羊肉のすいとん⑤ 羊肉のすいとん

 そのうちに火にかけていた鉄鍋がぐつぐつと煮立ち、湯気とともに羊の肉のよい匂いが広がった。

 同時に餅をちぎり終えた瑞雪が、熱された鍋に餅や葱を投入し蓋をする。


 着実に料理が出来上がっていく様子を、琳玉は期待に満ちたまなざしで見つめた。


 そしてしばらく待っていると、瑞雪は出来上がったすいとんを器によそい盆に載せて運んだ。


「できました」

「ありがとう。とても美味しそう」


 机に無造作に置かれた一品を、琳玉はお世辞抜きで称賛した。


 青磁の器に入った白濁した湯が、卓上の燭台の火を反射してきらきらと輝く。細かくちぎられた焼餅は汁をすって丁度よい大きさにふくらみ、千切りの葱の緑が白湯に彩を添えていた。

 余り物で手早く作ったものであるのにも関わらず、それは一つの絵のように綺麗だった。


「あとはお好みで、こちらもどうぞ」


 瑞雪はそう言って、小皿に分けた油味噌と辣韭も机の上に並べた。

 付け合わせもあることでさらに食欲がわき、琳玉は満面の笑みで箸を手に取る。


「それじゃあ、さっそく」


 琳玉はまず、ほどよくふやけた焼餅を口に運んだ。

 もっちりとした食感の餅は食べ応えがあり、噛みしめる度に湯の味が染みわたる。

 湯は羊独特の風味が引き立つあっさりとした塩味で、隠し味の花椒の香りと辛みがほんのりと感じられた。出汁の上品な仕上がりと絶妙な塩加減のおかげで、濃厚だが口当たりがやわらかく飲みやすい。


 舌を火傷しないように、琳玉は息を吹きかけ冷ましながらさらに食べた。熱々の白湯は先ほどまで廊下で凍えていた琳玉の体を芯から温めて、幸せな気持ちにする。

 また奥に隠れている骨付きの羊肉もほろほろとほぐれて、残り物とは思えないほどやわらかかった。長時間じっくりと煮込まれた結果、肉の臭みは弱まりまろやかになっている。

 夜食のわりに量はかなり多めであるのだが、優しい味わいのおかげでするすると胃に入ってしまった。


 琳玉は匙で湯気の立つ湯を飲み、瑞雪に問いかけた。


「餅も肉も、丁度良い味わいだね。これは元々の白湯もあなたが作ったの?」

「はい。俺が作ったものです。お口に合いますか」


 一仕事終えた瑞雪は、使い終えた鍋やまな板を片付けながら琳玉の様子を軽く伺った。


「ええ、とても」


 琳玉は今度は具の野菜を含んでもう一口飲み、満足していることが伝わるように微笑んだ。

 シャキシャキとした食感の残る葱は甘くて、茸の歯ざわりも良く、その旨味は湯の味をより深くする。すべての素材が溶け合い一つに重なり、器の中で完全に調和していた。


 冬の城の中での空腹や寒さも、夫の裏切りや兄の無関心による疎外感も、国難を原因とする憂鬱な気分も、何もかもが瑞雪の料理によって満たされ消えた。


 琳玉は今この瞬間だけは、この城で一番幸せなのだと思った。

 これほどに幸福な食事は、これまでの人生にはなかった気がした。


 普段の食事と違い、琳玉の目の前で琳玉のためだけに作られたものであるからより美味しいのかもしれないとも思う。

 瑞雪は何事に対しても最低限の感情しか持ち合わせていないようだが、それでも料理は温かみを感じさせるだけのものがあった。


 そしてまた琳玉の脳裏に蘇る幼い恋が、瑞雪の料理を特別にする。

 琳玉は本当は見ていないのにも関わらず、今夜の夜食に使われた白湯に使う羊を解体している瑞雪の姿が心に浮かんだ。

 本心はどうであれ、瑞雪は料理人として持っている技術のすべてを使い、ただの食材を美しいものへと昇華する。かつての琳玉も今夜の琳玉も、その営みにまぶしく恋焦がれるのだ。


