9.Pain de seigl ―囚人の王女と牢番の少年― 

ライ麦のパン① 馬車と新天地

 秋が深まり色付く森の中、一台の馬車と護衛の兵士が乗った数頭の馬が走る。


 道は二台の馬車がやっとすれ違えるくらいの広さに踏み固められた古い街道で、馬車は二頭立ての立派な箱型だ。


 その金細工で紋章の装飾が施された車体の中で、侍女が窓の外を覗いてはため息をつくのを、王女アデールは見ていた。


 宝石で飾ってまとめた銀色の髪、そして繊細な幼さが残る顔立ちに水色の大きな瞳が印象的なアデールは十三歳で、ひたすらに走る馬車の中では他にすることがない。

 長いレースで袖口を飾ったガウンと、ゆったりとしたフレアスカートを幅広のベルトで締めた青い絹のドレスを身体にまとい、アデールはただ黙って振動に揺られていた。


「姫様を捨てた挙句、こんな都から遠く離れた貧しい田舎の年寄り領主に嫁がせるなんて、陛下は本当に冷たい方です」


 アデールの侍女であり乳母子でもあるノエラは、憎々しげにつぶやいた。

 その視線は小さな窓の向こうに広がる椎の木の森に注がれていた。


 日の傾いた空は赤く、陽光は二人の座る車内をまぶしい光で満たす。


「ノエラはことあるごとに陛下の悪口を言いますね。私は別に都に心残りはありませんが」


 アデールははっきりと意見を言い過ぎる侍女を嗜めて、窓の外の一見穏やかな森の風景を眺めた。


 確かに道行く途中で見た農村は荒廃しており、ノエラの言う通り都から離れれば離れるほど人の暮らしが貧しくなっているのも事実である。

 だが風に揺れて茂る見知らぬ森も、人々の思惑が絡まり合う生まれ育った城も、今のアデールには安らげないという点ではどちらも同じだ。


 しかしノエラは聞く耳を持たず、黙っていれば可愛らしいはずの顔をしかめて恨み言を続ける。


「いいえ、姫様。亡き先々代の国王陛下がお父上である由緒正しいお生まれの姫様には、この辺境はふさわしくありません。陛下が何とおっしゃろうとも、姫様は王妃の座を諦めになるべきではなかったのです」

「ですが王国の平和のためには、和睦の証として陛下が講和条約を結ぶ国の姫君を奥方に迎える必要がありました」


 アデールは淡々と、自分が幼いころに結ばれた婚約が解消され、辺境の地に嫁ぐことになった理由をノエラに言い含めた。


 亡きアデールの父テオフィルは、この王国の国王だった。


 テオフィルにはアデールの他に遺児がいなかったので、彼が没した後は王弟トゥーサンが王位に就き、その息子であるシルヴァンがアデールの許婚となった。

 それは国の都合で結ばれた婚約ではあったが、アデールは十歳年の離れた従兄弟のシルヴァンを兄のように慕い、シルヴァンはアデールを妹のように愛してくれた。


 しかしトゥーサンが没し、シルヴァンが新たな王として即位すると状況は変わった。王国は長年隣国と領土をめぐる戦争を続けていたが、隣国でも王が崩御したことがきっかけで和平交渉が進んだ。

 その結果成立した和睦の条件として、若き王であるシルヴァンは隣国の姫を王妃に迎えることになった。


 そうしてシルヴァンとアデールの間に結ばれていた婚約は解消され、存在を持て余されたアデールは辺境の老領主マルトノに嫁ぐことになった。

 アデールが子孫を残せば、将来王位争いを招く可能性がある。だから子を成すこともなく、何も残さずに政治の邪魔にならないよう一生を田舎で終えるのがこれからのアデールの役目だった。


