フィロ生地の焼き菓子③ カリフと宰相

 ムフタールは夜にはまた豪勢な夕食を食べ、さらに今日は食後もサレハを楼閣の部屋に招き、バルコニーに組木細工の椅子や小卓を出して飲み物や菓子を用意し休んだ。

 卓の上の器や皿にはザクロにデーツ、そしてもちろんバクラヴァが並ぶ。


「この夜の都の眺めは、いつ見ても壮観だよな」


 アラベスクの意匠が彫り込まれた白亜の手すりの向こうに広がる都の月夜を眺めながら、ムフタールはバクラヴァをかじった。それは香辛料がふんだんに堅果にまぶされており、昼に食べたものよりも甘さが控えめの味だった。


「そうですね。まさに平安の都という呼び名がふさわしい美しさです」


 やわらかな藍色の室内着を着て近くに座るサレハが、瞳に夜の色を美しく映して頷く。ごく私的な時間であるので、二人ともターバンを外してくつろいだ服装をしていた。


 アズラク帝国の都であるザバルガドは焼き煉瓦造りの白い円形都市で、四つの門と三重の城壁を持った円城である宮殿を中心に、商人や職人たちが暮らす居住区や市場が広がっている。

 満月のほのかに明るい夜空の下で規則正しく立ち並ぶ建物が白く照らされている眼下の様子は、幾何学文様のように綺麗だ。


「まあ、俺の知るものの中で一番美しいのはお前なんだが」


 ムフタールは都の眺望から目を離すとバクラヴァを持っていない方の手をのばし、すぐ側にいるサレハの金髪をさらりと撫でた。王族の一人として砂漠の民の血を濃く受け継いでいるムフタールと違って、サレハは髪も肌の色も明るかった。


 するとサレハは宝玉が転がるようにするりとムフタールの手から逃れて、間に線を引くように笑みを浮かべた。


「御冗談を。私は元はただの卑しい奴隷ですよ」

「だがお前は優秀だから身分を開放されて、今は自由の身なんだろう?」


 黒い巻き毛と褐色の肌を持つ自分とは逆のサレハの真白な美貌を見つめて、ムフタールは言った。


 サレハが奴隷として売り買いされ、人の所有物だった時期があることは皆が知るところである。

 しかし聖法による平等を重視するアズラク帝国では奴隷もすべての権利が制限されるわけではなく、また奴隷を自由の身にすることは主人の徳を高める行為であるとされている。

 そのためサレハのように世の中で活躍できる才能があれば、奴隷でも身分を開放されて自由人として生きることが可能だった。


「ありがたいことに、その通りです。ですがどんな立場を与えられたとしても、生まれそのものは変えられませんから」


 王族としては不自由でも奴隷としての不自由は知らないムフタールの眼差しに、サレハは控えめな態度で答える。

 ムフタールは今度はバクラヴァではなく、デーツを一粒食べて尋ねた。


「生まれそのもの、か。そういえば俺は、お前が昔は奴隷だったということ以外は知らない気がするな。お前はどんな子供で、どこから来たんだ?」


 当時もうすでに自由人となっていたサレハと出会ったのは、まだ父サッタール王が立派にすべてを支配し、兄たちも多少は友好を保っていたころのことである。


 それからムフタールは背が伸びて一応は大人になったが、サレハは美しいまま変わっていない。

 昔からずっと同じように側にいたので特に気にしていなかったが、ムフタールはカリフとして半年共に過ごしてやっとサレハにも自分と同じように子供時代があったであろうことに思い至った。


 そうした唐突な興味によるムフタールの問いに対して、サレハはごく短い言葉で身の上を淡々で説明した。


「ご期待されても、別に普通ですよ。私は成功を収めたものの他人の恨みを買って処刑された罪人の子です。しかし今の養父の家に奴隷として購入された後に教育していただき、小姓として宮殿に上がって働くことを許されました。その先のことは、陛下もご存じの通りです」


 サレハはとてもつまらないもののように、自分の半生について語る。


 だがムフタールの耳には、サレハの歩んできた人生の話はとても面白いものに響いた。もしかすると同情したり痛ましく思ったりするのが正しい反応なのかもしれないが、ムフタールはどちらかというと自分の臣下の波乱万丈な経歴にわくわくする。


「賢さと美しさを武器に奴隷から宰相になるなんてそれだけでお伽話のようだと思っていたが、生まれもまるで物語みたいだな」

「こんな生い立ち、ありふれた話だと思いますけどね」


 学問についての書物を読むのはは苦手だがお伽話を聞くのは好きなムフタールは、素直に瞳を輝かせた。


 そんなムフタールの反応に苦笑し、サレハは首を横に振って目を伏せる。

 しかし本人が否定してもなお、ムフタールはサレハは特別だと信じて言った。


「それならありふれたお伽話の忠臣みたいに、お前はこれからもずっと俺を守ってくれるか?」


 ただ馬鹿な末子として生きるならまた話は違ったであろうが、ムフタールがカリフであり続けるためにはサレハは絶対に欠かせない存在である。

 だがそうした必要性以上に、ムフタールは美しく優れたサレハが自分の臣下であることが誇らしかった。


「それは、そうですね。きっとご希望に応えてみせますよ」


 軽薄に信頼を寄せる主君の言葉に、サレハはひどく優しげな表情で微笑んだ。何よりも美しいサレハの深緑色の瞳は、いつもムフタールの心に深く残る。


 頭の悪いムフタールには、サレハが実際に考えていることのすべてを理解することはできない。

 しかしそれでもサレハが自分の頼みを承諾したことに満足して頷き、ムフタールはまたもう一つバクラヴァを掴んだ。


 砂漠の国の夜の冷えた空気は暑がりのムフタールには心地良く、またサレハの美貌は太陽の光よりも月や星の明かりの方が似合っていた。

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