第9話 サイレンのある町に住む
翌朝、台風は去って空は白っぽく明るく開けていました。世界は、蛍光灯が明る過ぎる長い部屋のようです。雀が鳴いています。溝の薄くなった自転車が濡れた路面で滑ります。水道庁舎には、毛布や割り箸の突き立ったカップ麺がそのままあちこちに広がっていました。一旦すべてのブラインドをあげ、窓を細く開けて、湿ったホウキでとりあえず乾いた泥を掃き出し、洗い物をして、時間があったのでコーヒーをいれました。
冷蔵庫が低く唸る灰色の給湯室から、明るい水道庁舎が四角く切り取られ清々しく輝いているのを眺めていると、幽霊のような灰色の影が横切りました。目の汚れかと思い、瞬きすると影は巻き戻され、眼鏡の白く汚れた男が、開け放ったドアの前でくんくんと鼻を鳴らしました。
コーヒーをいれましょうか、と言うと軽く頷いて、どさっと高田係長の席に座り、子供のように適当に机の書類を掻き回して、椅子をくるくると回すのでした。口角より外側はすべて赤く爛れて、耳穴から葡萄の房のように、膿が溢れていました。色合いといい、質感といい、鍾乳洞が長い時間をかけて作り上げたあの奇跡のようでした。
桶口さん、と呼んでみるとうんうんと頷いて肩を回します。彼はごく当たり前にコーヒーカップを手に取り、くちびるを突き出して熱いコーヒーを啜りました。シャツの襟は真っ黒に汚れていました。
わたしは聞きあぐねていました。物語は木のように根から幹へ、そして枝へと伸びていきます。けれどわたしはいつでも、さかのぼりたい気持ちを抑えられませんでした。
「あかねちゃんてどうしてサイレンになったんですか」
後で思えば間の抜けた質問でした。
「知らないんだよ、ぼくその日、休みにしてたから」
ある日の朝、出勤してくると激しく唸るサイレンがあった、というのです。巨大なサイレンが床から生えて、天井につかえてしまったような形をしていました。魚の骨のように、脇に枝がたくさん突き出していました。コンクリート製で、背中の方には細かい青のモザイクタイルが埋め込まれていたのだといいます。
「人間がサイレンになるなんて、みんな頭がおかしいんだよ」
桶口は鼻で笑いながら係長のシャーペンを三度まわしました。成功すると何だか辛そうな顔をします、見せるための表情かどうか、わたしはそればかり気にしています。誰も見たわけじゃない、と桶口は繰り返しました。わたしは頭が痛くなってきてこぶしでぐりぐりと顳顬を押しました。彼女を囲うように部屋を作り、そして毎月ひとり娘を連れて、お義母さんが訪れる。
「薬なら、係長が溜め込んでるよ。わからないから持って行けばいいよ。でもホントにさ、偽薬だから、どうしてみんながそんなことを信じたがるのかわからないけど」
がらりと開けた抽斗には薬のシートがぐちゃぐちゃに押し込んでありました。俯いた桶口の耳の房が傾くのを見ていました。ほら、と視線をわたしに戻して、桶口は驚いた顔で手を止めました。その表情を見てこのひとをバットで殴ってしまったことを思い出しました。その気持ちのいい手応えも。
「なんで泣くの」
触れてみると頬はべっとりと濡れていました。これはわたしの涙じゃないです、と言いました。本当のところはわかりませんでした。
「きみたち、よく平気だね」
霊のようにすべって課長が部屋に入って来ました。退勤は風のように出勤は水のように。けれどそのラヴクラフトめいた長い顔は今日はさらに長くなっていました。眉間に紫色の血管がひわいに浮いています。
「欺瞞だよ」
言いたかっただけでしょうか、桶口さんはそう呟いてまた、下水道係の小さなドアの中に帰って行きました。その屈めた細い背は古い木の根のようでした。
おはようございます、と言って佐川さんと原善くんは、仲良く一緒に出勤して、名札とボールペンを握ると、ほとんど呼吸の間もなく、もう水道課の青いバンに乗り込んでいました。彼らの顔は古い書き損じのように乾いてしわくちゃです。魅力的な目と口はインクのしみになって、目を凝らさないと場所が曖昧です。ふと、このふたりがいつも天使に見えるのは、地獄の滞在が短いせいではないかと思いました。背景のせいじゃないかしら。
わたしは溜まった作業用のタオルと軍手をかごに入れて駐車場間で降りていきました。いってらっしゃいと彼らの青いバンを見送りましたが、百メートルも進んでからでしょうか、原善くんが窓から顔を突き出して、わたしもどうかと誘ってくれました。気晴らしになるよと。
「ありがとう、でも……」
答えながら、ふたりの顔がさらにくちゃくちゃと縮まるのをぼんやり見ていました。彼らのつばさは折れかかっていました。
西から歩いて来た青森さんが、駐車場の側で立ち止まっています。何この音? と尋ねます。耳を澄ますと、鳥の声が高らかに遠くを流れていきます。さわやかな風が樹々を優雅に踊らせています。台風の乱暴さはもう思い出せません。薬を飲んだのになあと遠藤さんが首をひねっています。押した自転車のハンドルは、彼の気持ちを表すようにぐいと家の方を向いていました。市役所からも、隣の消防署からも人が出てきています。出勤途中の人々が足を止めて、なに、これ、と耳を塞ぎ他の人に尋ねています。
「なんすか、これ」
「すごいな」
「あの日を思い出しますね、二年前」
「もうそんなか」
市役所からゾンビのような足取りのひとびとが溢れてきます。その中には青白い頬の安藤修一郎もいて、ぼんやり水道課を見上げていました。
「とりあえず本庁で仕事するか」
「じゃあ。じゃあシステムがいるから、柿火手さん……、あら!」
高田係長がわざとらしく書類をばらまきながら、市役所庁舎から出て来ました。
「それは上のひとの仕事でしょ」
と、青森さんが間髪いれずに言いました。言ってやった、と文字が赤くはっきりと顔に浮かびます。ふっと、彼女がそのせりふをサイレンに紛れて放ったのだと気がつきました。係長が細かく指示していますが、周りの誰もが聞こえないふりをします。いいえ、聞こえないのです。彼らの耳の中はいま、あの地獄の音でいっぱいなのです。役所の電話が、代表番号から順に振り分けられていきます。総務課から波紋のように呼び出し音が広がって行きます。苦情でしょうか、問い合わせでしょうか、ひとびとは窓を開け、音を聞き、電話するのです。サイレンのことを思い出すのです。すべての回線が音でいっぱいになります。蛇口を捻れば血が出ます。けれどその激しい呼び出し音さえ、いまここにいるひとたちには聞こえないのです。
やばいよー、今、港だけど、聞こえる、と汗マーク付きで原善くんからメールが届いていました。みんなに聞こえている、わたしには聞こえない、そう思うと突然嬉しさが嵐のように肋骨の中を駆け抜け、背を屈めたのを佐渡さんが誤解して、手を貸してくれました。その手はじっとりと、地獄の汗に濡れていました。
(了)
サイレン まりたつきほ @mari1234
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