 この事情は幾度となく説明してきたので、ノエラも頭では理解しているはずである。

 しかしノエラはすべてを受け入れたアデールの代わりに腹を立ててくれているらしく、アデールの処遇に対して憤った。


「政略も大事ですが、そのために姫様が犠牲になるのは間違っています。姫様はもっと陛下に対してお怒りになるべきです」


 ノエラはアデールに、感情的になることを強いる。

 だがアデールはノエラと同じようには、国王として婚約の解消を決めたシルヴァンを憎めなかった。


「私は別に、陛下に裏切られたとは思っていませんから……」


 小さく肩を落として、アデールは俯いた。


 シルヴァンが一国の主として責任のある選択をしなければならないことは、年少のアデールにもわかっているつもりだった。アデールの知っているシルヴァンは心優しい思い遣りのある青年であるので、きっとアデールのことを蔑ろにしたかったわけではないはずである。

 それゆえにアデールは、シルヴァンが自分以外の人間と結婚してしまうことそのものには、怒りも悲しみも感じなかった。


(だけどだからこそ、私のことでシルヴァンが後ろめたさを感じているでしょうことが、私は悲しいですが)


 アデールは塞いだ気持ちで、じっと馬車の板張りの床を見つめた。

 都を旅立つアデールを見送るシルヴァンの笑顔は昔と同じように優しかったが、瞳は暗く翳っていた。そのときのシルヴァンの想いを考えれば考えるほど、アデールの心は苦しくなる。


 そんな思考にアデールが囚われ続けていると、走っていた馬車が急に停止した。


 まだ街道の途中であるので、アデールは不思議に思って窓の外を覗いた。すると向かっていた領主マルトノの城がある方角の空に、煙が立ち昇っているのが見えた。


 また人の怒鳴り声も、すぐ近くから聞こえてくる。


「どうかしたのでしょうか」

「わかりません。外の様子を見てみます」


 アデールが何か悪い予感を感じながらつぶやくと、ノエラが馬車の扉を開けた。


 しかしノエラが外を見ようと身を乗り出した瞬間、一本の矢がノエラの深緑色のローブを着た胸を射抜いた。


 突然の攻撃を受けたノエラは、直前の不安げな表情が張り付いた顔のまま車外の地面へと倒れた。


「ノエラ……?」


 落ちていくノエラの身体を追うようにして、アデールは馬車の外に出た。


 そうしてアデールの視界に入ってきたのは、夕刻の真っ赤な光の中で街道の森に立ちはだかっている暴徒たちだった。

 その光景を見て、アデールは馬車が止まった理由を理解した。


(これは、農民たちの蜂起……)


 何十人、いや何百人かもしれない城や都の住民とは違う貧しく汚れた身なりの農民たちが、鍬などの農具や狩猟用の弓などで武装し支配者であるアデールたちのいる方へと押し寄せている。

 彼らの表情は正気を失っており、その向けられた怒りや憎しみの感情のあまりの濃さにアデールは空気が震えているかのような錯覚を覚えた。


 見たところ、もうすでに馬車の護衛の兵士は暴徒たちとの戦闘を始めていた。

 しかし戦うことを職業にしている兵士ではあっても、多勢に無勢で勝てそうには見えなかった。


「旦那たちを殺せ!」

「貴族たちを倒せ!」


 目に熱を浮かべた農民たちが、叫びながら進んでくる。


 喧騒の中で、アデールは侍女の死体の傍らで立ち尽くした。


 アデールは以前に、戦火と重税により疲弊した農民が武器を手にして貴族である領主を殺すことがあると、城の家臣たちから聞いたことがあった。

 そのときの説明によれば農民は最も貧しい最下層の民であり、他の職を持った者とは比べようもないほどみじめな存在だから反乱を起こすらしい。


 都にいるときは単なる遠い土地からの報告としてしか知らなかった農民反乱が今、アデールの目の前で起きている。アデールはその状況の意味するところは理解はできても、すぐには実感は持てなかった。


 だが自分という存在がどこにいても歓迎されないことだけは、嫌になるほどにはっきりとわかった。

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