掌編2.Speculaas ―敵国の兵士と村の子供―
掌編2.Speculaas ―敵国の兵士と村の子供―
イルゼの国は戦争しているらしかった。
大人たちはいつも戦争の話をして、ラジオや新聞も戦争のことばかりだった。
イルゼが住んでいるのは田舎だったが、戦争についてだけは十分すぎるほどに多くのことが伝わってきた。
イルゼ自身も一応、味方の戦車や兵士が街道を進んでいくのを見たことはある。
近所の人は徴兵されてどこかへ行き、又隣の村の近くは戦場になったとも聞いた。
しかしそれでも七歳の女の子のイルゼにとっては、戦争はあまり身近なものには感じられなかった。
学校の男の子たちはラジオから流れる戦争のニュースを熱心に聞いては、兵隊ごっこをして遊んでいたが、それはイルゼにはまったく関係のないことだった。
イルゼが今も昔も好きなのは、綺麗な装丁の図鑑に可愛らしい挿絵で描かれている鳥や草花を、森で探し出すという遊びだ。
だからその日の午後もイルゼは、黄色のギンガムチェックのワンピースを着て、お気に入りの水筒を肩から提げて森にいた。
空は晴れ上がり、気持ちの良い風が吹く春の日のことである。
遠い国境の山まで続く深い森は陽光にきらめき、地面近くにはブルーベルの花が青い絨毯のように咲き広がっていた。
「青い花が一つ、二つ、三つ……」
数えきれないほど咲いているブルーベルの花の間を、イルゼは満足げに歩いた。
鼻をくすぐる爽やかな花の香りが、イルゼの気持ちを軽やかに楽しませる。風に揺れるブルーベルの小さな花は、図鑑の挿絵の通りに愛らしかった。
「青い花が……あれ?」
だがイルゼは花々の間に、普段の森にはないものを見つけた。それは花に埋もれて倒れている、人の影だった。
「そこにいるのは誰?」
イルゼはその人影にそっと近づき、尋ねた。
人影は何も答えなかった。
返事がなかったので、イルゼはさらに近づいてその人影をよく観察した。
見ると人影は、兵士の姿をしていた。それもイルゼの国でなく、敵国の黒っぽい軍服を着ている。
「おじさん、寝ているの?」
ぴくりとも動かず地面に転がっている兵士の様子に、イルゼは彼の腰にぶら下がっている銃に恐怖を感じることなく、そのほおを指でつついてみた。
おじさんと呼びかけたものの、顔を覗き込むと思ったよりも兵士は若かった。イルゼが触れると、兵士は目をつむったまま、かすれて小さな声で何かを言った。
それは外国の言葉なのか、意味の無いうめき声なのか、イルゼにはわからなかった。しかし、兵士が仲間からはぐれて行き倒れた存在であるらしいことは、何となくは理解した。
森のどこかに敵軍の飛行機が落ちたという話もあったので、もしかするとこの兵士はそのパイロットなのかもしれない。
イルゼはきっと兵士は水を欲しがっているのだろうと思い、持っていた水筒のふたを開けて水を注ぎ、兵士の口元に運んだ。
すると兵士は、かすかに口を動かして水を飲んだ。
その結果にちょっとした充実感を覚えて、イルゼはさらに次の行動に移る。
「お水だけじゃだめだよね。何か食べ物をあげないと」
イルゼは水筒のふたを閉め直し、兵士に背を向け小走りで家に戻った。
◆
森を抜けて、家に着く。
イルゼは無人のキッチンに入り、兵士にあげるための食べ物を探した。
父親は鉄工所での仕事、母親は隣のおばさんの家でレース編みをしに行っていて、家には誰もいなかった。
しかし今は戦時中であり、生活に困っているわけではなくても、食料が豊富にあるわけではない。夕食の余り物など、なくなっても困らなさそうなものは、キッチンには見当たらなかった。
「どうしようかな……」
兵士にあげても母親にばれない食べ物は何かないかと、イルゼは悩んだ。
「あ、そうだ。あれなら」
少々考え込んだのち、一つちょうどよいものを思い出すと、イルゼは二階にある自分の部屋に上がった。
そして戸棚を勢いよく開けて、中にしまってある丸いブリキ缶を手に取り、軽く振って中身があることを確認する。
手ごたえを感じたイルゼは、そのまま部屋を後にして森へ駆けた。
ブルーベルの花に足をくすぐられながら、ワンピースのすそを揺らし走る。
太陽の光と木々の葉がつくるやわらかな影の中を、イルゼは小さな体で急いだ。
◆
元の場所に戻ると、兵士はイルゼが立ち去ったときのまま地面に突っ伏していた。
「おじさんのために、クッキーを持ってきたよ」
ブリキ缶から包み紙にくるまれたクッキーの欠片を一枚取り出し、イルゼは兵士の近くにしゃがんで話しかけた。
馬や船などの型を押されこんがりとこがね色に焼かれたクッキーは、聖人のお祭りの日に村の教会で配られた品で、イルゼが大切にとっておいて少しずつ食べていたものだ。他人にあげてしまうのはもったいない気もしたが、思いやりの心を持ってゆずることにする。
「ほら、おいしそうでしょ」
イルゼはもう一度、初めて会ったときと同じように、兵士のほおをつついた。
だがどうも、先ほどとは雰囲気が違った。イルゼが兵士にふれても、目も口もまったく反応しなかった。それどころか、先ほどよりも固く冷たくなっていて、息もしていないようだった。
「おじさん?」
イルゼが兵士の肩を揺らすと、赤い液体がどろりと地面に広がる。見ると、兵士の被っているヘルメットの下からは、血が滲んでいた。
「あ……」
イルゼは小さく声をあげた。
兵士は怪我をしていて、イルゼが知らないうちに死んでしまっていたようだった。
じっとよく確認してみると、兵士の虚ろになった瞳が、薄く閉じたまぶたの隙間からかすかに覗いていた。
青ざめた白い顔には、喜びも悲しみも、どんな感情も見えなかった。
ぬくもりを失った肩から手を離し、イルゼはゆっくりと立ち上がった。
そして、死体になった兵士を見下ろす。
そこに、人が死んでいた。
人が死ぬということは、イルゼの知る常識では、大変なことであるはずだった。
しかし今、敵国の見知らぬ若い兵士の死体を見ているイルゼの気分は、図鑑に載っている種類の鳥の死骸を森で見つけたときの気分とそうたいして変わらなかった。
同じ人間の死であっても、兵士の死から感じるものは、村の教会で行われる葬送の厳かな雰囲気とはまるで違っていた。
イルゼは花に埋もれて死んだ兵士を見下ろしたまま、手に持っている兵士にあげるはずだったクッキーを口にした。
ブルーベルの香りの中でもささやかに香ばしく匂うクッキーは、薄焼きでさくさくと歯触りが良かった。白胡椒やシナモンなどのスパイスがふんだんに使われているため、ただ甘いだけではない風味の豊かさがある。
よくクッキーを味わうと、イルゼはそれをごくりと飲み込み言った。
「おじさんが死んじゃったから、これはわたしが食べるよ」
そうしてイルゼは、二枚目のクッキーをブリキ缶から取り出す。
目の前で兵士は死んでいたが、クッキーは変わらず美味しかった。
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