端書、その二 セーラー服に獣の刻印を

 大いなる者にも、小さき者にも、


 富める者にも、貧しき者にも、


 自由なる者にも、奴隷にも、


 すべての者たちに、その右手、或いはその額に刻印を押させた。



 その刻印なき者たちは皆、


 物を買うことも、物を売ることも儘ならぬようになった。


 その刻印は、その獣の名、


 または、その名の数字のことである。



 ここに知恵が必要となる。


 思慮に長けた者あれば、この獣の数字を解くがよい。


 その数字は、人を指し示すものである。


 そして、その数字は『666』である。



 ――『ヨハネの黙示録』第十三章十六節~十八節



     ☆



 南西の空の低い所に、砂時計を模したような形でオリオン座が浮かんでいる。


 一週間ほど前、星座の右肩に鎮座する赤色巨星『ベテルギウス』は、超新星爆発を起こして銀河へと散った……。


 およそ六百二十光年離れたこの惑星では、その最後の煌きが、半年以上に渡って天空に輝き続けたという。



 ’三六年〇四月一五日(約束の日まで、あと二一〇日)



 青白き、満月の如く――『ベテルギウスの月』が出現してから八日目の朝。深い霧のヴェールに包まれた街は、時折霧笛が木霊するも未だ深い眠りの中にあった。


 街の名は神威かむい市。北の大地は東部の太平洋沿岸に面した、人口、約十六万人が暮らす港町である。『昭和』と呼ばれた時代には、国内有数の漁業基地として日本一の水揚げ高を誇っていた。しかし、その頃の街の賑わいなど、今となってはどこにも見る影はない。


 前世紀のバブル末期に再開発され、第三セクターにより複合型商業施設として管理、運営されてきた港周辺の旧市街には、数十年来空き家のまま放置された赤レンガ倉庫群が、現在もなお朽ちることなく建ち並んでいる。


 旧市街から坂を上った先へ向かうと、港を一望できる展望公園があった。そこからは色とりどりの大漁旗を掲げた漁船団や、沖合に停泊中の貨物船、大型タンカーなどの船影が濃霧の中に浮かんでいるのが見て取れる。


 四月も中盤に差しかかったこの時期だったが、港から流れ込む空気はかなり冷たく、園内に植樹された染井吉野の花の蕾も固く閉ざされたままであった。閑散とした街の雰囲気と相俟って、春の訪れはまだ遠いものに感じられた。


 そんな人気のない早朝の公園に、沖を眺める制服姿の女子高生が一人佇んでいる。彼女が手にする携帯端末機『モバイル・ギア』からは、とあるニュースの音が漏れ聞こえていた……。



「――私がこの計画を祝福し続ける理由は、ほかでもありません。

 世界は今、環境破壊や多くの紛争、それらによる貧富の格差が増大を続け、貧しい地域の飢えた人々に、たった一欠片のパンや、たった一皿のスープですら分け与えることが難しい時代となってしまいました。

 一刻も早くこのような事態を改善させるためにも、すべての国々を“ひとつ”に纏める……それこそが、神の御名において我々が救われる唯一の選択であると、私はそう信じて已まないのです」



 彼女は、外海を見渡すことのできる展望台へと歩を進めると、防波堤の先へ――水平線の向こう側へと視線を投げ掛けた。


(ローマ・カトリック信者十二億人の頂点で、“神の代弁者たろうとする者”の言葉の影響力なんて、今の私には想像すらできない)


 公園を吹き抜ける潮風が、腰まである彼女の長い黒髪をそよがせる度、その整った顔立ちが露となる。垣間見える表情は、沖の一点を見据えたまま決して揺るがず、凛とした姿勢からも覗える覚悟が、より一層彼女の美しさを際立たせていた。



「ローマ法王のこの発言を受け、計画の立案国であるアメリカでは、大統領の談話がホワイトハウスより発表されました」



「近年、世界各地で起こっている大規模な地震や洪水、突発的に発生する大型の竜巻や大旱魃など、まさに天変地異とも呼べる自然災害により、人類は多大な被害に見舞われ続けています。

 そして、それらはこれからも、いつ我々の身に襲ってくるかわかりません。

 もし明日、そのような災難に遭遇してしまったら……。

それによってすべての財産が奪われ、帰る場所すら失ってしまったら……。

 自分を証明する物をなにひとつ持たず、病院にも行けず、行政サービスすらも受けられない、突如としてそんな状況に陥ってしまったとしたら……。

 我々は混乱し、深く嘆き、悲しみ、そして苦しみ、さらには生きる希望をも失い、目の前の道がすべて途絶えてしまったかのように、茫然とその場に立ち尽くしてしまうかもしれません。

