叙の二 深淵に光の行進曲を ①
昼日中といえ、南西の空に輝き続けるベテルギウスの月。
だがここは、その煌々とした光さえ届くことはない漆黒の闇の世界……その中を一隻の潜水艇『EX―マリナー五〇〇〇』が、水深約千七百メートル――漸深層の深海へと静かに降りていく。
’三六年〇四月一五日(約束の日まで、あと二一〇日)
“希土類資源の採取に伴う地質調査”という目的を与えられ、北の大地から東方沖、七十キロのこの海域を目指し、最寄りの神威港を早朝に出港してから、およそ五時間が経過していた。
海底の地形がライトの光に照らし出されると、楕円形のシンプルなボディには不釣合いの厳つい“
支援船とケーブルで繋がれた有線式の旧型だが、民間の――それも個人経営の会社で保有されている物はその数も少なく、所有者でパイロットの
「――そりゃあ、新型とは比べもんにはならねぇけどな? 俺はコイツにしか命預けたかねぇからさ……」
酒が入ると、向井はいつもこう言って寂しく笑った。
潜水艇のパイロットといえば、オペレーター然とした者が多い――そんな中、ガテン系を思わせる日焼けした堅牢な肉体と、それでいて繊細な操舵技術を併せ持った、国内でも(変わった意味で)ちょっとは名の知れた潜水艇乗りだった。
「だいたい、新型なんて買う余裕もねぇしな? いくら『優良企業です』ったって、ウチみたいな零細企業には金貸さねぇもの、銀行はさ……まぁ、今のローンが終わってコイツが駄目んなったその時は、俺も引退だべな?」
そう言っては、「ガハハハ」と高らかに笑う。ブルース・ウィリスやスティーブン・セガールが主演の九〇年代アクション映画をこよなく愛する、自称『海の男』である。
そんな男のとなりには、黙々と採集作業に没頭している新米コ・パイロット、
まだ不慣れなせいか、海底に沈んだマネキンや奇怪な姿の深海魚がライトに照らし出されるその度に、いちいち“ビクン”となる姿が初々しい。
それでも、ベテランアクアノーツの指示の元、優太は必死に“腕”を操作していく。普段から口数も少なく、短く刈った髪型と精悍な面構えが凛々しく見えて、どこか芯の強ささえ感じさせる……そんな青年であった。
向井曰く、「俺の甥っ子なんだけどよ、水産高校出たってのに
そうはいっても、向井にしてみればやはり可愛い存在である。それと同時に、優太を引き受けた理由の一つには、ある人への“恩返し”という意味合いが含まれていた。
「あの人には……
向井の義理の兄――優太の父、
なにかと頼りになる
だが、その義兄はもうこの世にはいない……。
それは、優太がまだ小学校に入学する前の頃のこと――政志らが乗った遠洋トロール船、『第十八
三十代半ばという若さで、優太の父親は帰らぬ人となった。人望も厚く、ゆくゆくは漁労長になる器だと、彼をよく知る者たちから将来を嘱望されていただけに、その短過ぎた生涯を惜しむ声は多かった。
それからというもの、向井の姉、
折しも、「タケちゃん……優太のこと、くれぐれも頼むわね」などと、姉の美奈子から頭を下げられた日には、何がなんでも彼を一人前に育てなくてはならない……そうしなければ、二人を残して逝った政志に申し訳が立たない――と、そんな気持ちにさえなるのだった。
両親を早くに亡くした向井にとって、姉の美奈子はたった一人の肉親であり、子供の頃は母親代わりでもあった。故に、彼女の言葉は“絶対”であり、今もなお決して逆らうことのできない唯一無二の存在として、彼の中で君臨し続けている。
(こいつは大事に育てねぇとな……とはいえ、あんまり過保護にならねぇように、ってか?)
