第7話 酔っぱらいたちの暗号

 本庁舎では、今日はみな忙しそうに動き回っており、わたしの姿を見ると横顔を見せるような気配がありました。昨日のことが広まっているのか、わたしが過敏になっているかのどちらかでしょう。まちづくり課は総務課と同じ、旧館の二階にありました。一階の銀行窓口で入金した後に、上がってみましたが誰もいませんでした。総務課もまちづくり課も企画調整課も秘書室も無人で、フロア全体がひっそりとしており、ブラインドの隙間からほんのりと光が差し込んでいました。ふいに市長室の方を見たときに、ドアノブががたっと動いたように思いました。市長が中からノブを握って様子を伺っていると思えてなりませんでした。ドアに耳をくっつけて、わたしが去るのを待っています。妄想です、まったく妄想です。頭の中は全くぼんやりとしていて、煙のような何かが部屋の中とわたしの中を自在に漂っていました。


 ポンプ室の扉が、黒々と開かれているのが駐車場からも見えました。白い内張に囲まれた部屋へと細い階段が降りています。覗き込むと、下に井戸とポンプがあるんだよ、と原善くんが教えてくれました。この井戸から汲み出した水が、赤瓦市の水道管を走り、メーターのコマを回し、家庭の蛇口に届くんだよ、と。はなうたを歌いながらメーターのケースとリストの数字を合わせています。階段の先端は薄暗く細くなって消えていました。天井には細い電球が蓑虫のようにぶらさがっていますが、他には何にもありませんでした。ちょうどサイレンの真下です。

 階段を上がって来た佐川さんが、目を逸らしてすれ違いました。佐川さんの視線を正確に追って見て、わたしは慌ててカーディガンをかき抱きました。唐突にぼろんと、脇から腕がこぼれ出たのです。重たくて冷たい、長い爪の痩せた腕が揺れていたのです。慌ててメーター箱の影に入り、カーディガンを捲りますがもう腕はありませんでした。けれどそっとシャツまで捲ると、鎖骨と心臓の間にはブラの線で分断された青い腕がありました。尖った爪を持つ魔女の左手は、カップの中に伸びて左の乳房を掴んでいるのです。Hさんが途中でふっと我にかえったために、小指と薬指は肌に溶けていました。続きは描かれませんでした。この絵を彼は、見たがりませんでした。

 わたしは何も見なかったことにして仕事に戻りました。カメラ・オブクスクーラのバーテンの胸に、美しいモルフォ蝶の刺青があることは知っていました。そしてお尻には悪魔の右手のそれがあるとは、噂で。見たんでしょう、羨ましくなったんでしょう、実験して、飽きて、捨てるんでしょう、Hさんの手が胸に色を置いて行くのを見ながら、わたしは言葉を飲み込んでいました。

 仕事になりませんでした。わたしは奥歯を噛み締めながらお手洗いに走り、涙の個室に飛び込みました。あの時わたしは、白っぽい空気の中、血を拭いながらおなかがすいたと呟いただけでした。彼は花が咲くように笑いました。愚かにもわたしは彼の共犯のつもりでした。どうしてそんなことを思い出させるのでしょう? この個室はたいへん泣き心地がよい。


 暖簾を境に空気が酒の匂いに変わりました。そこでじゅうじゅうと煙を上げている焼き鳥よりもラーメンよりもいつも酒が勝っていました。静かな水のような香りなのに負けたことがないのです。店長がいつものように奥で歌っています。歩くと濡れた床板がこつこつと鳴って、舞台のようでした。カウンター席にいた眼鏡のおやじが手を挙げます。百合ちゃんが同じように応えます。彼女はどこにいっても知り合いばかりでした。

「おっとー柿火手ちゃーん、え、百合姉とともだちなの」

「選管で一緒だったんですよ」

「あれー、そうだっけー?」

 市役所のひとでしょうが、名前まではわかりませんでした。早く酔ってしまうに限ります。百合ちゃんは焼酎のお湯割をあおりました。白い喉をかたまりで酒が落ちて行きました。

