鯛と野蒜の和え物④ 鯛と野蒜の和え物

 帰り道の夜の大路。


 朝平は仲持と別れた後、一人になって歩いていた。傍流の貴族である朝平の家は、それほど大内裏から近いわけではないので徒歩で帰るには少し距離がある。

 あまり飲まなかったし飲めなかったのだが、気分はかなり悪かった。


(だから酒礼は嫌なんだ……)


 込み上げる吐き気を堪えて、朝平は必死につばを飲み込み息を吸う。頭は重く、足下はふらついた。

 それでも何とか前に進んで自宅に大分近づいたころ、朝平は一件の空き家の前を通った。


 土塀の向こうに見える檜皮葺の屋根は荒れ果てて草が生え、門も壊れて板が外れたり傾いたりしている酷い有様の家である。

 しかし朝平は、かつてのその家の住民を知っていた。


(あの桃の花はまだ、残っているんだな)


 朝平は立ち止まり、主屋の脇に植えられた桃の木を月明かりの中で塀越しに見上げた。

 それは門の外からでもよく見える高さの木で、靖家の屋敷の桃の花とは違う淡く儚げな花をつけている。


(昔はあの木の下で、俺も宴を楽しんだ……)


 以前には朝平にも友と呼べる存在がいて、ささやかだが憂鬱ではない宴で共に食べ語り合った。

 その思い出の残る場所が、この家だった。


 ◆


 今夜と同じように桃の花が満開を迎えていたある春の日。

 その宴にいたのは朝平と屋敷の主である瀬良久麻呂せらのひさまろ、そして紀春勝きのはるかつの三人だった。


 久麻呂はちょうど朝平と同じ年に官衙に勤め出した貴族の子弟で、春勝は朝平と同じ一族出身の武官で共に久麻呂と親しくしていた。

 若い役人の三人は星空の下、屋敷の外に張り出した縁側の上で料理が並んだ卓を囲んだ。


「もう本当に、このごろは食べる飲むしか楽しみがないよ。あとはずっと宮城で働いている気がする」

 横になって片肘をつき、久麻呂が卓の上に置かれた高坏から榧の実を取って食べる。

「でもお前の和歌は、いつも皆に褒められてるじゃないか」

 春勝は盃を片手に、武官らしく角ばって日に焼けた顔で久麻呂に尋ねた。


 そのときちょうど鯛の和え物を惣菜にして強飯を口に含んでいた朝平は、黙って二人の会話を聞いていた。


 久麻呂は三人の中で一番に和歌が得意で、帝に献上される作品に詠んだ歌が選ばれたこともある。また目元が凛々しい顔は端正で、婦人によく好かれるのも久麻呂だった。

 だが久麻呂本人は自分が評価されることにそれほど喜びを感じていないらしく、榧の実をまたもう一つ口に放り込みながら首を横に振る。


「あれは仕事の一環で、楽しいものじゃない」

「そんなこと言わずに、今日も何か詠んでくれよ。この桃の花とか一つ」


 やる気なく振る舞う久麻呂をからかうように、春勝は満開の桃の花の木を指さす。

 久麻呂はふてくされた表情で起き上がり、卓の上から今度は茹でた皮付きの里芋をとった。


「いやだね。朝平がこの里芋で詠めばいい」

 くちびるを尖らせた久麻呂が、里芋をかじって言い捨てる。

「なんで急に俺で里芋なんだよ」

 急に名前を出された朝平は、口の中の飯を飲み込んで抗議した。

 春勝はその様子を眺めて、面白そうに笑っていた。


 大切な人と語り合う時間は楽しく、空も花も何もかもが鮮やかに目に映る。

 気心が知れた者同士なので無理して空きっ腹に酒を飲む必要はなく、朝平は気分よく飲み食いした。


 料理もとても美味しく感じられ、特に小振りの器に盛られた鯛と野蒜の和え物が飯の進む味だった。

 小振りな鯛を三人で分けたため量はそれほど多くはないものの、生のまま刻んで醤酢で和えた鯛は歯応えがあって、噛むほどに旨味が口に広がった。また細かくすりおろされた野蒜のぴりっとした刺激が、鯛に絡んだ醤酢の甘酸っぱい塩辛さを引き立て食欲をそそる。


 野蒜の味がくせになった朝平は、鯛の和え物と強飯をゆっくりと大事に食べつつ、盃の酒に口をつけた。

 本来飲酒は苦手な朝平だが、醤酢の風味が酒が良く合うのでほんの少しだけなら飲むことができる。酒瓶の中はお湯で薄めた粗酒だが、かえってそれくらいが朝平にはちょうど良かった。


 ささやかな酒の風味を楽しみながら、朝平はつぶやいた。


「俺はこうしてときどきゆっくり食べて飲むことができれば、他に望むものはないよ」


 すると久麻呂は不思議そうに朝平を見た。


「そうか? 俺は本当に霞だけを食べて生きていけるなら、世を捨てて山で暮らしたいが」

「会うたびに二人は、その話をしてるよな」


 久麻呂が里芋を食べながら不平をもらし、春勝が茶化して応える。

 話の流れはそれほど明るくはならないが、それでもほろ酔いの良い気持ちの中、友の声が返ってくるのは心が安らいだ。


 しかしそうした満たされたひとときのある日々にも、いつか終わりが待っていた。


 そのころはちょうど太政大臣である靖家の専横が徐々に深まっていた時期で、政治は乱れて民の暮らしはより貧しいものになった。


 貴族として生活には困っていなかった朝平は諸々の問題に対してできるだけ見て見ぬふりをしていたが、どうやら久麻呂は違っていた。久麻呂は冷めたふりをする一方で靖家の政治に憤りを抱えていき、それはいつしか明確な叛意となっていたらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る