羊肉のすいとん④ 屠殺人と姫君

 厨房に着いてみると、琳玉の見立てた通りに戸の隙間からは灯かりがもれていた。


 琳玉は戸をそっと叩いて、中にいる者を呼んだ。


 しばらくすると戸が開いて、中から質素な木綿の服を着た背の高い男が現れた。

 琳玉の頭上で影になっている顔は朴訥として無愛想で、怒っているようにも見える。琳玉の記憶に間違いがなければ、それはかつての琳玉が覗き見をしていた料理人の青年の顔だった。


 琳玉は男を見上げ、脳裏に浮かんだ名前を呼んだ。


「えっと、あなたはもしかして瑞雪ずいせつ?」

「下人の名前を、よくご存じですね。王の妹君が何のご用でしょうか」


 男は開けた戸に手を掛けたまま、琳玉を見下ろした。やって来た人間が王妹の琳玉であることは理解できても、その訪問者が自分の名前を知っている理由まではわからないようだ。


「温かい物が少し食べたいと思って来たの。今すぐここで食べたいのだけど、お願いできる?」


 空腹でお腹が鳴りそうな琳玉は、まずは一番に用件を伝えた。

 厨房に来るにあたり、琳玉は心のどこかでは幼い日の片想いの相手との再会を期待していた。だが彼の顔や名前をちゃんと覚えていたわけではなかったので、会えばはっきりとわかったことに驚いた。


 瑞雪は用件を聞くと、渋々といった様子で琳玉を厨房に招き入れた。


「……わかりました。今から適当に用意します。廊下は寒いでしょうから、入って座ってください」

「ありがとう。突然でごめんなさい」


 厨房に入れてもらえたことにほっとして、琳玉はお礼とともに中に足を踏み入れた。


 初めて中から見た厨房は、かつて戸の隙間から見た印象よりも広かった。

 今はたまたま瑞雪しかいないだけで、普段はもっと大勢の人が働いているのだろう。奥には鍋や釜の載った竈がいくつもあり、土間の床の隅には大きな水瓶が置かれている。竈があるからか、普通の部屋よりも暖かかった。


 瑞雪は丁度食材の下ごしらえなどをしていたらしく、何かを入れた壺に蓋をして棚にしまった。

 そしてまた別の壺を棚から出して、瑞雪は素っ気ない態度のまま琳玉に尋ねる。


「これが俺の仕事ですから、気にしないでください。献立は羊肉のすいとんでいいですか」

「ええ、それでお願い」


 琳玉は瑞雪の邪魔にならないように、作業台らしき机の前に置かれた椅子に座って答えた。その席からは、作業台を挟んで瑞雪の様子がよく見える。


 竈に薪をくべる瑞雪の背中は、琳玉の記憶の中の姿からあまり変化していなかった。もしかしたら以前から大人である瑞雪にとっては、十年前も今日もそうたいした違いはないのかもしれない。

 だがそれを見つめる琳玉にとっては随分長い時が経っているので、とても懐かしい気持ちになった。


 瑞雪は昔と同じように琳玉の視線を気に留めることなく、葱や茸などの具材を倉庫から出して調理を進めた。まずは壺に入っていた残り物らしき羊肉の湯を鉄鍋に入れて、竈で温めている。


 もうすでに肉が具になってしまっていることは、羊を捌く瑞雪が好きだった琳玉にとって残念である。だがしっかりと煮込まれ寝かされた羊肉が待っていることを考えると、それはそれで楽しみだった。


 壺の中身を鍋に移した瑞雪は、次に手際よく葱を洗って、包丁で細かく刻んだ。


 包丁の音が心地よく響き、千切りになった葱がまな板の上に出来上がる。

 茸も同様に、素早く切り刻まれた。かつて見た羊の解体をしているときのように、瑞雪は食材を大切に扱い、その美しさを引き出していた。


 蓋を開けて鍋の中の様子を見て火加減を調節すると、瑞雪は今度は焼餅を皿に出した。粉を練って薄く丸く焼いた餅は、保存された結果固く乾いている。

 瑞雪はその餅を皿の上でちぎる。大雑把にちぎった後に、指で砕くようにしてさらに細かくちぎる。この細かくなった餅が、一番重要な具となるのである。


 焼餅をちぎるのは料理を生業をしている人間にとっても時間がかかる面倒な作業だと思われたが、瑞雪はあくまで丁寧に行っていた。

 餅を細かくする作業を見飽きたというわけではないが、琳玉は沈黙を破りたくなって話しかけた。


「ねえ、あなたはどうして料理人になったの?」


 わざとらしく甲高くなってしまった琳玉の声が、物音しかしない静かな厨房の中で異物のように響く。

 瑞雪は手を止めず、また目も上げることなく、どうでもよさそうに答えた。


「どうしてって……そりゃ親が料理人だったから、俺もそうなっただけですが」


 食事で誰かを幸せにするとか、美味しいと言ってもらえるのが嬉しいとか、そういった建前は瑞雪にはなかった。瑞雪にとって料理は、単なる生存の手段に過ぎないらしい。


 その正直さが心地よくて、琳玉は思わずつられて笑みをこぼした。


「そうなんだ。じゃあ私と一緒だね。私も父親が国王だったから、この国の姫でいる」


 一応冗談めかしたものの、これが琳玉の本音だった。

 王の娘に生まれてしまったから国のためと父や兄に従っただけで、自分の国に特別愛情があるわけではない。実のところは、国にも民にもそうたいして興味はなかった。


 琳玉はだんだんと兄の峰文と同じように投げやりな気分になって、さらに軽い口調で続けた。


「あなたはまだ知らないよね。私の夫……范永晶が敵に寝返ったって」

「え、そうなんですか? 范将軍が裏切って、この国は大丈夫なんでしょうか」


 護国の要であったはずの永晶の裏切りの情報は琳玉からの他愛のない質問よりもずっと重要に感じたらしく、この話題になってやっと瑞雪は顔を上げた。手はまだ餅をちぎっていたが、目は多少は動揺している。

 常に平然として見えていた瑞雪にとっても、敵の侵略は恐るべきものであるようだ。


 琳玉は不安げな瑞雪を前にしてかえって落ち着いた気持ちになって、待ち受ける破滅について述べた。


「大丈夫じゃないらしいよ。そのうち、この城も慧国軍に攻め落とされて來国は滅びるって」


 滅びると口にしたとき、琳玉は胸の奥が痛んだ気がした。

 だが同時に肩の荷が降りて軽くなった気もして、不思議な気分である。


「そうですか。それは困りますね……」


 瑞雪は単純にこれからの将来について心配になったのか、目を伏せ考え込んだ。


 だが瑞雪にもわずかには主を慮る心が存在したらしく、少し間を置いて琳玉の方を見た。そして気遣うふりをするのが義理だといった様子で、抑揚に欠けた声で尋ねた。


「この国が滅んだら、あなたはどうされるんですか?」

「さあね。兄上には自害しろって言われたけど」


 琳玉はくすくすと笑って答えた。

 本来は琳玉が死んだところで気にしないであろう瑞雪が、かしこまって殊勝にふるまおうとしているのが面白かった。

 また身内に死ねと命じられれば反発したくなるのに、他人に自分は死ぬのだと言うのは嫌ではないのがおかしい。


 笑い続ける琳玉とは対照的に、瑞雪はただ無表情に琳玉を見ていた。

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