ライ麦のパン④ 鉄格子を挟んで
そうしてその後はしばらく、アデールは人質として牢獄で幽閉されて過ごすごとになった。
アデールのいる牢獄は上り下りが大変な場所にあるようで、用もないのにわざわざ梯子を上ってやって来る者はいなかった。
反乱を起こした農民たちの指導者らしき青年がアデールが本物の王女かどうかを確かめるためにやって来たこともあるが、戦争を進めるのに忙しいらしくそれも一度だけのことである。
だから長い牢獄の時間の中で、アデールが毎日顔を合わせるのは小柄な牢番のリュドだけだった。おそらくもっと立派な大人は勢力圏の防衛などに回され、人質の見張りなどは案外優先順位が低いのだろう。
リュドは最初の七日ほどはずっと、食事を持ってくるときと食べ終わった食器を下げるときにしか現れなかった。
だが彼もまたアデールの牢番以外に任されることがなく暇なのか、ある日一冊の本を持ってきた。
「この城の書庫とかいう部屋からひとつ、持ってきた。あんた、これに何が書かれているのかわかるのか?」
リュドは食器口から食器を下げると、入れ替わりに今度はアザミの葉の絵が型押しされた革表紙の本をまめだらけの手で手渡した。
本を受け取ったアデールは、留め具をはずして中の言葉を確認してみた。ずっしりとした装丁の、重い本だった。
「はい。読める言葉ですね。手紙の内容をまとめたもののようです。何が書かれているのか気になるなら、読み上げましょうか」
「そうか。それならあんたの暇つぶしに付き合ってやらんこともない。俺はあんたが嫌いだが、あんたの面倒を見るのが俺の牢番の仕事だからな」
リュドは自分は牢番として行動しているのであり、アデールへの敵意を忘れたわけではないことを強調して、鉄格子を挟んであぐらをかいて床に座った。
おそらくリュドは本に興味を持っているものの文字が読めないために、アデールの所にやって来たのだろうと推測できる。
だがアデールはリュドにとってあくまで憎むべき王族であるので、本当にそうだとしても本心を見せてはくれなかった。
「そうですか。それはありがとうございます。それでは、読みますね」
リュドの意図がどうであれ気が紛れて余計なことを考えずにすむのはありがたかったので、アデールは頁をめくって読み上げた。
それは遠い昔に生きた王とその寵妃の恋文のやりとりをまとめたものであるようだった。
「愛しい人へ。私は恋い焦がれる者です。あなたを想って私は毎晩死んでいます。あなたなしでは私の夜は明けませんし、あなたがいなければ私は息もできません……」
熱烈に綴られる愛の言葉を、アデールは粛々と音読した。
こうした書物にふれることで、恋に憧れる貴族の子女も多いのだろう。アデール自身には恋についての願望はなかったが、なかなか興味深い内容だった。
しかしリュドの方は自分が選んだのが恋文についての本だとはまったくわかっていなかったようで、アデールが読み進めると不可解そうに尋ねた。
「あなたは私の支配者であり、私の太陽。私の……」
「ちょっと待て。それは何の本なんだ」
「ある男女の恋をめぐる手紙をまとめた本です」
アデールが手短に答えると、リュドの冷静を装っていたはずの日焼けした顔がみるみるうちに赤くなる。
「わかった。もういい。あとは勝手に読め」
文字が読めないゆえの自分の選択の失敗に気付いたリュドは、慌ててアデールの朗読をやめさせた。性愛に対する耐性は、あまり持ち合わせていないらしかった。
もちろんアデールはリュドが恋について知りたかったわけではないことはわかっていたため、一人で狼狽するリュドの反応が面白く感じられた。
「わかりました。大切に読みますね」
アデールは汚れた白い手で本を閉じ、リュドにわざと可愛らしく微笑んでみせた。
「勘違いするなよ。俺は本当に適当に持ってきただけだからな」
からかうようなアデールの笑顔に、リュドはまだ顔が赤いまま必死な瞳でにらんで抗議した。反乱を起こした農民としてアデールを憎む姿勢を保ち続けることができないほどに、気まずさを感じているようであった。
(本当に、人を憎むのに向いてない性格の人なんですね)
自分は本当の意味では憎まれていないと思うのは、傲慢なことなのかもしれない。
しかし感情的になることを忘れてしまったアデールには、そのリュドの冷淡になりきれない未熟さがとても貴重なものに思えた。
それからというもの、失敗を取り返すためなのか、リュドは牢獄から出ることができないアデールにときどき本を持って来るようになった。
打ち解けたわけではないという体裁は保ち続けたが、リュドは結局親切だった。
リュドが自分はただの牢番としてしか行動していないと主張するのなら、アデールはその気持ちを尊重したかったし、アデール自身もそれ以上の関係を求める気はなかった。だがリュドが何かと理由をつけつつも、結果的にはアデールを気遣ってくれるおかげで気が晴れることには感謝していた。
だからアデールはお礼として、本を返すときにはその内容をリュドに軽く語った。
「ありがとうございました。これは、地方の医学について書かれたものでした。体に良い食べ物や薬草のことが、よくわかりました」
「そうか。これはそういう本なのか」
リュドは決して「ありがとう」や「どういたしまして」という言葉は言わなかった。
だが彼が絶えず本を持って来ることがすべてを語っているように、アデールは思えた。
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