肉団子入りのスープ④ 修道女と偽聖女

 塔に着いたテルエスは、落とし戸を開けてスヴェアに声をかけた。


「夕食を持ってきました。今、そちらへ行きますね」


 返事はもちろんない。

 牢獄の中を覗くと、スヴェアはテルエスに背を向けて座っていた。

 テルエスは梯子を使い牢獄に下りた。スープとパンの入った包みを持ったまま梯子を下りるのは、少々骨が折れる。


「献立は肉団子と野菜のスープと、ライ麦のパンです」


 何とか梯子を下りきり、テルエスはさらに食事の内容の説明をした。

 しかしなお、スヴェアの後ろ姿は反応を示さない。


 日が落ちて暗くなっていたので、テルエスは火付け石で蝋燭に火を灯し燭台に立てた。小さな炎が、狭い牢獄をぼんやりと照らす。


(彼女は私を試しているのでしょうか。それなら……)


 引き下がる気になれないテルエスは、スヴェアの正面に回り込み自分も腰を下ろした。

 薄明かりの中で見えたスヴェアの顔は夜の月のように美しく、確かに王が彼女を聖女だと信じたのも納得できる雰囲気がある。


 問答無用で覗きこんでくるテルエスを避けて、スヴェアが怪訝そうに移動する。

 テルエスは構わずにスヴェアの前に包みを置いて開いた。


「これ、私が作ったんですよ」


 蓋を開けると、厚手の布のおかげでまだ温かいスープが白い陶器の中から湯気を上げた。

 石壁に囲まれた無味乾燥な世界に、食欲をそそる肉団子の匂いが急に広がっていく。


「このままでは食べにくいでしょうから、片方の手枷は外しましょう。手を出してください」


 テルエスは一緒に包んで持ってきたスプーンをスープに添え、修道服のポケットから護送の責任者から預かった鍵を出した。


 しかしやはりスヴェアは目を合わせないまま、黙り込んでまったく動かない。


 行き場のない鍵を困ったように差し出したまま、テルエスはじっとスヴェアの方を見た。


「せっかくですから、食べてほしいのですけど」


 腰の低い姿勢で頼んではいるが、譲る気はない。


 テルエスが沈黙に耐えて反応を待っていると、無言を諦めたスヴェアが渋々口を開いた。


「そのうち処刑される人間に良い物を食べさせたところで無駄なことなのに。修道女様はお節介だね」


 初めて聞いたスヴェアの声は、落ち着いた外見から想像していたより甲高い、幼さを残したものだった。勝手に自分とそれほど変わらない年齢だと思っていたが、もしかするとまだ少女に近い年齢なのかもしれない。


 テルエスはスヴェアの声を聞けたことと、またやっと会話が生まれたことに嬉しくなった。


「食事を用意するのが、牢番の私の役割ですから」

「それにしても、張り切り過ぎでしょ。罪人相手に気を遣って、馬鹿みたい」


 テルエスは静かに微笑んで、スヴェアの疑問に簡潔に答える。

 するとスヴェアは、床に置かれたスープを仏頂面で一瞥し、蓋を戻して遠ざけ拒絶した。


(とりあえず、手間は伝わったみたいですね)


 決して喜んでもらえたわけではないが、テルエスは料理を貶されずにすんだことには安心した。慣れない作業は面倒だったが、努力も少しは報われた気がする。


 スヴェアは悪態をついてくるが、無視され続けるよりは困らない。

 テルエスはたいして悩むことなく、偽善者扱いしてくる言葉に反論を加えた。


「訪ねてくるのがどんな人間であったとしても、人が来ればもてなしたくなるものではないでしょうか。神に祈るのと同じ、人の性です」


 テルエスは淡々と持論を述べた。


 しかしそれはもちろん、神に背いた殺人者であるスヴェアには簡単に届かない。

 スヴェアは冷え冷えとした目でテルエスをにらみ、ばっさりと言い捨てる。


「祈りだって、何も変えられないでしょ。神様ってやつは悪人には甘くて、善人には厳しい。だいたいそういう行為に意味があるのなら、何で私は神の加護があるはずの聖女と王を殺せたの?」


 スヴェアがテルエスをきつくなじる。

 その言葉は、テルエスとテルエスの信仰するものを責めたてていた。


 スヴェアは戦争により故郷を失った過去を持つと、噂話で聞いている。

 自分から語ってはくれないが、奪われ負け続けた人生の中でスヴェアの祈りは裏切られてきたに違いない。


 神を疑うことなく信じる修道女と、聖女と王を殺した偽聖女。


 きっとスヴェアの目に映るテルエスは嫌になるくらいに清廉で痛みを知らず、持たざる者を苛立たせる存在なのだろう。

 神に愛され奇跡を起こしていた聖女や、神に繋がるものを常に探し続けていた国王と同じように、もしかするとテルエスも殺害の対象に入るのかもしれない。


 しかしその深い溝について理解していても、テルエスが怯むことはない。

 自分をにらむスヴェアの視線を、目をそらすことなく受け止める。


「全部無意味だと思ったから、人を殺したんですね。だからあなたは明日裁かれて死ぬ。でも、あなたは本当に何も感じていないのですか?」


 結局は自らの意志で罪を重ねてきたスヴェアの思考を、テルエスは想像して辿ってみた。


 善人が死に悪人が生き残る現実を前に奪う側に立つことを正当化して、自らの命の価値も捨てたスヴェアの選択。それは非もなく殺される側からしてみれば迷惑極まりないし、当然許されるものではない。

