叙の一 まつろわぬ客になごり雪を ③


     ☆



 曇天を仰ぐ廣瀬遥夏は、空に向かって両腕を高く掲げた。すると、雲間から一筋の光が差して、彼女の身体を包み込んでいく。


「約束の地への門扉は開かれた……さぁ、旅立ちの刻が来たのさ」


(いやよっ! いきたくない! だって、私はまだなにも――)


 声なき訴えは誰にも届かず、涙ばかりが止めどもなく溢れてくる。迫り来る恐怖に、遥夏は瞼をきつく閉じるよりほかなかった。


 少女の身体が大きく揺らぐと、戦慄の叫びが校庭に木霊する――次の瞬間、彼女はバランスを失うようにして、フェンスの向こう側へと消えていく。


 すべての時間がゆっくりと流れる中で、廣瀬遥夏はよく知る少年と眼が合ったような気がした。



 その頃、校舎に隣接する体育館では何人もの職員と生徒たちが、こぞってマットの運び出しに取り掛かっていた。しかし、そこにまで悲鳴の波が押し寄せると、呆気ない結末を悟った者たちは皆、力なくその場に立ち尽くしていく……。


 そんな中、騒然となる校舎を見下ろしながら、その一部始終を傍観する存在があった。


「はぁ……案外、つまんない展開だったなぁ。だいたい、あんなトコから飛び降りたって、アガルタになんか行けやしないし」


 屋上の塔屋。その天辺で両足をブラブラと投げ出し、縁に腰を掛けながら手擦りに頬杖をつく女子生徒、池神織子は“やれやれ”といった様子で大きく伸びをした。


「そんな簡単に門扉が開けるんなら、天巫女なんて必要なくない? ほんと、ヴァグザなんかに振り回されちゃって――うおっ!」


 勢い余って、思わず塔屋の縁から落ちそうになる。


 慌てて手擦りにしがみつく織子だったが、堪えた拍子に身体のあちこちから、を飛び出させてしまっていた。小柄ながら、癖をつけたミディアムショートの髪型が印象的な、どこか小動物を思わせるごく普通の女子生徒……それが今となっては、見た目がかなり変わってしまっている。


 頭頂部からはピンと立った猫のような耳が生え、臀部にはひょろっと伸びた尻尾がゆらゆらと揺れている……池神織子はたった数秒をもって、まさに『化け猫』と呼ぶに相応しい姿へと、変貌を遂げたのだった。


「はぁ……つい、高揚たかぶってしまった……。まぁ、ラッキーニャことに、辺りには誰もいニャくて正解――」


「はん? 変わった波動を感じて来てみれば、なんのことはない……単なる“堕巫女おちみこ”だったとはさ」


 どこからともなく聞こえてくる声――甲高くも落ち着き払ったその声に、織子は“ハッ”と瞬時に身構えた。


「……ど、どちら様かニャー?」


(この姿を見られた? やっかいだニャ……)


「おいおい、いったいどこを探しているのさ? お前の目は節穴か? 立派な耳はただのお飾りか? やはり、堕巫女とは人形ガラクタの成れの果てだったようだ」


 キョロキョロと辺りを警戒する織子。はたして、その謗るような“上から発言”は、彼女の足元から聞こえてきた。


「へっ……?」


 そこには、後ろ足で立ち上がった黒い鼠が、腕(前足)を組みながらふんぞり返って織子を見上げている。


「げっ! ネズミがしゃべった⁉ キモッ! ヤダヤダ、こっちんニャー‼ フゥー……シャーッ!」


 不敵な態度の黒鼠と対峙した織子は、髪の毛を逆立てて威嚇した。


(こんニャ近くに来るまで気づけニャかった⁉ さっきの騒ぎも、コイツの仕業か……)


「おまい……まつろわぬ客人まろうどだニャ?」


 “チッ”と舌打ちすると、織子は爪を鋭く伸ばして臨戦態勢に入る。


「はん、ガラクタなんぞに毛嫌いされるとは、まったくもって心外さ。人の身体に獣耳ケモミミとはなんと破廉恥な姿……季節外れの変態か? 春めいてくるといつもこれさ」


「ムキーッ! オリコをどこぞの変質者扱いするニャー‼ ゲスい見せ物しやがって……おまいらの目的は『陽之巫女』じゃニャいのか? 一般生徒まで巻き込んで、いったいニャにを企んでいる⁉」


 チョロチョロと足元を駆け回る黒鼠に翻弄され、織子はイライラを募らせていく。


「企む? これは立派な取引さ。むしろ、こんな施設まで造って一般人を巻き込んでいるのは彼らアルザルの方ではないのか? 我々はそれを利用させて貰ったに過ぎないのさ。ただし、“陽之巫女を黙って差し出す”というのであれば、これ以上、一般人ほかに手出しはしなくて済むんだけどさ?」


