5.松鼠桂魚 ―皇帝の身代わりになった男―
揚げ魚の甘酢あんかけ① 都の端の門の衛兵
その夜、
冷たさを増す秋の宵闇に包まれる都を、松明の炎が明々と照らす。
ときおり風にゆらぐその煌めきを、
(じっと立っているのは、敵が近づいて来ていても眠いな……)
岳紹はあくびを噛み殺して、槍の柄を握りしめた。下級兵士である岳紹の装備は簡素な革の鎧と最低限の武器だが、それでも連日立ち続ければ疲れはたまる。
しばらくすると、見回りに各所を巡る屯長が歩いてきて、岳紹と共に見張りに立つ衛兵に尋ねた。
「復陽門。問題はないか」
屯長の問いかけに、隣の衛兵の楊がはきはきと答えた。
「はい。異常はございません」
「では引き続き、任務を果たせ」
表情を崩さずに屯長は頷き、部下を連れて闇夜をまた歩き出す。
それからはまた、炎の燃える音だけが響く静寂が始まった。
隣の
(でもまあこうしていられるのもあと少しだけだ。せいぜい何もない時間を味わうとしよう)
松明の光が吸い込まれていく暗い夜空を、岳紹は見上げた。
岳紹が生まれ育った世界にはいくつもの国があり、ずっと争っては滅んだり、新しい国が建てられたりしていた。詳しい出来事は知らないが、聞くところによるともう百年近くも前から戦乱が続いているらしい。
長い戦争の歴史の中で、土地は荒廃し死と苦しみが日常になった。戦災、匪賊、疫病に飢饉。ありとあらゆる理由で、大勢の人が殺され死んだ。
岳紹は大地主の農地を耕す農奴の子に生まれ、物心ついたときには働いていた。農奴に課せられた労役はつらかったが、それが当たり前だった岳紹は人生とはそういうものなのだと思って過ごしていた。
だが戦乱により仕えていた家は滅び、岳紹は戦闘で起きた火災に焼け出され一応は居場所だった土地を失った。
流民となり働き口を求めて都にやってきた岳紹は、そのまま浪国の兵士になった。度重なる戦争によりどこの国の軍も人手不足になっているので、若くて健康な男なら誰でも兵士になることができたのだ。
(運良くここまで衛兵として戦場に行かずにすんだが、その幸運もここまでか)
岳紹は一人、空にため息をつく。
元々兵隊暮らしには明るい噂を聞かなかったし、実際に食事の不味さや宿舎の汚さなどは噂通りで良いものではなかった。衛兵として戦場ではなく都にいられたからこそ、何とか耐えることができただけのことである。
しかしまたこの康城が戦場になれば、岳紹は再び生きることに苦労しなければならない。
(どうせ頑張ったってそういいことがあるわけでもないし、別に死んでもいいと言えばいいのだが……)
生まれてから三十年近くたったが、岳紹は幸せに生きて死んだ人を見たことがなかった。それは岳紹が出会ってきた人々が特別不幸だというわけではなく、どうもこの戦乱の世では最後まで幸せな人生というものは本当に稀らしい。
岳紹が農奴として仕えていた大地主の家が焼かれたように、激しい戦火は身分に関係なく人を過酷な状況に追い込んでいく。たとえどこかで幸せになったとしても、いつか必ず戦がすべてを壊すのだ。
だから岳紹は自分の人生は、人並みの不幸なものなのだと思っていた。
誰よりも不幸だとは思わないし、他人が自分より幸せに見えるわけでもない。それ以下でも以上でもないのが、戦乱の世の末端を生きる岳紹を取り巻くすべてだ。そうした得るものの少ない人生だから、失ったところでそれほど惜しいとは思わない。
この結論にももういい加減に飽きてきたところだが、岳紹の生きる日々が変わらず終わらないのだから仕方がなかった。
何度も繰り返した灰色の思考の中で、岳紹はただやがて訪れるはずの見張りの交代を待った。
そして月や星の場所が変わるくらいに時間は過ぎたころ、岳紹のいる門へと誰かが歩いてくる音がした。
(もうそろそろ、交代が来たか)
岳紹は次の見張りが来たのだと思い、足音の方を見た。
しかしそこに立っていたのは代わりの衛兵ではなく、見回りの屯長よりもさらに階級が上の校尉だった。
校尉はしかめっ面で、岳紹に問いかける。
「お前が岳紹か」
「はい、そうですが」
なぜわざわざ上官が自分を訪ねて来るのかと、岳紹は不思議に思った。何か間違いをしたのだろうかと、ここしばらくのことを思い返すが心当たりがない。
だが校尉は事情を詳しく説明することなく、大仰な調子で口を開いた。
「ある御方が、お前に用があるそうだ。ついて来い」
その返答に疑問だけが増えた岳紹は、隣の楊と顔を見合わせた。
規則順守を気にする楊は、二人一組が原則の見張り役が一人になることを気にしている様子だ。
「代わりの衛兵は手配してある。早くするんだ」
校尉は楊の目での訴えに鬱陶しげに答えて、岳紹を急かす。
「かしこまりました」
仕方がなく岳紹は拱手をして、同僚を一人残して上官の後に従って歩いた。
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