 琳玉は一度はあきらめたものをごく側に感じながら、羨む気持ちで器の中身を見つめた。


 琳玉も切り刻まれ鍋で煮られた羊のように、瑞雪のいる料理人と食材の世界に属していたかった。

 その望みをはっきりと自覚したとき、琳玉の心に一つの理想の結末が浮かんだ。それは口にするのも憚られるような、気味の悪い考えであった。

 だが近い将来に死が待っている琳玉は、自制できずに瑞雪の名前を呼んだ。


「ねえ、瑞雪」

「はい。何でしょうか」


 瑞雪は砥ぎ石で包丁の手入れをしながら返事をした。

 一通り片づけを終えてやることがなくなった瑞雪は、琳玉が厨房にいるため退室することもできずに雑務で時間をつぶしていた。


 反対にできる限り長くこの時間を味わっていたい琳玉は、熱っぽく瑞雪に話しかけ続ける。


「彗国の野蛮人は、攻め滅ぼした国の女や子供を殺して、その肉を煮て食べてしまうって話、聞いたことがある?」


 敵の侵略を恐れる人々が囁く、夷狄に滅ぼされた国の人々が受けた残酷な仕打ち。

 それは異民族への偏見が生んだ間違いの可能性もあるが、城の中からしか世界を覗けない琳玉にとっては真実になってしまった。琳玉はその伝聞を、瑞雪に話した。


「噂では、耳にしたことがあります。それがどうかしましたか?」


 本来は忌避すべき話題を出されてたことで、瑞雪は包丁を研ぐ手を止めて小さく眉をひそめた。琳玉の意図を掴みかねているようだ。

 琳玉はその瑞雪の困惑した表情に一瞬躊躇したが、結局はおそるおそる本題を告げた。


「もしもその噂が本当なら私は、この国が滅んだときにはあなたに捌かれて料理されたい」


 妙に甘くなってしまった琳玉の声が、瑞雪と二人だけの空間に響く。


 自分を捌いて敵の食べる料理にしろというあまりに突飛な依頼に、瑞雪は理解できないといった様子で目を見開いて琳玉を凝視した。

 しかし琳玉も冗談ではなく本気なので、さらに説明を加えて、真意を伝える努力をした。


「おかしな願いかもしれないけど、よく聞いて。どうせ死んでも野蛮人に好き勝手に死肉を食べられるなら、いっそあなたみたい人に素敵な料理にしてもらえたらいいと私は思うの。同じ末路でも、あなたの手でなら綺麗に終われる気がするから」


 どうにも言葉にすると安っぽくなってしまう気がするが、琳玉は後戻りもできないのですべて話した。


 兄の言葉に従って無難に自害すれば、生きている間は大きな問題はない。

 だが死んだ後まで遺体を守ってもらえるという確証はなく、琳玉の死後はみじめなものになるかもしれない。


 ならば敵の残虐行為も踏まえたうえで、自分の望みを叶えてみせようと琳玉は思った。

 滅びゆく国とともにただ死ぬのは嫌になるが、身を委ねる価値のある相手に心を込めて終わらせてもらえるなら、それは本望である。


「だからあなたは生き残って、私の最期を引き受けてほしい。お願いできる?」


 机の向こうで立っている瑞雪を、琳玉は狂いつつも澄んだ瞳で見つめた。


 瑞雪は黙って、包丁を手にしたまま琳玉を眺めていた。


 無骨で朴訥とした瑞雪の顔が一瞬鬱陶しげな表情を浮かべるのを、琳玉は見逃さなかった。それは間違いなく同情や憐憫ではなく、嫌悪だった。

 だが結局は主に従うことにしたのか、頭のおかしい人間には逆らえなかったのか、それともやはり少しは琳玉のことを気の毒に思ったのか、瑞雪は静かに頷いた。


「……かしこまりました。努力します」


 瑞雪は仕方がなさそうに、肩をすくめた。

 嫌々であっても受け入れてもらえたことに安心して、琳玉は笑顔になった。


「ありがとう。あなたは約束を必ず守るって、信じてるからね」

「はい」


 あきらめた様子の瑞雪の目と視線を交わし、契約を結ぶ。


 その後、瑞雪は面倒くさそうに息をついて、再び包丁の手入れに戻った。


 琳玉は包丁を研ぐ瑞雪の横顔を眺めながら、心配事がすっかりなくなった気分で残りのすいとんを付け合わせと一緒に食べた。

 辣韭は甘くほどよい酸味で、油味噌は湯に入れると風味が変わってくせになる。付け合わせのおかげで、最後まで飽きずに食べることができそうだ。


 つい先ほどまでは、琳玉は夫に裏切られ国が滅ぶ自分の未来が憂鬱だった。

 だが今は、すべてが終わる時が楽しみになってきている。


 きっと瑞雪は、琳玉を今以上に綺麗な品々に料理してくれることだろう。

 瑞雪にとって琳玉はただの主の一人でしかなかったが、食材としては大切にしてもらえるはずである。


 国が攻め滅ぼされるからこそ知ることができるこの結末を、琳玉は甘美な気持ちで思い浮かべた。

 民のことも肉親のことも、今はもう一切考える必要がなかった。


 瑞雪の手で花のように切り開かれていく羊の美しさ。


 かつてずっと憧れていたものを、琳玉は手に入れるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る