 このような自然の脅威や未曽有の危機に対し、これまで以上にしっかりと備えていかなければならない……それは、誰の目から見ても明らかなことでしょう。

 その対応策として提案するのが、この計画の根幹となるデジットシステム『Smartスマート AKhanエーケーハン Classクラス5(SAC5)』になります。

 その概要としましては、身分証IDや血液型、保険ナンバーや財産証明など、各人に応じたあらゆる情報を“ICチップ”に入力し、それを用いた統括システムを納税管理や住民登録、社会保障や民間サービスの中に組み込み、当システムを実行していきます。その上で官民協力体制の下、速やかにこの計画を実現させてまいる所存です。

 それにはまず、全世界の方々にこのデジットシステム『SAC5』を世界規格として統一する利便性を理解して頂くことが先決だと考えます。具体的には、大切な情報の紛失や悪用を防止することに特化した、極めて安全なクラス5ランクのアストラカン製ICチップを体内へと埋め込むことにより、単なるセキュリティに特化した情報の管理だけではなく、非接触での健康管理や資産管理、さらには身元不明者を特定する一番の手段として活用できるシステムを実現することが可能となるでしょう。

 また、これを公的な管理運営をし、実際に機能させていくのはいち機関にあらず、“新世界秩序”というべき新しい概念に基づいた超国家間の枠組みとして、これまでの世界の在り方そのものを再編していくことが重要になるのです。

 このプロジェクト『ワン・ワールド・オーダー計画』の早期実現のため、この度、我々は国連を通じて全世界の国々と地域の方々の協力と参加を正式に要請いたしました。

 この計画の根底には、ひとえにすべての人々の尊厳を守り、新たな雇用を促進し格差社会を是正するという、人権の尊重に深くコミットした理念によって構築されてきた経緯があります。

 当計画の成功は、その先にある“世界統一政府”樹立へ向けてのを指し示すものとなるのです」



 制服のスカートからすらりと伸びた足を備え付けのベンチに乗せると、彼女は徐にその上へ昇った。


(一国の大統領とはいえ、奴らの前では無力に等しい。いや……最早、“ヴァグザの傀儡”と成り果てた今となっては、この人もまた被害者といえるか)


 公園の一番の頂から大海を望むと、静かに目を閉じる――彼女は、未だ行方知れずの“父の言葉”を思い起こしていた。


「約束の日は近い……エンリルの思念体ニルマーナは、すでに我々の近くまで訪れていることだろう。だが、最悪の事態だけは絶対に避けなければならない。誰かがやらなければならないことなのだ……」


 父の言葉を胸に――再び瞼が開かれた時、彼女の決意はより強固なものとなっていた。


(躊躇している時間はない……)



「ICチップインプラント先進国のスウェーデンやイギリス、EU各国を中心とした西側諸国を始め、ロシアや中国でもこの声明に賛同する動きをみせており、これら一連の流れを受けて揺れる永田町では、与野党がより一層対立姿勢を活発化させていくものと思われます。

 また、畠山はたけやま官房長官は昨夜の定例会見におきまして、先の国会で採決が見送られた“マイクロチップ埋め込みの義務付けなどを柱とする改正マイナンバー法の導入を、前倒しで実施させたい意向を述べました」



(大統領が長期政権を目論むロシアと、桁外れな格差社会の中国……どちらも、独裁的な人民統制や体制作りに余念がない。この国にしても、一部の保守派団体にうまく踊らされている現執行部では、先見の明を持たない親米派がはびこるばかり……これでは、アメリカのご機嫌取りにだけ奔走し続けて、アジアの中では益々孤立を深めていく一方)


 水平線から朝陽が顔を覗かせた頃、先ほどまで懸かっていた深い霧はいつの間にか晴れ渡り、目前には黒々とした太平洋の大海原が広がっている。彼女の瞳は、この海の彼方から迫りくる脅威をはっきりと捉えていた。


(誰かがやらなければ……父さまの意志は、私が継いでみせる)


 モバイル・ギアに映し出されていたニュースサイトを閉じると、直ぐさま電話を掛ける――それが繋がるや否や、彼女は吼えた。


「行動を開始します!」


 その声に呼応するかのように、まさに今、眼下の港から出航していく一隻の船舶があった。船の後部デッキには立派なクレーンが設置され……しかし、分厚いシートに阻まれて吊り下げられた物体がなんなのか、この場所からは伺い知ることができない。


 沖を見つめる彼女の耳には、通話が切れた後の“ツー……、ツー……”という音だけが、いつまでも聞こえていた。


(もう、後戻りはできない。誰も代わってはくれない。逃げることもできない。これは私の戦い……そして、私の使命なのだから)


 そう心に誓うと、彼女は公園を後にした。



 いつしか辺りは喧騒に包まれ、街は行き交う人々の雑踏で溢れていた。


 静止していた時間は動き出し、世界は再び深い眠りから目を覚ましていく。そこには春の気配だけを待ち侘び、やがて訪れるであろう『約束の日』などまったく予感させない……ごく自然に一日を始めた者たちが、いつもと変わらない『日常』に息吹を与えていく。


 付近の学校からは、始業を知らせるチャイムの音が鳴り響いていた。

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