ライ麦のパン③ 鎖に繋がれた出会い
しかし残念なことに、アデールには翌朝がやってきた。
アデールは肌をちくちくと傷つける藁の中で目を覚まし、ため息とともに覚醒した。
(やはり、夢で終わってはくれませんでしたか)
アデールはのろのろと藁から抜け出て起き上がり、淡い朝の光に照らされた牢獄の中を見回した。
改めて明るくなってから見ると牢獄は思ったほどは不衛生ではなかったが、どう好意的に見てもあまり人道的とは言えない拘束の厳しさが、蜂起した農民たちの恨みの深さを物語っていた。
(私は舌を噛んだりして死ねるほど強くはないのですが、どうしましょうか……)
何も抵抗できそうにない状況に、アデールは途方に暮れた。
本当に最悪の状況になればアデールにも相応の覚悟ができるというものだが、そこまで決定的なことはされていないのが生殺しのようでつらい。
幼いころから仕えてくれた侍女のノエラの死を思い出しても、悲しいと言うよりは羨ましいと感じてしまうほどに、アデールは人質として生かされる自分の運命が怖かった。
どうやらアデールはこれまで飢えることもなくただ与えられ着飾って生きてきた代償に、王女として王国に向けられた憎しみを引き受ける必要があるらしかった。
アデールは今日までの十三年という短い人生の中で、農民たちに恨まれるようなことを直接した覚えはない。農民たちを突き動かす憎しみも、農民ではないので理解することはできない。
しかし農民たちを苦しめているのがアデールをこれまで王女として生かしてきた王国の仕組みであるのなら、彼らの復讐する権利を否定することはできなかった。
だからアデールは、農民がアデールは死ぬ必要があると思うのならそれに従うべきだと思っていた。
だが人質である自分の存在が脅迫に使われることで誰かを悩ませるとなると、話は別である。
(捕らえて閉じ込めたということは、農民たちは私を単に殺して終わりにするつもりはないでしょうね)
そうして自分はきっとすぐには死なせてもらえないのだと結論を出すしかなくなったころ、鉄格子の向こうで落とし戸が開く音がした。
アデールはその物音に、小さな肩をびくりと期待と不安で震わせた。どんな形であれ一人で思い悩んでいる時間が終わるのは望ましいことだと思ったが、これから自分が耐えきれないほどの苦痛を与えられる可能性もあるにはあった。
しかし開いた落とし戸から梯子を上ってやって来たのは、想定していた屈強な大人の男の姿とはまったく違う、アデールとそう年齢の変わらないように見える少年だった。
険しい表情に反してまだ子供らしさのある汚れた顔は日焼けしており、また身分の低いものがよく着ているぼろぼろの毛織のチュニックを着ていることから、少年も暴徒たちと同じ農民だと思われた。
彼は食器の乗った盆を片手に梯子を上りきって牢獄の前に立つと、憎しみのこもった目でアデールを一瞥した。
「あなたは……?」
「俺は反乱軍の一員で、あんたの牢番だ」
アデールが少年の役割を察しながらも尋ねると、少年は予想していた通りの答えとともに鉄格子の食器口を開けて盆を牢獄内の床に置いた。
盆の上には、黒パンと水の入ったコップが載っていた。
黒パンは見るからに固くて不味そうだったが、アデールはもらったからには感謝するべきだと思い、お礼と自己紹介を言った。
「ありがとうございます。私はアデールです。あなたの名前は?」
そのままアデールが名前を尋ねると、少年は仕方が無さそうに嫌々と口を開く。
「……リュドだ。礼は言うな。俺は鍵を渡されてないから、気を引いても無駄だ」
リュドと名乗った少年は、声変わり前の高く響く声で答えた。
牢番とは言っても任されているのは食事の運搬だけでありそうなところを見ると、年相応に下っ端なのだろう。大人びた口をきいてはいても素直に受け答える言動に、アデールは自分が恨まれていることをわかっていてもリュドに好感を抱いた。
どうやら普通に意思疎通は可能なようだと思ったアデールは、自分の置かれた状況を理解するためにリュドに質問を重ねた。