「ふん……到底、信じられる台詞とは思えニャいんだけど?」


「無論、そこにお前が含まれることなどないけどさ? 近い将来、堕巫女も我々の処理対象に追加される……いや、もうすでに決定事項かもなのさ」


(こんなガラクタ、未だに放置し続けているとは……すでに利用価値もない代物だろうにさ。上層部うえ堕巫女こいつのために、どれだけ予算を注ぎ込んだのさ? まったく、無駄遣いにも程度ほどってものがあるだろうにさ)


 黒鼠の双眸が、妖しい光を帯びて揺らぐ。いつしか二人(二匹?)の間には、一触即発の空気が漂っていた。


「……」


「なんなら、今ここで始末してやってもいいけどさ……はん、急に恐ろしくなって声も出せなくなったのか?」


 黒鼠の挑発に織子の鼓動がだんだんと高まり、視野もどんどん狭まっていく。彼女の潜在意識に刷り込まれた闘争本能が、獣化したことによって、より顕著なものになるのが理解できた。


(コイツ、マジでぶっ潰したくニャってくるんだけど……でも、こんな小物臭をプンプンさせたヤツが、“真犯人ほんぼし”ってことは絶対ニャいな、うん)


 武者震いのように両肩を震わせると、織子は瞼を閉じて唐突に“ククク……”とせせら笑ってみせた。


「敵を前にしてペラペラと……そんニャ姿で凄まれても、全然説得力ニャいんですけどー?」


 湧き上がる攻撃的な感情と殺意をぐっと堪えて、織子は獣の本能に抗っていく。


「はん? 完璧過ぎる我が計画に畏れを成し、とうとう開き直ったということか? これだから堕巫女ガラクタは――」


「はぁ……思ったよりもバカニャんだニャ。誰がどうみたって、食物連鎖の捕食順位ヒエラルキーはオリコの方が上ニャんだけど? 情報の提供と引き換えに、ことと次第によっては見逃してやろうかとも思ったんだけどニャ……」


 そう言いながら、猫耳少女の瞳は一匹の捕食者ハンターと化していく……伸ばした爪をキラリと光らせ、舌なめずりをすると仁王立ちで相手を威圧した。


「やっぱ、ここで殺しちゃおうかニャ?」


「――⁉」


 あからさまな動揺をみせた黒鼠は、みるみる内に全身を硬直させていく。


(う、動かん……これは、この身体の記憶⁉ いかん、やつの眼を見ちゃ駄目さ! むむむっ、機動力と隠密性を重視したのが裏目に……憑代の選択を誤ったのさ。いや、まだ些細な誤差イレギュラーが生じただけ……修正すれば済むことさ)


「ま、まぁ、いいだろうさ。この場は一旦退いてやる……だが、我々の計画を邪魔するのなら、いつでも始末してくれるから、覚悟して――」


 その刹那、“ピィー!”という鳴き声と共に、なにかが織子の眼の前を横切った。


「いけぇー、旋風ーっ!」


「ニャ、ニャんとっ⁉」


 は織子の足元を掠めると、一陣の風となって塔屋の間を吹き抜けていく――舞い上がるスカートの裾を抑えつつ、織子は慌てて獣の姿を収束させていった。


 突風が過ぎ去った跡には、黒鼠の姿がすでに消えていなくなる。代わりに鷹によく似た翼影が、天空で大きく旋回しているのが見えた。


「――やったの⁉」


 屋上へと駆け上がってきたサヲリたちの元に、黒鼠の亡骸がポトリと落ちてくる。


「ん、すんでのところで逃げられたっぽい……っていうか、もう“器”しか残ってない感じ?」


 蓮華は黒鼠の前にしゃがみ込み、ペンの先でツンツンと突ついてみるが、刺激による反応はみられなかった。


「どういうこと? それなら、侵入者はどこに……」


 に乗り移った形跡は、ない感じ……そう蓮華が指摘するように、辺りを見回したところで、特に変わった様子は認められない。


「だったら、相手はかなりの遠距離から廣瀬遥夏やこの鼠を操っていた……ということ? 蓮華、周囲に私たち以外の御魂は感じられて?」


「ん、もし相手が“人外のモノ”だったとしたら、蓮華よりも旋風あのこの方が得意っぽい」


 言うと、蓮華は立ち上がって空を悠々と滑空する翼影を指差す。


(目標が憑依型ではなく“暗示”を得意とするモノだったとしたら、廣瀬遥夏の行動はある程度納得ができる……けれど、野生種ノラの鼠にそれが可能なのだろうか? だとしたら、侵入者は私たちのような“人外のモノ”という可能性も……)