 そして現に、スヴェアはその代償を支払って死ぬことが決まっている。


 だがテルエスには、その何もかも空虚だと言い張るスヴェアが隠しているであろう負い目にこそ、偽りない真実が含まれているように思えた。


 するとテルエスのそうした考えに気付いたのか、スヴェアはまたテルエスを馬鹿にしてみせた。


「残念だけど、私に罪悪感を抱けるほどの良心はないよ。あの聖女だっていう胡散臭い女も、私に騙された馬鹿な王も、皆気に入らなかった。私に機会を与えてくれたお隣の国には感謝してるし、後悔だってしてない」


 澄んだ声と綺麗な顔でせせら笑い、スヴェアは殺した相手と主だった敵国について語る。テルエスには強がりにしか見えないが、本当に心の底から開き直っている可能性も多少はある。


 しかしテルエスとしては、スヴェアがどんな大罪人であったとしても自分の立ち位置が変わるわけではなかった。


「その言葉が嘘ではなかったとしても、私はあなたにこのスープを食べてほしいと思いますよ。この肉団子のスープは、私の好きな料理ですし」

「あなたの好きなものが何かなんて、心底どうでもいいことだね」

「そうなのかもしれません。でも……」


 奇妙な説得を続けるテルエスに、スヴェアがあきれる。


 テルエスは微笑み、スープの入った陶器を再びスヴェアの方に置いた。

 そして重い手枷であざのできたスヴェアの腕に、そっと手を伸ばす。


 冷えたスヴェアの手にテルエスの手がふれる。


 急な接近に思わずたじろいだスヴェアは、華奢な肩を震わせてテルエスから離れようとした。


 だがテルエスはそのまま手枷を掴んで鍵を差し込み、片方だけを開錠した。かちゃりと音を立てて、手枷は半分外れた。


 自由になった右手を見て、スヴェアは不服そうな様子で顔を上げた。

 ぼさぼさの前髪の下からのぞく瞳が、テルエスを射抜く。どうしてもテルエスの真心が気に入らないようだ。


(だって両手に枷をしていたら、スプーンが使いにくいじゃないですか)


 蝋燭の明かりだけに照らされた、暗く狭い牢獄の中。


 黒い衣を着込み頭巾で髪を覆った修道女と、粗末なぼろ布の服を着た長い黒髪の罪人が鏡のように向かい合う。


 テルエスはまだ枷のついている方のスヴェアの手を両手で包んで、目を閉じた。


「意味がなくても、今はあなたのために祈ります。例えば雪山で凍えて死ぬのだとしても、一人で死ぬよりも誰かが手を握っていた方が、同じ凍死でも暖かいでしょうから」


 なぜか唐突に、テルエスの故郷の雪景色が思い出される。


 もしも今二人が雪山にいたとしても、きっと死ぬのはスヴェアだけでテルエスは生きるのだろう。


 運命は二人を同じ場所には運ばない。

 だが一瞬だけ、二人は道をすれ違ったのだ。


 テルエスは目を開けて、明日死刑になる少女の顔を見た。


 スヴェアは虚を衝かれたように、呆然とテルエスを見つめていた。

 綺麗な灰色のスヴェアの瞳が、小さく揺れてテルエスを映す。


 しかし二人が見つめ合っていたのは短い時間で、すぐにスヴェアは怒ったような表情になってテルエスの手を振り払った。


「だけど私の目の前にいた人は、手を握ったくらいじゃどうにもならずに苦しんで死んだよ」


 スヴェアがテルエスに背を向けてつぶやく。

 か細い声は静かに響いたが、その肩はかすかに震えていた。


 憤りの裏に垣間見える、おそらく深く傷ついているのであろうスヴェアの本心。

 大人びた態度の下に隠されていた本当の声は、今にも泣き出しそうな弱い子供のものだった。


 スヴェアの過去にあったらしい理不尽を知らないテルエスには、反論を許されることはない。

 しかしテルエスには、それが完全な拒絶には思えなかった。


 駄目押しで再度スープの入った器とパンをスヴェアのすぐ横に置いてから、テルエスは立ち上がった。

 いろいろと理屈を並べてみたものの、結局のところは苦労して用意したものだから食べてもらわなければ気が済まないだけなのかもしれない。


「では晩の祈りと夕食があるので、私は行きますね」

「……せいぜい勝手に祈ってれば」


 テルエスが梯子に手をかけると、スヴェアがやせた背中を向けたままぽつりとつぶやく。


「はい。そうさせていただきます」


 後ろ姿のスヴェアに微笑んで、テルエスは準備した夕食を無事に置いて牢獄から出た。

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