羊肉のすいとん③ 凍てついた城塞
峰文と別れた琳玉は、塞ぎ込んだ気持ちで自分の部屋へと続く廊下を一人進んだ。
城は石材を積み上げて築かれていて、方楼と呼ばれる四面を高い壁に囲まれた形をしている。四隅には見張り台の役割を果たす塔があり防御に適した造りだが、敵の侵入を防ぐため窓も小さく中は暗い。そのため夜の移動には必ず燭台が必要で、廊下は不気味なほどに闇が広がっていた。
さらに來国は一年のほとんどが氷で閉ざされているような気候なので、今日も手がかじかむほどに寒かった。石壁に狭く開けられた窓の外の夜空も雲で覆われて何も見えず、ただ凍てついた風が吹き込んでくる。
寒さと暗さで余計に気が滅入って、琳玉はため息をついて上着の襟を押さえた。
絹で仕立てられた衣の上に袖まで毛皮の裏地をつけた長袍を着込んではいても、寒いものは寒かった。結い上げた髪をまとめる象牙のかんざしも、金と翡翠でできた首飾りも、見る者がいなければ意味がない。
「こんなにも簡単に敗けて死ぬことになるのなら、私の今までの人生はなんだったんだろうか……」
夫に裏切られ、兄に死ぬ覚悟を求められ、琳玉はふつふつとわき上がってきた怒りを込めてつぶやいた。
幼かったころはわがままに生きてきた琳玉であったが、年を重ねてからはある程度の忍耐を覚えたつもりである。国のため、民のためと親や兄に言い聞かされ、仕方がなく琳玉は従順でおとなしい姫君として生きた。
その最たる例が、今や裏切り者となった夫・范永晶との結婚である。
十四歳で好きでもない年上の男に嫁ぎ数年、気に入らない人間性に耐えてきたのは、それが国の将来に必要だと言われたからだ。軍事を司る范家との婚姻関係を結ぶことが国を守ることに繋がると信じたからこそ、琳玉は自分を押し殺した。
だが国のために戦ってくれるはずだった永晶が裏切ったとなると、琳玉が彼と結婚した意味はなくなる。琳玉が慎ましい妻であろうと努力した日々は、まったくの無駄に終わる。
琳玉も一国の姫に生まれたので、誇り高く死ねと言われればその通りに死ななければならないだろうとは思っている。しかしそれは臣下として尽してくれる人がいればの話で、夫に国ごと裏切られた末の死では納得できない。
叛意を隠し出征していく永晶の鎧姿を思いだし、琳玉はやりきれない気持ちになった。このまま死にたくはないものの、自害を避けても慧国軍の略奪が待っているのだからどうしようもない。
苛立ちながら歩いていると、琳玉はだんだんと空腹を感じた。
夕食は食べたのだが、峰文と話しているうちに腹がすいたらしい。国難の時であっても、食欲からは逃れられなかった。
「厨房へ行って、何か温かい物でももらおうかな」
夜遅いと言っても真夜中というわけではないので、厨房にも誰かはいるはずであった。普段の夜食は侍女に頼んで自室まで運ばせるが、今夜はそんな手間をかける気にはなれず、自然と足は厨房の方に向く。
厨房のある一階へと階段を降りていくと、板張りの段が軋んで音を立てた。
琳玉は厨房へと進むうちに、かつての幼いころに料理人の青年が羊を解体する姿を好きで見ていたことを思い出した。
彼の手によって羊が切り分けられていく様子は、なぜか胸がわくわくする光景だった。
今にして思えば、琳玉はその青年に恋をしていたのかもしれない。
そのころの琳玉は王族としての責任を知らず、望めば何もかも叶うものだと疑わずに生きていた。大人になれば青年のいる世界へ行けるものだと、琳玉は信じていた。
だが成長するにつれ、人にはそれぞれの領分というものがあり、琳玉はどうやら二人の領分は重ならないらしいことを知った。身分の差は大きく、与えられた役割だけを果たす彼の目がこちらに向くことはなかった。
彼の世界には決して属せないことを理解した琳玉は、次第に厨房を覗かなくなった。遠く眺めることしかできないものを愛で続けられるほど、馬鹿な夢想家にはなれなかったのだ。
「だけど今日みたいな日は、彼に捌かれていた羊がより羨ましくなるよ。最初から食されるために育てられた食材なら、その死に嘘や裏切りが関わることはないから」
階段の最後の一段を降りて、琳玉はまたひとり言を言った。
料理人である青年と食材である羊の間にあった関係は、誤魔化しや偽りしかなかった琳玉と永晶の婚姻に比べてずっと綺麗で美しいものに感じられる。
琳玉は幼いころに見た光景を懐かしみながら、厨房へと足を運んだ。
手に持った燭台は暗い廊下の、ほんのわずかな行く先を照らしていた。
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