フィロ生地の焼き菓子⑥ フィロ生地の焼き菓子

 やがて宴会も終わりに近づき料理に手を付けている者も減ったころ、給仕人が最後の甘味を運んできた。


 ムフタールはまだ鱈を食べていたが、サレハが歩いてくる給仕人の手元を見ながら言った。


「あと陛下のお好きなバクラヴァで終わりですね。残念ながら陛下はもう、お召し上がりにはなれないでしょうけど」

「いや、大丈夫だ。バクラヴァならあと三、四個は軽く食べられる」


 冷めても美味しい鱈の白身を頬張って飲み込み、ムフタールは自信を持って答える。


 そしてやって来た若い給仕人が慎み深く跪いてバクラヴァが載った皿を円卓に置くのを、ムフタールは期待に満ちた目で見つめる。

 今夜のバクラヴァはシロップが少なめのパイに近いもので、焼き色も香りもとても美味しそうだった。


 しかしそのとき、皿から手を離した給仕人の手元で何かがきらめいた。


「国を荒廃させた、暗君に死を!」


 若い男の給仕人は、そう言ってムフタールの胸に短剣を深々と突き立て引き抜き、また刺した。

 時が止まったような一瞬の後、ムフタールの着ていた金襴の衣が血に染まっていく。


 ムフタールは何が起きているのか理解できないまま、衛兵が慌てて駆け寄って給仕人を捕らえるのをただ呆然として見ていた。


 ハキーカ人か、ラーメ人か、それともまた違う異民族か。


 猿轡をかまされ言葉を奪われた給仕人の、生まれや思想はわからない。しかし彼は深い憎しみに満ちた表情で、ムフタールを殺す理由を語っていた。


(サレハに任せれば大丈夫だと思ってたけど、そうでもなかったんだな)


 国を治めるには決定的に頭が足りなかったムフタールは、殺されることになるその日になってやっと、自分が知らないところで暗君として恨まれていたことに気付かされた。


 胸を二度も刺されたのだから、傷はかなり痛かった。

 しかしその痛みはどこか現実感のない遠い出来事のようで、それがかえって確かな死を感じさせる。


 致命傷を負ったムフタールがふらついて倒れると、サレハがその短剣が刺さったままの体を抱き止めた。

 ムフタールは目を開けたまま、自分を覗き込むサレハの月のように美しい顔を見つめた。


 薄暗くなってきた視界の中にただ一人いるサレハの表情は、いつもと変わらず静かで穏やかなものだった。


 主君が刺されたのにも関わらず慌てず悲しんでもいないサレハの反応は、いくら冷静で賢い男だとしてもおかしいとムフタールは思う。

 しかしそれでも不思議と裏切られたとか、見放されたとか、そういった感情は生まれなかった。


「俺はこのまま死ぬのか?」

「そうです。貴方はここで死にます」


 ムフタールのかすれ声の質問に、サレハがはっきりと答える。


 突然の凶行に辺りは騒然としているようだが、サレハの腕の中のムフタールには遠い喧騒としてしかわからなかった。

 大柄なはずのムフタールも、今は華奢なサレハに子供のように抱かれている。血を失った体は重く冷たくなって、まるで自分のものではないようだ。


 しかしサレハの落ち着いた深緑色の瞳が綺麗に見つめるので、ムフタールは妙に安心した気持ちでまた尋ねた。


「それでも、問題はないんだな?」


 するとサレハはゆっくりと頷き、今までもときどき聞かせてくれていたようなひどく優しい声でささやいた。


「はい。私が貴方の名前で命じて行った圧政により、この国はもう崩壊寸前です。今後再び始まる空の玉座を巡る争いの中で、この国は滅び去ることでしょう」


 サレハはムフタールの顔にそっと手を近づけて、大切そうに頬を撫でた。

 どうやらムフタールがわかっているつもりでいたよりもずっと、サレハの考えは複雑なようだった。


「それが貴方の父サッタールの偉大な統治によって父を処刑され、すべてを奪われながらも奴隷として生き延びた、ヤフヤー家の長子の私の復讐です」


 恋の詩を詠むように甘く饒舌に、サレハはムフタールの知らない物語の結末を語る。


 それは出来の悪いムフタールには理解するのが困難で、死にかけた頭にはなかなか内容が入ってこなかった。

 だがムフタールはその冷たくなった頬に触れる手の温かさを信じて、たどたどしく微笑み返した。


「お前の言うことは、難しくて何を言っているのかわからない。でもお前は賢いから、きっとそれは間違いじゃないんだろうな」


 消え入りそうな声で紡ぐ最後の信頼が、サレハに聞こえたかどうかはわからない。

 サレハはどうも、ムフタールが思い描いていたような人物とは少し違った。


 しかし彼が思い通りの人物であったとしても、それでムフタールの人生がもっと良くなるものでもないだろうとも思う。

 何にせよ望んだものが手に入らないまま死んでいった兄たちに比べればずっと、サレハがいたムフタールの一生は楽しかったはずなのだ。


 ムフタールの想いが届いたからなのか否か、サレハはほんの少しだけ切なげな表情になって、また口を開いた。


「いくら劣って誰にも顧みられない存在だったとはいえ貴方は王子の一人でしたから、私が即位させなければ内紛でもっと惨めに殺されていたはずです。これから私が貴方を非業の死を遂げたカリフとして丁重に葬りますから、それで貴方を守るという約束は果たしたことにしてもいいでしょうか?」


 やはりややこしくて結局何を言われているのかわからなかったが、どうやらサレハはムフタールに許可を求めているらしかった。

 優秀な宰相のサレハに良いか悪いか尋ねられたら、無能なカリフのムフタールが出す答えは一つしかない。


「ああ、サレハの言う通りに」


 ムフタールは喉に込み上げてくる血を飲み込み、これまで何千回と言ってきたその言葉を死ぬ間際にも言った。

 最後の最後はちゃんと伝わったらしく、サレハはゆっくりと頷いてムフタールの胸に刺さったままの短剣の柄を握った。それが引き抜かれた先におそらく、本当の別れがある。


 ムフタールは何も言わずに美しく微笑むサレハの顔をじっくりと見納めてから目を閉じ、自分の人生の終わりも全部サレハに任せた。

 すべてのことは、サレハの言う通りにすれば間違いないはずである。


 最後は恨まれて殺されることになったが、賢いサレハのおかげでムフタールは兄たちが殺し合う中カリフとして生き延び、美味しいものを食べて毎日を過ごせた。

 だから暗君として終わる自分の人生に悔いはなく、概ねのことは納得している。


 しかしムフタールには、ただ一つだけ心残りがあった。

 それは暗殺者に運ばれたまま誰も手をつけずに卓に置かれているであろう、胡桃やアーモンドを挟んでこんがりと焼けたバクラヴァのことである。


(できればあとはあのバクラヴァを、一つか二つは食べたかった。殺しに来てくれるのがあともう少し遅ければ、思い残すことなく死ねたのに)


 ムフタールはサレハがとどめを刺す瞬間を待ちながら、一番の好物である菓子のバクラヴァのことを考えた。

 確実な死を前にしても、その美味しさは諦めがたかった。


 ムフタールにとっては、国の行く末や民の幸福などのよくわからないものよりもずっと、バクラヴァの方が大事である。

 最後に目に焼き付けたサレハの微笑みは美しかったが、食べ損なったバクラヴァの代わりにはなりそうにない。


(せめて、一口……)


 それがアズラク帝国の最後のカリフとなるムフタールが、最後に願った言葉であった。

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