厚焼きの卵料理⑥ 厚焼きの卵料理

 真っ白な皿の上に載ったこんがりと丸い厚焼きの卵は、やはり何回見ても美味しそうである。


(伯父上、料理長。ごめん。これバジャルド殿じゃなくて、俺が食べるよ)


 この料理と自分に関わった人々に一応心の中で謝罪して、後ろめたさを振り払って卵にナイフを入れる。具はしっかりと入っているようで、切る感覚は少し重かった。


 それをフォークで口元に運ぶと、焼けた卵のよい匂いと共にオリーブオイルの香りが食欲を刺激する。クルスはまず匂いだけでお腹をふくらませるくらいの気持ちで香りを吸い込み、それから口に入れた。

 その瞬間、クルスは状況を忘れそうなほどに幸せになった。


(久々に食べる、ちゃんと美味しいものだ……)


 ほのかに温かい卵がほどけて、口の中に広がり舌を包む。

 最近は薄いスープとパンしか食べていなかったこともあり、普段の献立だったはずの厚焼きの卵が無性に美味しく感じられた。


 塩のきいた卵の生地はしっとりと風味豊かで、輪切りのじゃがいもの食感のおかげで食べごたえが増している。飴色にとじ込められた玉ねぎの旨みもじんわりと味わい深く、クルスは大切に噛みしめた。


 クルスがいそいそと、でもすぐになくなってしまわないようにゆっくりと厚焼きの卵を食べているのを、バジャルドは何も言わずに隣で見守っていた。


 ずっと見つめられるのはそう居心地の良いものではなかったが、でも嫌ではなかった。


 クルスは二口目、三口目と料理を口に運んだ。

 切る場所によって卵と具の配分が違っていて、その味の変化もまた楽しかった。


 しかしずっと食べられそうな気がするくらいでも、やがて最後の一口はやってくる。元々あまり大きくはなかったので、なくなるのに時間はかからなかった。


(これでおしまいか)


 クルスは最後の一切れをフォークで突き刺して、惜しみながら食べた。

 縁でよく焼けた卵は、香ばしさがあって終わりまで美味しかった。食べ終えてしまったさみしさもあるが、満腹感も確かに感じられる。


「ごちそうさまです。ありがとうございました」


 もらったものを食べ終えたクルスは顔を上げ、バジャルドにお礼を言った。

 バジャルドは目元をゆるめ、クルスに尋ねた。


「美味しかったか?」

「はい」 

「なら、良かった」


 気の利いた感想を言うべきだろうかと迷いながらも、クルスは単純にうなずいた。


 するとバジャルドは嬉しそうに笑って、クルスの頭に手のひらをのせて撫でた。

 ごつごつした大きな手が、クルスの黒い巻き毛を軽くかき混ぜる。その手は父親とも親戚とも違う、不思議な温もりをクルスにくれた。


 バジャルドは深く青い瞳にクルスを映し、何ともなしにつぶやく。


「せっかく貴重な食材を使って作られた料理なんだから、まだ未来に価値がある者が食べるべきだろう」


 聞き流してしまいそうなほどに、その声は軽い調子だった。


 しかし何をどう思ってバジャルドがその言葉を言ったのかが、ざらりとクルスにひっかかる。


(生きても死んでも、この人には騎士としての未来があるはずなんじゃ? これから物語みたいな活躍をする人なんだから)


 クルスは補給路を開いて味方を救うために戦場へ行くバジャルドは偉い人なのだと思っていたし、たとえあえなく敵に討たれて死んでもそれは尊い騎士道を歩んだ結末なのだと信じていた。


 甲冑の似合う姿に、大人としての態度に見識。

 バジャルドはそうしたクルスにはまだないものをたくさん手に入れている。


 しかし一方でバジャルドの言動は、クルスがこの部屋に来た最初からどこか斜に構えたところがあった。


(この人は騎士らしく名誉のうちに死んでも、結局は意味のないことだと思っているってことか……?)


 クルスは微笑み頭を撫でてくれているバジャルドをじっと見つめた。


 窓の外は昼下がりの太陽にまぶしく照らされているが、石壁に囲まれた部屋の中は心地良く薄暗い。

 ときおり入る風に金髪をなびかせている目の前のバジャルドは、親しげだけど遠かった。


(そういうのはちょっと、俺にはよくわからないな)


 クルスは早々と、バジャルドの投げやりな態度と向き合うのをやめた。

 もう少し頑張れば、バジャルドの考えていることが理解できそうな気もしている。けれどもそんな努力をする気にはなれなかったので、浮かんだ疑問は無視をして忘れることにした。


 ぶ厚くて壊すことのできない壁が、バジャルドとクルスの間にはある。もしもその壁を越えてあちら側へ行くことができたなら、クルスは大人に近づけるのだろう。

 しかしバジャルドのいる側の世界は、クルスにはあまり面白いものには見えない。


 それなら、とクルスはほころびに目をつむる。


 バジャルドがある程度は本当に思いやって料理を譲ってくれたことは、クルスにもわかっているし感謝している。

 だけどそれ以上の理解は、クルスには必要のないものなのだ。


 バジャルドの手の重みを感じながら、クルスはただ選択肢を一つ手放して黙っていた。


 バジャルドは何か感じるところがあったのか神妙な顔になって、なぜか大事そうにクルスの頭から手を離した。


 その切ない眼差しに、きっとバジャルドは表情を間違えてしまったのだとクルスは強引に解釈する。

 これもまた見ても見なかったことにして、クルスはさらにおかしな沈黙が流れる前にと使い終わった食器を持って立ち上がった。


「あのそれじゃ、俺はこれで失礼します」

「ああ、引きとめて悪かったな」


 そのときにはもうバジャルドの表情は元に戻っていて、軽く朗らかに笑っていた。

 クルスはその顔にほっとしたような気もしたし、ちょっと申し訳ないような気もした。


「俺、バジャルド殿ならきっと、命を懸けて敵を倒してくれるって信じてます」

 クルスは扉を開けながら、振り返って声をかけた。

「ありがとう。私も出来る限りのことはしてみせるよ」

 やわらかな声で答えて、バジャルドはクルスを見送る。


 これがクルスとバジャルドの、最初で最後の話した時間だった。

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