「百合ちゃんは、市役所に長く行ってたの?」

「とびとびだけど、そうかもー」

「じゃあ、あかねちゃんて……」

 ふいに厳しい顔で、彼女は熱い手のひらでわたしの口を塞ぎました。焼酎にあたためられた熱い手でした。

「ダメ、お酒がまずくなる」

 何かのたとえ話かなと思い、重々しく頷いて両手を降参の形にしますが、店長、これ水、と店内で声が上がりました。みんなわかったような顔をして、お互いのグラスの酒を舐め合っています。百合ちゃんはゆっくりとグラスにくちびるを近づけ、思い切り湯気を吸い込んでから、これは大丈夫、と言って笑いました。わたしは自分のグラスを口につけましたがそれが酒か水か、みんなが何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

 酔いのせいで軽く振られる手に反射的に振り返しながら、何となくざわつく店内を眺めていると、奥の席でじつに神妙な表情で青森さんが会釈しました。

「そっか、サキちゃんいま水道課」

 青森さんは顔色を伺うようで、わたしは安心させようと痛む頬で必死に作り笑いを浮かべました。今日は同期会なんです、と青森さんは重々しく申告しました。彼女には打ち解けぬ空気がありました。わたしはポスターの前の空いた席のひとつをじっと見ていました。

「あかねちゃんて……」

「だからもう、悠子ちゃん、駄目だってー」

 百合ちゃんは自分のコップを塞いで笑いました。同期です、と青森さんは項垂れて打ち明けます。仲良いの? とは、答えを期待しての質問でしたが、ぜんっぜんです、と予想以上で、かえって先を尋ねることができませんでした。一緒にパフェを食べに行ったりしたのよ、と誰かが耳元で囁きます。同期だもの、仲良しに決まってるでしょ、知ってるの、サキちゃん、わたしのこと妬いてるの、だってほら、勝ち組だから、と。そう聞こえたような気がしたのです。

 けれど、青森さんは驚いた顔を作って、わたしを見ていました。口に出したのだろうか、とわたしは自分のくちびるを指で撫でようとしましたが、咥えたジントニックのグラスに弾かれました。それに彼女は怒るかと思いましたが、彼女は晴れやかに気持ちよく笑いました。失礼なはなしですが、こんなふうに笑えるんだ、と驚きました。それにしても、一体何のはなしの続きなのでしょう。

「思ったことないですよ、どうしてです? それに、ブスですよ」

 青森さんは本当に楽しそうに笑いました。かっと喉が熱くなりましたが、わたしの耳元では見知らぬ女がげらげらと笑い声を上げていました。わたしは振り返ることができませんでした。なぜ笑うのか、なぜ笑えるのか、考えてもわかりませんでした。ただグラスを舐めていました。そこでべろべろに酔った司森さんが立ち上がりました。もはや酒だけではないにおいがぷんぷんと漏れていました。

「こらー、いまー、誰かあいつの話をしとるやろ、酒が不味うなるから、やめろー、決めたやろー」

 青森さんが肩を竦め膝の上でひとさし指を立てました。知らない男の子たちがどやどやと来てビール壜と一緒にわたしたちの前に座りました。たくさんの質問を重ねたつもりなのですが、覚えていません。あとで思い出しても頭に霞みがかかるように、何もかも、遠いのです。お酒のせいもありますし、わたしがずっと別の場所を見つめていたせいもあると思います。わたしはちょっと異様な熱心さで、ひたすらあかねちゃんのことを聞き出そうとしていました。みんなの中のあかねちゃんのことを、語られない影の形を必死で探り出そうとしていました。けれど語られないものを語らせようとするのは、罪なのでしょう。ついに百合ちゃんが「今の姿見たらだいたいわかるでしょ」と、叩くようにわたしの前におにぎりの皿を置きました。今の姿って、と振り返りますが百合ちゃんはいませんでした。

「おい、作家おらんのか、うまく説明しろ」

「いや、サイレン守は、サイレン守、いるわけないか」

 台本通りに弾けて笑う様子をぼんやり、外から見るように見ていました。直江くんが来て正座をすると、大丈夫ですか? と赤い顔で尋ねます。周りはわあわあと酔っ払いらしい叫び声をあげていました。青森さんが援護するように戻って来て、わかりやすく怒っています。

「だいたい高田係長がすることでしょ。水道課は特別なのに、あり得ない」

 直江くんは悲しげに顔を伏せますが、どこか牧歌的でした。小鳥の死や育たなかったどんぐりの芽を悼むように見えました。

「前日に高田係長に渡したんですよ、ぼく」

 ほらーやっぱりー、とばたばた青森さんの足が畳を打ちます。百合ちゃんは見知らぬ人と肩を組んで笑っていました。

「信じてもらえます?」

 できるだけ真剣に見える表情を作ってから深く頷きました。酔っているのでまあ大丈夫でしょう。ひどいねあのひと、と言って。でしょー? と安心したように笑い、直江くんが足を崩してビールを飲み干しました。壜を傾けて注いでやります。

