牛骨の煮込み料理② 霊廟に仕える巫女
布団の中だけが温かい冬の朝、ハユンは幼いころの夢から目覚めた。
痩せた大地に、差し迫る飢えと死。
もう夢の中でしか見ることのない故郷の記憶は、いつもハユンをあまり良い気持ちで起床させてはくれない。
(今日は祭祀の日だっけ。早めに厨房、行かないと……)
ハユンはぼんやりとした頭で布団を畳み、洗面用に水を入れておいた盆で無愛想に成長した顔を洗った。
今のハユンは餓死寸前のやせ細った少女ではなく、陵墓に眠る王たちに日々捧げる料理を作る巫女である。だから朝も夕も、ハユンは厨房に立たなくてはならない。
水の冷たさにもあまり眠気が飛ばないまま、ハユンは寝間着から白色の上衣と赤色の裳に着替えた。その二色だけが、陵墓の巫女が身につけることができる色である。
ただ寝起きするためだけの狭い部屋には、長櫃くらいしか家具はない。
ハユンは編んで後ろに垂らした髪の先に布の飾りを付け、手早く身支度を終わらせた。
宿舎から出ると、外は早朝特有の静謐な薄暗さに包まれている。
ハユンは吐く息で手を温めながら、足早に職場である厨房へと向かった。
ハユンが巫女として仕えている陵墓は、都から四十里ほど南に下った場所にある丘陵地帯にある。歴代の王の墳墓がいくつも造られた聖域であり、広大な土地にはハユンのような祭礼や管理に関わる人々だけが住んでいる。
住民となる者は戸籍の情報をもとに卜占によって選ばれ、生まれ故郷から引き離されて陵墓の聖域の中で育てられる。
ハユンは九歳のときに飢饉で死にかけていたところを陵墓の巫女に選ばれ、息を引き取る寸前に陵墓の遣いによって保護された。十分な食事を与えられて健康を取り戻したハユンは、料理方の巫女として教育され今に至る。
巫女に選ばれてから十年間、ハユンは陵墓の敷地内から出たことがないし、この先も当分は外に出ることはない。ハユンは亡き王たちに仕える者として、この陵墓で働き続けるのである。
◆
陵墓は広いが、ハユンが過ごすのは基本的には宿舎と厨房の周辺だけである。
「おはようございます」
厨房に着いたハユンは、袖に手を入れて合わせて挨拶をした。
常に清潔に保たれた土間の厨房には他の料理方の巫女が何人かいて、普段よりも早めに食材を運んだりしている。
厨房の長であるソンスクは、調味料の入った壺を開けて味の確認をしていたが、ハユンの挨拶に気付くと応えて指示を出した。
「おはよう。今日のハユンの担当は、炊飯よ。それが終わったら、昼からの祭祀の設営を手伝ってちょうだい」
「はい」
ハユンは返事をすると、米櫃のある方へと向かい米を量って研いだ。
この国で祭祀といえば先祖を祀る行事のことを意味し、今日ここで行われる歴代の王のための祭祀は王族も参列する盛大なものである。この日のために陵墓に仕える者たちは皆、何日も前から準備を進めてきた。
葬られた王たちのために食事を作るというハユンの職務自体は変わらないが、特に今日は重要な日なのだ。
料理方が大体揃うと、ソンスクは竈の前に人を集めた。そして竈の火に手を合わせ、ソンスクは普段よりも念入りに長めに祈り始める。
「今日も作る料理が清らかであるように、お祈り申し上げます」
「お祈り申し上げます」
ソンスクの言葉をくり返し、ハユンや他の料理方の巫女も竈に祈った。
竈は神聖な火の神が宿る場所であり、祭祀の日以外でも料理を始める前には必ず料理方全員で祈る手順があった。その行為に本当に意味があると思っているわけではなくとも、それが習わしだと言われればやらなくてはならない。
竈へのお祈りがすむと料理方の巫女たちは分かれて、それぞれに与えられた仕事に入った。
炊飯を任せられたハユンは、研いで水に浸しておいた米を大釜に入れて水を加え、竈にかけて火の調節して煮立つのを待った。釜の中の米はかつてハユンが故郷で醤漬けと食べていた粟飯とは違う、真っ白な白米だ。
このようにして作られた食事は毎日祭壇で亡き王たちに供され、半分が供物台の炎によって焼かれた後に残り半分は陵墓に仕える者たちによって食される。
またさらに墳墓の中には日々の供物とは別に、副葬品として米や干し肉などの大量の食糧が棺ともに埋葬されていた。先祖が死後の世界でも食事に困ることがないように慰霊するのが、子孫である今の王の義務であるからだ。
(でも死んだ王様だけじゃなくて、生きている民が食べることも大事なはずなのに)
勢いよく燃える竈の火を眺めながら、ハユンは考えた。
燃やされたり葬られたりした食べ物のことを考えると、飢饉のときの記憶が頭をよぎることもあった。
陵墓の外を見る機会は今はないが、現在も不作と重い年貢により飢えて死んでいく人々が少なくないと聞く。陵墓の中で消費されていく食料を飢饉に苦しむ農村に配れば、命が助かる人もいることだろう。
(ただの料理方の私には、どうにもできないことだけど……)
ハユンは釜の水が煮立ったので、火ばさみで薪を抜いて火を弱めて米を蒸らした。
実際に目にすることはなくとも、今この瞬間もかつての自分のように飢えに苦しんでいる人がいることを思うと頭が痛む。
自分が悩んだところで無益だとわかってはいても、一旦考え出すと気分はなかなか軽くはならなかった。
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