揚げ魚の甘酢あんかけ② 身代わりの依頼

 岳紹は校尉によって、普段はまったく足を踏み入れることのない宮殿の敷地内に連れてこられた。中へと通されたのは人気のない古びた建屋で、壁のあちこちが崩れかけ、歩くと床が軋む音がする。


(こんな場所に案内されるということは、俺は内通者と間違えられて尋問されるんだろうか)


 最悪な場合を想定しながら、岳紹は奥の部屋に進んだ。

 今までは平均的な不幸しか知らなかったが、もしかするとここで度を超えた不幸を経験するのかもしれないとも思う。


 岳紹は、暗い気持ちで部屋の中を見た。


 油皿の小さな明かりで照らされた狭い室内には、古びた建物とは不釣り合いな小奇麗な雰囲気の青年が椅子に座って待っていた。高官が着るような立派な袍を着ているので、位の高い人物だということはわかる。


 岳紹はどう反応すればいいのかわからないまま、とりあえずひざまずいた。


 まず校尉は、岳紹をその男に紹介した。


敬然けいぜん様。この者が岳紹です」

「なるほど、彼が」


 まるで何かと比べるように暗闇で目を凝らし、男は岳紹を上から下までじろじろと見る。

 そして校尉は目の前の青年が誰であるかを、今度は岳紹に説明した。


「この方はこの浪国の侍中、敬然様だ。失礼のないように、礼儀正しく接するように」


 校尉は厳しく岳紹に言い含めると、二人を残して席を外した。

 この敬然という青年と二人っきりにならなくてはならない用が、岳紹にはあるらしかった。


「侍中……。そんな偉い人が、なぜ俺を」


 未だ状況がまったく呑み込めない岳紹は、ひざまづいたまま敬然を見上げた。

 侍中といえば皇帝の側近であり、小汚い革の鎧を着た兵士である岳紹とは縁の遠い人物である。


 感情の読み取りにくい硬質な声で、敬然は答えた。


「端的に言えば、お前の顔や背格好が皇帝陛下に似ているからだな」


 岳紹は理由について考える前に、自分が皇帝に似ているという事実にまず驚いた。


「俺が、皇帝に似てるんですか?」


 岳紹の顔は嫌われるほどなく醜くもなく、好かれるほど整ってもいないごく平凡な中の下である。背もそれほど高くはないし、印象に残るものは何もない。

 年齢がそう変わらないことは知っていたが、まがりなりにも一国を統べる特別な存在である皇帝が岳紹のような取り立てて特徴のないごく普通の外見であるのは意外だった。


 驚いた岳紹が声を上げても、敬然はまったく表情を変えずに淡々とした調子で頷いた。


「そうだ。お前の顔は瓜二つというほどではないが、陛下によく似ている。だから皇帝の替え玉として、お前は兵士の中から選ばれたのだ」

「替え玉……ですか?」


 あまりにも短い言葉で語られる事情に、岳紹は敬然が自分に何を求めているのかがまだ理解できてはいなかった。

 だがそれなりに長い半生の中で多数の中からわざわざ選ばれたことは初めてである気がして、岳紹は喜んでいいことなのかわからないのにも関わらず、早くも得した気分になり始めていた。


 さすがにもう少し考えようと思い、岳紹は敬然に尋ねる。


「しかし替え玉というのは、王の代わりに王として振る舞う人のことですよね。そんなことは、一兵士の俺にできるとは思えないのですが」


 やんわりと岳紹が実現の難しさについて言及すると、敬然は自嘲気味に説明した。


「そう長い期間の話ではない。明後日の夜、この都に犀国の軍勢がやって来て、この宮殿を占拠するまでの間の話だ」


 敬然の神経質そうな白い顔が、くすんだ笑みを浮かべる。


 犀国に都を落とされる日は近いと言われていたが、どうやら明後日この康城は終わるらしい。

 だんだんと岳紹は、自分に与えられようとしている役割を理解した。


「つまり身代わりを置いて、皇帝陛下は脱出されると」

「ああ。お前は囮として死に、皇帝は生き残る。そして国は続いていく。気の毒だが、お前に断る権利はない」


 敬然は皇帝の代わりに死ねという命令を、このうえなく冷たく言い放つ。

 相手に選択肢を与えるふりすらしない敬然の強引さには、人に従うことに慣れている岳紹もさすがに少々どうかと思った。だがそれ以外は特に断る理由は思い浮かばない。


(皇帝の替え玉として死ぬ……。それはそれで悪くはないか)


 兵士として戦っても死ぬ可能性が高く、生き残ってもそう良いことがあるとは思えないのがこの乱世の現状である。それなら他の人には経験できない何かを知ってから死にたいと、岳紹は思った。


 岳紹は皇帝に深い敬意を持っているわけではない。また見知らぬ誰かのためになりたいわけでもない。

 ただ逃げた皇帝の代わりに皇帝として死ぬことで人生を終わらせることそのものへの興味で、岳紹はその選択肢を選び取る。


「そういうことなら、俺がやるしかないですね。わかりました。引き受けます」


 目を伏せて息を吐き、岳紹はそのままあっさりと替え玉になることを承諾した。

 埃っぽい床では油皿の明かりがつくる影が、ゆらゆらと揺れていた。

 すると静かに響く敬然の声が、岳紹の頭上で答えた。


「話が早くて助かった。すまないが、頼んだぞ」


 こうして、岳紹は皇帝の身代わりになることになった。

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