「私は人質なんですよね。私の命は、どんな交渉に使われるんですか?」
「詳しいことは、俺は知らない。だが使者はあんたの髪飾りを持って、都の国王の元へ向かったという話だ」
リュドは自分の知る範囲の情報を、嘘のある素振りもなく話した。おそらく要求を飲まなければアデールを殺すというのが、シルヴァンに送られた使者の言葉だろう。
しかしこのアデールの問いについてはさらにやや意地の悪い対応が用意されていたようで、リュドはせせら笑って続けた。
「王女とは言え、あんたに人質の価値があるかどうか怪しいものだけどな。あんたはそもそも都で邪魔になってこの地に送られた女なんだから、国王もあんたを見捨てるんじゃないのか?」
リュドは自信満々な様子で、アデールの存在を馬鹿にしてみせた。そう言って怖がらせれば、アデールが死に怯えると考えているようだった。
だがリュドの期待とは違い、アデールが真に恐れているのは死ぬことではなかった。アデールは死ぬよりも酷い目にあうことがあると思えるほどの想像力は持ち合わせており、また何よりも怖いのは自分の生き死にが誰かの負担になることだと考えていた。
だからアデールはリュドの皮肉にも屈することなく、毅然と言い返した。
「ここから出られなかったとしても、見捨てられたとは思いません。それは国王陛下が適切な判断を下してくださった結果だと、私は信じます」
それは強がりではなく真実本当のことだったので、アデールは自然にはっきりとした声色で言うことができた。
思った反応が返ってこなかったことで、リュドは不機嫌そうにアデールを見下ろして言い捨てる。
「それならそれでお望み通り、救われずに死ねるといいな」
「はい。そう願います」
足枷の重みに座り込んではいるものの、アデールは王女らしいふるまいを心掛けて頷いた。
リュドはそうしたアデールの返答を愚かなものとしておきたいらしく、黙って鼻で笑うとまた落とし戸にかけた梯子を下って行った。
だがやはりアデールは、リュドの態度や言動に傷付くことはできなかった。。
(何となくリュドは元々、人を憎むのに向いてない性格のような気がします)
リュドが立ち去り一人になったアデールは、ゆっくりと黒パンの切れ端を手に取った。
重税に苦しむ貧しい農民の一人として、リュドが王族としてのアデールを憎んでいるのは嘘ではないはずである。だがその言動には甘さが残っており、本来の優しさが隠しきれていないように思えた。
だからアデールは昨晩暴徒に囲まれたときに比べるとまったく、自分が本当に憎まれているのだとは思えなかった。
それどころかリュドと接しているとむしろ、ノエラや兵士を殺した人々も全員が悪人というわけではないであろうことの方が気になってくる。
(彼が言う通り、シルヴァンが私をちゃんと見捨ててくれるならいいんですけど)
アデールは乾いて固い黒パンを噛みしめながら、今度はリュドではなく、都にいるかつての許婚だった従兄弟のシルヴァンのことについて考えた。
父が亡くなった後のアデールはシルヴァンの両親に引き取られた形で育ち、二人は年の離れた兄妹のように育った。お互い恋愛感情があったかどうかはわからないが、長い時間を共に過ごした分の想いはそこにあった。
だから婚約を解消して遠く離れることになったことだけであれほどの後悔を滲ませたシルヴァンが、アデールを見捨てた結果苦しまないはずがなかった。
(でもどんな条件かはわかりませんが、私への情で敵の要求を飲めば今度は国王として後悔することになりますし。シルヴァンには今は守るべき自分の国も、今後夫婦として人生を共にする奥方もいるんですから)
アデールはパサパサの生地を水で飲み下し、ため息をついた。
迷惑にならないために遠い土地に送られたはずなのに、結局重荷となるしかない自分の身の上が、アデールはただひたすらに後ろめたかった。
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