フィロ生地の焼き菓子② 会議後の昼食

 正午になると会議は終わり、やっと食事の時間になった。


 椅子や机が広間から片付けられた後に座布団や脚の低い円卓が用意され、大臣や書記官はそれぞれの定席に坐る。

 ムフタールとサレハの前には一つずつの小卓が置かれ、その他の出席者は何人かずつに分かれて円卓を囲んだ。


 席の準備が整うと、白地の服を着た給仕人は一品ずつ料理を運んだ。

 献立は薄焼きのピタパンに羊肉と茄子の炒め煮、米と扁豆のスープ、そら豆のオリーブオイル和えというもので、各品ごとに立派な陶器の皿に載せられて、円卓の上の木製の大きな盆に置かれた。


 待ち望んだ昼食を心置きなく食べるために、ムフタールは隣に坐っているサレハに午後の予定について尋ねた。


「昼食のあとはもう俺、いなくてもいいんだよな」

「はい。あとは我々で書類を作成するだけですから」

「わかった。じゃあ、後はもう任せた」


 あぐらをかいた膝の上に白布を広げながら、サレハは答える。


 後も何もずっとサレハにすべてを任せっぱなしであるのだが、ムフタールは態度だけは君主らしく振る舞った。


「はい、承知しております」


 サレハは出会ったときから変わることのない丁寧な物腰で頷いた。サレハのこうした返事を、ムフタールは数えきれないほど聞いてきた。


(それじゃあ俺はじっくりと、食事の時間を楽しむとしよう)


 食後の予定の確認を済ませたムフタールは、政治も経済も一切忘れてピタパンを手に取る。周囲の大臣や書記官の雑談には一切耳を貸さずにパンをちぎり、ムフタールの食事が始まった。


 ムフタールはちょうどよい大きさにしたピタパンで、羊肉と茄子の炒め煮をすくって食べた。

 サフランの黄色にコリアンダーの緑が映える炒め煮はイチジクや干ブドウも入った甘めの味付けで、酢でやわらかくなった羊肉と油を吸った茄子が熱々の旨みを口の中に届ける。パンに染みた素材の味が凝縮された煮汁も、とても味わい深かった。


(甘酸っぱい羊肉もいいし、このそら豆も美味しいな)


 イチジクと干しブドウの甘みに引き立てられた羊肉の風味を堪能したムフタールは、次はそら豆のオリーブオイル和えを食べた。上質なオリーブオイルをまぶされたそら豆はほくほくと香ばしく、粗塩だけの簡素な味加減がほど良い。


 米入りのスープは、あっさりとした琥珀色のスープの中でふやけた米と扁豆がやわらかく優しい味わいだ。


 また汁物を食べるのに使っているピタパンは、水牛の乳から作られた半生のクリームとナツメヤシの蜜をつけて食べても甘くて美味しかった。


(うん。これならつまらない会議に耐えた甲斐がある)


 そうしてムフタールは礼儀上最低限に食べ残しながら、皿をほぼ空にした。


 特にそら豆は残すのが嫌になるほどに気に入ったので、サレハからも分けてもらった。サレハは成人の男にしては線が細いせいかかなり小食で、皿の上の料理はあまり減っていなかった。


 一方ムフタールは長身で体格の良いわりに体を動かすことは苦手で、一年中宮殿に引きこもって常に食べるか寝るかの生活を送っている。しかし太りにくい体質なのか、父や兄の生前も外見で馬鹿にされたことはない。


「俺の数少ない美点の一つは、肥満とは無縁で健康なことだ」


 臣下の分の食事も食べながら、ムフタールは安心して思い切り食べられることに感謝した。

 するとサレハは会議のときとは違うやわらかい声でムフタールに言った。


「陛下には他にもたくさん美点がありますよ」

「昔からそう言ってくれるのは、お前だけだけどな」


 ムフタールはサレハただ一人しか自分を評価する人間がいないことを、ただ事実として受け止める。同情や嫌味の可能性といった複雑なことを考えるには、ムフタールの思考は単純すぎた。


 そのうち他の食卓も含めてだいたいの食事が済むと、最後に甘味と飲み物が運ばれてきた。砂糖がたっぷりと入った甘い紅茶の入ったポットと共に用意されたのは、糖蜜の染みた多層の薄焼き生地で堅果を挟んだバクラヴァと言う焼き菓子だ。


 ムフタールはバクラヴァが非常に好物であるので、とても嬉しい気持ちで円卓の上に新しい皿とカップが置かれるのを見ていた。


「今日のバクラヴァには、ピスタチオが入ってるみたいだな。緑色が綺麗だ」


 じっくりとよく観察しながら、ムフタールは小さな四角に切り分けられて金属皿に並んだバクラヴァを手に取った。どんな些細な違いも見逃さないほどに、ムフタールはバクラヴァにこだわりを持っていた。


 こんがりと焼けた生地は糖蜜で艶やかに光り、胡桃やピスタチオがぎっしりと詰まった切断面はピタパンと惣菜で満腹になったはずの食欲をそそった。

 その宝石に匹敵するような美しさを十分に見つめると、ムフタールはそのまま一口で菓子を食べた。


 すると上品な甘さに焼けた生地が口の中でしっとりと崩れて、中に挟まれた胡桃やピスタチオがざくざくと香ばしい食感で舌を楽しませる。

 ムフタールは思わずにっこりと微笑んで、一番の好物の菓子を味わった。


「陛下は本当に、バクラヴァがお好きですね」


 隣で小さな金属製のカップに注がれた紅茶を飲んでいたサレハは、そうしたムフタールの様子をくすくすと笑った。その綺麗な深緑色の瞳は、ムフタールに暖かな視線を注いでいる。


「だって美味しいからな。お前は好きじゃないのか?」

「私も嫌いではないですよ」


 ムフタールが二つ目を口に放り込みながら尋ねると、サレハはムフタールとは違って品よく割って分けてバクラヴァを食べた。


「そうだよな。誰だってバクラヴァは好きに決まっているよな」


 一人で納得して、ムフタールは三つ目、四つ目のバクラヴァを食べた。いくらだって食べられそうなほど、バクラヴァは甘くて美味しかった。


 その後甘味の時間が終わると、食卓や座布団は片付けられてまた会議のための椅子や机が並べられる。


 ムフタールは政務に戻るサレハや他の臣下たちを広間に残して自分の居室に戻り、午後は昼寝と双六ナルドをして過ごした。

 カリフが食べて寝て遊戯に生きても国が治まる仕組みが、このアズラク帝国にはあるはずだった。

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