羊肉のすいとん② 裏切りと亡国
それから十年の時が過ぎ、琳玉は年頃の美しい姫君に育った。
長く伸びてゆったりと結った黒髪は艶やかで、成長して整った顔も蕾が花開いたように瑞々しい。
しかし琳玉はそれなりの美貌を手に入れてもまだ、食材として大切に捌いてもらえる羊の方が自分よりも幸福な気がしていた。
特に国政のために嫁いだ夫が裏切り敵国についたという知らせを聞いた今は、より自分の人生に感じるむなしさが強くなる。
「つまり私の夫は、夷狄に寝返ったのですね」
隅に置かれた青銅の燈台がわずかに部屋を照らす、薄暗い一室。
琳玉は読み終えた伝令文を卓に置き、向かい合って座る国王である兄の
部屋には他に人影はなく、峰文は椅子のひじ置きに頬杖をつき、ため息をつく。
「ああ。
普段よりもさらに青白く見える顔を歪めて、峰文は琳玉の夫であった男の范永晶について恨み言を語った。
永晶は代々來国を守護してきた武門である范家の生まれであり、将軍として大勢の兵士を従えている。來国は以前より、北方の異民族の国である慧国に侵略されていた。軍事的な国難を前にして、峰文は范家と王家の繋がりを深めるために、王妹である琳玉と永晶を婚姻させたのだ。
結婚は完全な政略の結果であり、二人の間に愛はない。
永晶は名門に生まれただけの冷淡な男で、忠誠や愛情やその他の一切の感情を琳玉に示すことはなかった。彼が琳玉に与えたのは、字面だけは達者な嘘の言葉と取り繕った笑顔だけだった。琳玉もまた永晶に、何か特別な想いを持った覚えはない。
だから琳玉は、永晶の裏切りそのものに傷つくことはなかった。
永晶が民や兵のことを考えて行動するはずはなく、彼はただ自分自身が無事であることだけを望む男である。従ってそもそも信頼がないのだから、痛む心も存在しない。
だが結婚というある程度には重い繋がりで結ばれたのにも関わらず、その関係がまったく何の役にも立たなかったという現実には嫌なものを感じた。いくら愛がないとはいえ、本当に国と妻を捨ててしまった永晶は人としてどうかと思う。
割り切るのか、割り切れないのか。自分の心の整理がつかないまま、琳玉はとりあえず目の前にいる兄に声をかけた。
「夫の背信に気付かなかったのは、妻である私の責任でもあります。私は兄上を責められません」
「身内からの形式的な慰めも、多少は救いになるものだな。だが結局は私は国を滅ぼした王として、後世で責められるに違いない」
琳玉の言葉が本音ではないことを見抜きながらも、峰文は小さく微笑んだ。
峰文は細くやせて神経質そうな表情をしているが、顔立ち自体は端整なので平時であれば王としての威厳も多少はある。
しかし決定的に最悪な知らせを受けた今夜の、峰文の態度は投げやりだった。国王らしく玉の散りばめられた衣服を身に着けてはいても、峰文は自国の未来について他人事のように述べた。
「永晶は慧国軍を我が国の領土に招き入れ、他の将軍たちを降伏させながらこの城へと向かってきている。いくつか抵抗を続けている砦もあるが、こうも裏切り者が多くてはここもすぐに慧国軍に囲まれることになるだろう」
冷ややかに響く峰文の声が、容赦なく琳玉に現実を突きつける。
まだ永晶に裏切られたことだけしか理解していなかった琳玉は、峰文の話を聞いてやっと、自分の身にも危機が差し迫っていることを気づかされた。戦の敗北が続けば、最後は皆敵に殺されるのだ。
燈台の明かりに照らされた兄の顔をじっと見て、琳玉は尋ねる。
「敗けるのですか、來国は」
「この状況では、勝てるわけがない。滅亡だ」
峰文は琳玉と目を合わせることなく、背もたれに身を預けてあっさりと終わりを告げた。
「滅亡……」
実感のわかないまま、琳玉は兄の言葉を繰り返した。
国が滅びつつあることには薄々気づいていたが、いざ本当に亡国の時を迎えるとなるとすぐには飲み込めない。
琳玉が椅子の上で固まっていると、峰文は暗い天井を見上げてさらに口を開いた。
「慧国の夷狄どもの略奪と殺戮は、言葉では言い尽くせぬほどに凄惨だそうだ。奴らに滅ぼされた国は、何もかも奪い取られて後には骨も残らなかったとか。この国もきっと同じように、むごい最後になる」
早くもすべてをあきらめた様子の峰文は、やがて文字も理も知らない野蛮な異民族によってもたらされる結末の話をする。
峰文は賢い男だった。だが賢すぎるがゆえに、勝ち目がまったくないことを見通し絶望していた。
「琳玉。お前もそう悪い見目ではないから、自分が奴らにどう扱われるかはわかっているだろう。安らかに人生を終えたければ、自害する覚悟なり何なりしておくんだな」
「……かしこまりました」
身も蓋もなく妹に死ぬことを勧める兄に、心から従う気にはなれない。
だが残虐な敵の侵略を前に無事に生き残る方法も思い浮かばず、琳玉は渋々うなずいた。琳玉は峰文ほど賢くはないが、自分が弱者であることは知っている。
「話が早い妹だ、お前は」
有無を言わさない態度で接しておきながら、峰文は琳玉の即答を笑った。
会話は終わり、二人だけの部屋に沈黙が広がる。
両親を亡くした今、峰文は数少ない身近な肉親であったが、血の繋がりも琳玉の胸に広がる絶望を軽くしてはくれなかった。
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