第8話 教義と鰻

 とにかく忙しい週でした。去年入れた水道システムに障害が見つかったことで一旦水道料金の計算を手作業でやり直していました。毎月の水道検針、料金の徴収、水道施設の耐震化計画、水道管敷設工事、補修工事、お水のトラブル、クレーム、新設、仮設、廃止、名義変え、漏水、破損、古い水道管は生き物のようにどこかで毎日何かを訴えました。日々の業務でいっぱいのところに新しい問題がふりかかれば、必然的に一番弱い部分が破れます。遠藤さんが仕事に来られなくなりました。そのタイミングで課長が前から申請していたからと一週間のリフレッシュ休暇に入りました。

 電話の向こうで、ほとんど怒鳴っている遠藤さんを、青森さんが辛抱強く説得しています。病気休暇を申請して下さい。いいですか、病気の時に休むのは何も恥ずかしいことではありません。その責任感と罪悪感を利用しようと、待ち構えている姫がいます。来ては駄目、むしろ来ないことで、わたしたちに応援を呼ばせてください、お願いします。後半はわたしの吹き替えだろうと思います。システムの入ったパソコンに故障中、と貼り紙をして、わたしはその青いセロテーブ台にべっとりとついた血をウェットティッシュで拭いました。見上げれば蛍光灯がぱらぱらと砕けてしまうので見上げませんでした。酒の匂いがします。定時に帰る役はわたしがやりました。課長ほど軽やかにうまくはできませんでしたが、それでも精一杯、やりました。


 そし六月の台風が上陸しました。ごうごうと風が唸り、海がひどく鳴っています。家が揺れていました。風向きが変わったのか北の窓もひどく鳴っていました。カーテンを開けると裏庭のいちじくの木が風に激しく踊っていました。雨粒が白く光ってガラスにぶつかっています。ばらばらばら、ばらばらばらっ。雨粒はすべるのではなく、跳ね返って庭に落ちます。ピシ、とガラスに蜘蛛の巣ようなひびが入って、よく見るとそれは雨ではありませんでした。まだ血の糸をつけた白い歯でした。ビリジアンの庭に女たちが並んで立ち、口の中に手を突っ込み、窓に向かって抜いた歯を思い思いの強さで投げているのでした。長い髪がめちゃくちゃに風に舞っています。

「悠子、よかった気がついて」

 近づいて来る仮面のような顔に、部屋の光が当たっています。Hさんが踏んでいるのはトムのお墓です。もう墓標も腐り落ちてしまいましたが、その柔らかい土の下に、いちじくの根に包まれた猫の白い骨があるのです。窓を開けるとカーテンが内に向かって雲のように膨らみ、嵐が遅れて飛び込んできました。

「これは本当のことだよね」

 Hさんの顔は雨と泥だらけでした。

「……お前が呼んだんだろ?」

 声が厚くて自信に溢れていました。いやな兆候でした。いいえ、とわたしは小さく言いました。しゃがんで歯を拾う女たちの修行着が、彼の背後で夢のように膨らんでいます。風と海鳴りの奥から、ぼうっとサイレンの音が聞こえていました。上流のダムが放流をする合図です。雨の日にはいつも鳴りました。Hさんは振り返り、母さんだ、と言いました。いいえ、とまた小さく言うと彼は首を振り、そしてぼうっと部屋の中を見つめました。じゃあ、きみのご両親じゃない? と。わたしはゆっくり振り返りました。明るい和室の、仏壇の扉は閉めたままでした。両開きの金の把手にはボールペンを渡していました。十年前、この家を出る日に彼らを閉じ込めたのでした。家を管理しているはずの兄はあれから一切戻っていないのでしょうか? あれほど溺愛されて? 仏壇も開けずに? それともわたしには兄などいなかったのでしょうか?

 なぜ振り返ったか忘れ、前を向くと、視界は濡れた白いシャツばかりでした。薄い布が肌に張り付き皺が樹形図のように広がっています。靴は畳を踏んでいます。水が地図のように滲んで行きました。経験が体を押し、悲鳴を上げ、逃げようとしましたが彼はしっかりわたしの腕を掴んで首を折り曲げました。クリムトの絵のようにわたしの首は曲がっていました。女たちがぞろぞろと和室に上がって来ます。すべての扉が嵐に開かれていました。