そんな向井の気持ちを察するかのように、優太は日々、着実に成長を遂げていく。そして、そんな甥の姿を見守っていくことが、今の向井には、なによりの楽しみとなっていた。
☆
それにしても、実に使い勝手の悪いコックピットである。ただでさえ手狭な所へきて、向井が後付けでオプションを増設し続けているおかげで、たった二名の定員数にもかかわらず、窮屈なことこの上ない環境だった。
そんな高密度な空間の中で、彼らは体を小さく丸めたまま、数時間もの時を暗い海の底で過ごしていく。
元々、十年落ちの船体を格安で払い下げて貰ったものに、向井自らが改造を施してきた代物である。船舶検定をパスしたこと自体奇跡に近く、同業者からは『浮かぶ棺桶』などと揶揄されることもしばしばであった。
年々、多様化する需要に対応するため、向井は頻繁に潜水艇の改良を重ねていく。同業者に引けを取りたくない――そんな強い気持ちの表れか、はたまた自尊心からの暴走か……ひいては、いつまで経ってもローンの返済に終わりはみえず、有限会社『向井興産』の自転車操業は永遠に続いていくのだった。
「この区画のサンプル採集、完了しました」
悪戦苦闘の末、優太はようやく採集作業にひと区切りをつけた。
「はーいよ」
一人前にはほど遠いが、まあ、今はこんなものだろう……そう納得しながら向井は天井からぶら下げたバインダーを手に取り、クリップで挟まれた海図に赤ペンでチェックを入れていく。
その時だった――ズン! と、重く鈍い振動が、潜水艇を強く揺さ振ってきたのである。
「ん……なんだ?」
向井が思わず声を漏らした瞬間、更に大きな衝撃がEX―マリナー五〇〇〇に襲ってくる。
「じ、地震かっ⁉」
海底で起きたらしいその異変は、ほどなくして海上で控えている支援調査船『
「いや、地滑りか……?」
急な高波に揉まれる船内で、調査クルーの面々は様々な計器類や、潜水艇から送られてくるデータと睨み合っている。
「至急、気象台へ確認して!」
にわかに緊急事態の様相を呈してきた最中、船内を右往左往するクルーたちを冷静に指揮していたのは、今回の調査団リーダーで北都大学水産学部准教授、
(初日から……? なんて幸先が悪いのかしら)
口にこそ出さなかったが、池神は焦れる想いで舌打ちをする。彼女の今回の目的は、経験値を上げつつも結果を残すこと……逆に最も危惧していた問題は、自分を含めクルー全員が、“経験の浅い者たちである”という点だった。
というのも……今回の依頼内容は、彼女の専門分野からは遠く掛け離れたもので、正直畑違いもいいところであった。そうはいっても、池神自身は過去には同様の調査へと携わった経験はあり、知識も充分に備わっている。
だが、それでもまだ駆け出しであることに違いはない。なるべくなら、なんの問題も起こらないまま今回の調査が完遂できれば――と、そう思って参加した矢先の
北海道東部沖地震による大震災から五年。国内のエネルギー事情が早急の代替を求めている現状と、重希土類の自国生産計画とも相俟って、海洋資源に関する需要がこれから先も益々高まっていくことは容易に想像できる。
クライアントにしてみれば、“専門家が立ち会った”という既成事実が欲しいだけなのだろう……とも思い、業界や関連団体へのパイプを作りも念頭において、この依頼を引き受けたものであった。
付け加えるならば、特に最近は研究費の工面にも嫌気が差していた。
震災の影響や長引く不況を理由に、最大のパトロンであった大手食品加工会社や、地元の漁協までもが軒並み予算の削減や研究規模の縮小、はたまた廃止などを相次いで決定し、まったく先の見えない状況が続いていた。
そこへきてこの度の依頼である。引き受けることに、なんら異存などなかった。
(大学の給料、安いしな……)
本人にその自覚はないが、大学ではかなり人気の高い――黒縁眼鏡と白衣の上からでも判別可能な、大きめのバストがトレードマークの美人教授である。
彼女が主宰する『水産資源研究所(通称=池神研)』への研究員志望者は毎年高倍率を極め、ごく稀に講義でも開こうものなら、その希少価値もあってか、教室内はたちまち立ち見の聴講者で溢れ返った。
しかし、彼女は常に研究か現場の人種である。そのため、普段は研究室に籠るか、割のよさそうなバイトを見つけては、こうして海の上へと繰り出していた。
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