鯛と野蒜の和え物② 太師の館の宴会

 現在の太師、つまり太政大臣であるのは藤原靖家ふじわらのやすいえという男である。

 帝の外戚である有力一族の人間として政敵を一掃しすべての権力を手中に収めた彼は、大内裏にほど近い場所に広大な住居を構えて、華やかな宴や歌会をよく催していた。


 朝平と仲持が靖家の屋敷に着くと、重々しい造りの門の前には従者が立っていた。二人は従者に名前を告げて敷地内に入り、正殿の方へと進んだ。

 靖家邸の正殿は瓦葺の黒い屋根が白壁に照り映える大きな建物で、柱も庇も立派だった。


「ここは兵部省の館舎よりも、ずっと手が込んだ造りだな」

「海の向こうから来た職人に、新しく建てさせたものですからね。会場の庭園はこちらだそうです」


 異国風に朱が塗られた柱を朝平が見上げると、仲持は建造の背景について軽く説明した。すでに楽の音や人々のざわめきが耳に入ってはいたが、それは建物の中から聞こえるものではなかった。

 朝平は壮麗な建築に目を奪われながら脇殿の横を抜けて、仲持と共に正殿の裏にある庭園へと回った。


「わあ、いい時間に来れましたね」


 庭園を目の前にした仲持が、嬉しそうに声を上げる。

 正殿と同様、靖家邸は庭園も広大で華やかだった。


 庭の中心には橋がいくつか架け渡された大きな池があり、砂利が敷き詰められた岸辺には大小様々な石が置かれている。その周囲には庭を鑑賞するための東屋や楼閣が配されて、夕焼けの赤い光の中で水面に映って揺れていた。

 咲き誇る桃の木の下では宴の出席者が席に坐って話しており、その様子はまるで一枚の絵のように穏やかな美しさがある。


(さすがに太政大臣の庭なだけあって、派手だな)


 朝平は仲持とは違いまったく高揚した気分にはならなかったが、目の前の光景に一種の納得は覚えた。

 塞ぎ込んだ気分の朝平には夕日の中で輝く庭園はあまりにも眩しく、すぐに目をそらしてしまいたかった。


 しかし仲持が目を輝かせたまま庭を眺め続けているので、朝平も仕方がなく付き合って見ていた。

 しばらくそうやっていると、背後から男性の声がした。


「仲持殿、よくぞいらした」

 名前を呼ばれた仲持と共に後ろを振り返ると、立っていたのは笑顔の中年の男だった。紫色の衣を着た身体は恰幅がよく、帽を被った頭は少し禿げている。

「義兄上。今夜は、どうぞよろしくお願いいたします」

 にっこりと男性に微笑み返して、仲持は挨拶をした。仲持は宴には姉婿が来ると言っていたので、彼がそうなのだと思われた。


 仲持の姉婿らしき男は、快活な声で応えて仲持の肩を軽く叩いた。


「ああ。太師様は今日も様々な料理を用意してくださっているそうだ。で、そちらが……」

「私と同じ兵部省に勤めている紀朝平殿です。年も近い、私の友ですね」


 男が朝平の方を見ると、仲持は朗らかにその紹介をする。

 朝平は仲持のことを一度も友だと思ったことはなかったが、否定ができる状況ではないので失礼のないように受け答えた。


「朝平です。仲持殿とは、親しくさせていただいております」

 軽く朝平が頭を下げると、男は満足そうに頷いた。

「私は藤原盛仁ふじわらのもりひとだ。若い知り合いが増えるのは嬉しいものだな。今日は都で一番の太師様の屋敷と宴を、よく見て楽しまれるといい」

 そう言って朝平に言葉をかけた後、盛仁はまた次の知り合いの方へと歩いて行った。


 朝平は盛仁の遠ざかる背中を見ながら、仲持に尋ねた。


「そういえば仲持殿の姉婿は、藤原盛仁殿だったな」

「そうですよ。父上が進めた縁談です」


 仲持は何とはなしに答えた。


 藤原盛仁は最近、太政大臣靖家に重用されている貴族の一人である。

 その彼に娘を嫁がせることを成功させた仲持の父はなかなかのやり手であり、義弟となった仲持のこれからの出世の展望も明るいと言える。


 そうした人物に友と思われることは本来得なことであるはずだが、朝平はやはりそれほど嬉しくはなれなかった。


 それからあと何人かと挨拶をすませて、朝平は仲持と並んでそれぞれ定められた岸辺の席に坐った。


 日は沈みかけあたりが暗くなってきたので、庭のそこかしこでは松明による明かりが灯された。明かりに照らされ宵闇に浮かぶ桃の花の色は幻想的で、隣の仲持はまた素直に感動していた。


 せわしなく動き回っている従者たちを見ながらしばらく待っていると、屋敷の主である靖家と何人かの位の高い客人が奥の楼閣の方から歩いてきた。彼らが坐ってちょうど用意された何十かの席はすべて埋まり、その後靖家の挨拶があってやっと宴は始まった。


 宴にはまず酒礼があり、最初に客人と主との間で盃が交わされた。


 盃は酒瓶と共に席を巡り、何度も飲み干されては満たされる。

 酒瓶として使われているのは黒地に唐草や花が描かれた漆胡瓶で、優雅に弧を描く取っ手が目を惹いた。


(酒は本当に苦手だが仕方がない……)


 順番が回ってきた朝平は、赤い漆塗りの盃に満たした酒を嫌々飲んだ。

 濁酒はむせそうなほどに香りが強く、飲み込んだ後はひりつくような風味にのどが渇いて苦労する。

 しかし次に順番を待っていた仲持は、軽々と飲み干して朝平に話しかけた。


「他ではなかなか飲めない、旨酒ですね」

「ああ、めったにない味だ」


 旨酒らしさなど感じる余裕はまったくない朝平は、早くも頭がぐらつくのに耐えながら当たり障りのないように答えた。

 盃は仲持から先も、順番に回っていった。

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