「じっとして、取ってあげる」

「何を?」

 脳ではないかと思いました。彼は笑っています。

「悠子はほんと、とりあえず飲み込むよね」

 意味がわかりませんでした。歯医者のトレイに似た金属の音がします。彼が尖ったピンセットを耳に差し込みました。

 視界は折れ曲がっていました。いちじくの木の後ろで、錆びたトタン屋根が雨に震えています。暗い色と相まって、海のようにも見えました。でも水平線の色が明る過ぎるオレンジ色で、見つめているとそれが一本のぴんと張ったロープだということがわかりました。そうっと東へ視線をずらしていくとそこには黒い後頭部と、くびれて伸びたピーナツのような肩がありました。青いシャンブレーのシャツの両側にだらんと太い腕が垂れています。いいえ垂直ではなく、水平に。わたしはよく見ようと、首を戻そうとしますがHさんが強く押さえつけます。袖口の黒い時計を探していました。松山くんは変わったクロノグラフをしていましたので。

「動かないで」

 ピンセットの冷たい感覚がありました。彼はするっと抜いた物をわたしに見せてくれました。半透明の魚の骨でした。

「悪い子の仕業ね」

「仕返しよ、こどもを食べようとしたんでしょう」

 と女たちが笑いました。全員が妊婦のようにも見えました。気のせいでしょう。彼は真っ先に子供を産んだ女と結婚すると言いました。合理的だ、だから悠子も頑張ればいいじゃないか。チャンスは同じだ。複雑に髪を編んだ女がチョコレートの丸い空き箱を持ち、そこにHさんが抜いた小骨を放り込み続けます。かちゃん、かちゃん。返しのついた一本がずるりと皮膚を引っ張ります。わたしは慌てて指で瞼を引っ張り返しました。目を離さないで。

「薬なんてみんなプラセボだよ」

「でも効いてるのよ」

 彼の言う薬とわたしのとは違ったかもしれません。彼は諦めたような、抑揚のない声で告げました。

「違うよ、それはきっかけで因子はもっと日常にあるんだ。たとえば、水とか」

 ピンセットの冷たい感触が想像よりもずっと奥で震えました。脳ではないか、と思った瞬間に血が体から引いていきます、貧血にも似た気持ちの悪さが全身を駆け抜けます。女たちの手がわたしの体を支えました。それはくらげの毒と同じ、血がすべて赤から青に変わり重く沈んで行くあの感覚でした。Hさんは手品師が万国旗を引き抜くように、一本釣りの漁師のように、最後のそれを取り出しました。ざらざらと鱗の逆立つ感触が鳥肌を産み、耳穴を抜け出した最後、潮水がひとしずく顔に垂れました。

「ほうら悠子、ごらん、魔女だ」

 そうして彼がわたしの目の前に垂らしたのは、黒いぬらぬらとした、赤い目の鰻の死骸でした。ほら、あの魔女は預言だったんだよ、と言ったHさんのくちびるをわたしは思い切り、つよく、殴りました。


 雨がまた激しくなっていました。体を押さえつける手の感触が消え、閉じていたつもりのない目を開けると和室には誰もいませんでした。わたしは玄関に飛び出しました。南に向かう細い道を、白い宇宙船が低く飛んでいました、いいえ、彼が、猫足の浴槽に身を沈めて、肘でバランスをとっていました。女たちが肩に浴槽を担いでいます。浴槽には雨が少しずつ溜まって行くのでした。

「一緒に行く?」

 最後まで玄関の前に残っていた知らない子が言い、わたしは首を横に振りました。ねえ、信者は女だけになったの? と尋ねると、笑って首を横に振りました。見えないだけ、と。血の匂いがしました。あなたは少し妄想が勝ち過ぎるみたい。それは魔女のすることよ。

「待って、そうだ、荷物があるのよ」

 田舎の親戚のように慌ててダンボール箱を開いて示すと、彼女は迷いも無く白い手を緩衝材の中へ差しこみました。そしてコンドームの箱だけを真上に抜き取りました。首の長い白い鳥のわざでした。

「これだけ、要るって言ってた。あとはあげる」

「もう要らないのかと……」

「また要るんだって」

 そう言って、どう見ても幼い彼女は手を振って、浴槽を追って風の中を南へと駆けて行きました。白くて小さい足の裏をしていました。暗い台所を跳ねるお米粒のようでした。


 和室に戻ると、全体に白っぽくなった、死んだ鰻が長々と横たわっていました。妄想だと、あれほど言ったのに消えませんでした。わたしは猫のトイレを出し、水を張って鰻を横たえました。水道水を入れてしばらく考えたあと、雨水を洗面器に溜めて何度も流し込みました。黒い鰻は浮き沈みしていましたが、それが命なのか波なのかはわかりませんでした。わたしは膝を折って耳を近づけましたが、ちゃぷちゃぷと水の揺れる音が聞こえるだけでした。

 なんとなく復活を待つ間、見張りをするように、ずっと前にいとこの子が忘れて行ったシルバニアファミリーを押し入れから出して水槽の前に並べました。けれどそれは見張りというよりは通夜で、やはり鰻は死んだのだと、家ごと風に嬲られながら思い当たったのです。

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