なのだ。
(それでも私は、彼の涙に報いたかったですが……)
やっと少しは涙がおさまってきた様子のリュドを見つめて、アデールは自分にできることを考え続けた。もしも鉄格子がなければリュドを抱きしめたいが、きっとそれも逆効果なのだろう。
アデールはこれまで、多くのものを失ってきた。
両親も、従兄弟との結婚も、乳母子だった侍女も、顔も知らない婚約者も失った。
だから本来誰にも必要とされないのが正しいはずなのに、それでもアデールは生きても死んでも誰かを苦しめるしかないらしかった。
リュドにもシルヴァンにも民にも、誰にも迷惑をかけたくないのに、どう転んでもアデールの存在は他人を困らせる。
(こんなことになるのなら、私はもういっそ最初からいない方が良かったような気もします)
アデールはドレスの裾を握りしめて、目を伏せた。それでも涙は流れないのが、自分が何か欠けた人間であるようで嫌だった。
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