 これ以上騒ぎを拡大させないためにも、早急に侵入者を拘束する必要に迫られている。しかし、雲を掴むような相手の正体に、サヲリは対応を決めあぐねていた。


「実体が掴めなければ、捕らえようもない……でも、ある程度検討がつけば、その周辺に罠を張ることができるわ。蓮華、実体ソレが見つけられて?」


 ん……と、小さく頷いた蓮華が指笛を鳴らす。すると、旋風は上空から舞い降りてきて彼女の差し出す腕に留まった。


「いい? さっきの奴、もう一度捜して欲しい……っていうか、わかった?」


 水縞蓮華は、“ピィ”と応える旋風の嘴に指を立てながら指示を出すと、再びそれを空に放つ――彼女たちの頭上を二、三度旋回した後、旋風はそのまま校舎裏の原生林へと向かって羽ばたいていった。


「ん、大丈夫。問題ない感じ」


 それを見届けたサヲリは、懐から携帯端末機『モバイル・ギア』を取り出して徐に通話を始める。


「――私です。目標を敷地の外へ出さないように、包囲をできる限り狭めつつ、最善の注意を払って捜索を続行すること。重点区域は追って連絡します……よろしくて?」


 その様子から、校内のいたる所に神矢サヲリの息の掛かった手の者たちが配置され、人知れず侵入者の捜索に当たっているようであった。


「で……? あなたはここで、何をしていたのかしら?」


 誰ともなくそう告げると、サヲリは深い溜息を吐く。


「――ねぇ、池神織子さん?」


「へっ……?」


 やり取りしているサヲリたちの背後を通り抜けて、織子はこっそりと塔屋の影から立ち去ろうとしていた。彼女に向けて、怒気を含んだ問いが投げ掛けられる。


「あら、聞こえなかった? いつからここにいて、いったい……? と、聞いているのよ」


「あ、あはっ……物見遊山、的な? じゃ、じゃあ、シタッケですニャー!」


「んっ! 逃げたっぽい‼」


 意味不明な言い訳でお茶を濁した織子は、二人の隙をついて非常扉に飛びつく――脱兎のごとく、校内へと一目散に逃げて行くのだった。


「サッちん、放っといていいの? あの人、侵入者と接触してたっぽい……っていうか、ウチらの話も聞かれたし……間違いなく重要参考人って感じ? 絶対!」


「そうね……そうかもしれないわね」


 見るからに怪しい行動を取っていた織子に対し、蓮華は強い不信感を抱く。だが、そんな彼女に、サヲリは返す言葉を持たなかった。


(確かに、池神織子かのじょになら廣瀬遥夏を救えたのかもしれない。いや、もしかしたら侵入者を捕らえる能力だって、私たちよりも優れているかもしれない。だけど……)


 その正体を知っているだけに、彼女に対してサヲリは過度な期待を持つことはない。現に池神織子は、目の前で廣瀬遥夏を“見殺した”のだ。


「大丈夫。彼女はここでは何もできない……いえ、何もさせないわ」


「サッちん……?」


 自分を納得させるように呟くサヲリの横顔を、蓮華は心配そうに覗き込む。


「池神織子の処遇は、お祖父様にでも任せましょう。私たちは、引き続き侵入者の捕獲に専念します……いいわね?」


 そう言って気持ちを切り替えたサヲリは、屋上から出るように蓮華を促す。ん……と、一応の了解を示した蓮華と共に、サヲリは後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。


(御前禊儀前とはいえ、今の私はなんと無力なのだろう……いや、それでは言い訳にしかならないわね。遥夏、助けてあげられなくてごめんなさい。もっと……もっと強くなるから、どうか許して……お願い……)


 屋上からの去り際、サヲリは校庭に向かって深々と頭を下げた。



     ☆



 遠くで春の雷が木霊している。


 屋上の真下では、銀色の髪をした少年の傍で、廣瀬遥夏の身体は白磁色の光に包まれていた。


「雨になるのかな……誰かさんの涙雨とか? 我ながら、かなりセンチメンタルだね」


 季節外れの粉雪は積もることもなく、冷たい地面に横たわる少女の身体を少し濡らしただけで、とっくに止んでいた。


「まぁ、こんな不始末は見逃せないからね。これは、君たち……亜瑠坐瑠アルザルへの“貸し”にしておくよ」


 地面に横たわる遥夏の耳から、ワイヤレスのイヤフォンを外して握り潰す――銀色の髪をした少年は、そのまま人混みに紛れて姿を消していった。


「早くおいで、本物の陽之巫女さん……僕は、また君に会えるのをずっと待ってるんだから」


 少年の囁くような澄んだ声は、うるさいほど鳴り響く救急車のサイレンに掻き消されて、誰の耳にも入ることはなかった。



 校舎裏の白樺林の中で身元不明の水死体が発見されたのは、それから三日が経った後のことだった。その遺体は、『人』というにはあまりにも頭部が大きく、腕は異常なくらい長かったという。


 それがいったい何者で、なぜ水のない場所で溺れたのか……? 他殺なのか、それとも事故なのか? 現時点では、なにも判明してはいない。



 そして物語は、事件ことの発端へと遡っていく――

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