「でもさ、柿火手さんも自分の身は自分で守らないと」

「知らなかったんだもん、薬なんて」

「……聞こえなかったの? あの音が?」

 それはじつに最もな疑問でした。それもそうだ、と青森さんの顔にも描いてありました。迷路のような森が開けて、ぴよぴよと小鳥が鳴いていました。道はふたつあり、酔ったわたしは自分が進もうとした道からぐっと膝に力を入れて方向を変えました。いつも間違うのです、わたしはずっと、間違って来ました。正しい選択は猫を拾ったことだけでした。

「耳鳴りかと思って……」

 酔っぱらいたちは再び爆発するように笑いました。安堵と慣れ合いが波のように広がって行きます。酒だ、酒じゃないと騒ぎながら、知らないひとたちとビール壜を回し続けます。ひどく目が痛んで、わたしはてのひらでぎゅっとそれを押し込みました。

「酔った? 大丈夫?」

 確かに酔ったのでしょう。その場にいる全員の目がだいぶん外に寄ってるように見えたのです。声が高くなっているようにも思いました。笑っていました。でも内容は全くわかりませんでした。ふいに白髪の男性が立ち上がり鶏のような奇声を上げました。みなそれを指して笑っています。その奇妙に整った白い歯を見つめていると、心の底から楽しさが湧き上がってきました。広がる奇声の波紋の中、わたしもグラスを持ち上げて真夜中の猿を真似ました。かつてない乱暴さでグラスとグラスがぶつかって、ジャングルが広がって行きます。そのうちにグラスだけでない音が東のテーブルから回って来ました。彼らは平手で首が曲がるほど、互いの頬を叩き合っていました。奥歯の真横を殴ると音が派手で気持ちがいいのです。青森さんが崩れ落ちるように笑いながら、誰かの両頬をわずかな時間差で平手打ちしました。いつの間にかみな立ち上がり、笑顔で、殴り合い、叩き合っています。ぱらぱらと粉が散るのは、蛍光灯で互いの頭頂を殴り合う連中です。みんないい笑顔でした。飛び散った肉を指で摘んで捨て酒を飲みました。はいこれと、直江くんからずっしりとした、青いセロテープの台が回って来ました。わたしは笑いながら握り直し、頭蓋骨の接合部分を狙って振り下ろします。カウンターのひとびとは店長も含めて円いピンクの水道メーターを使っていました。円盤投げのように振り回し、そのまま投げずに顳顬にぶつけます。派手な血しぶきと歓声があがりました。

 そのとき奥の座敷の中央で、美しい演舞のように、ひときわ笑顔で、ステンレスの定規を振り回している女の子がいました。頬がきらきらしてとても綺麗な子です。目が離れているけれど、目が離れています、どんどん離れて行く……、でも綺麗な子です、ほんとうに綺麗な子。

「柿火手ちゃんの美的感覚って、ちょっとわかんないなあ」

 市民課の川竹さんが笑いながら税務課の横手さんを叩き潰して言いました。悠子ちゃんさあ、いいひとぶるのはもうやめたら、と中島さんが回しげりを浴びせます。

「生命の輝きですよ、わかんないかなあ、生命の輝きですよ」

 わたしもまた笑いながら、セロテープの台を背筋全部を使って振り下ろしました。


 満身創痍で解散し、送るよ、と言ったよく知らないひとに敬礼を残して、陽気に南に向かって歩き始めました。月明かりだけの道でしたが、よろめくことで見知らぬ家の門灯がわたしを導いてくれました。角を曲がらずにそのまま南へ向かいます。

 真夜中の砂浜は激しい波と砂の音に満ちていました。灰色の暖かい砂の匂いを嗅ぎ、犬の糞をよけて座り込みます。波の音が尻から染みます。銀の波の奥には藍色の海が広がって、その上には大きな月が出ています。そして、月のしずくのように、空中にひとつ小さな粒が垂れていました。光は時々まばたきします。回転しているのです。あんなところに灯台があったでしょうか。砂に寝そべりながらアイフォンの地図を開きました。わたしの現在位置を示すピンは、すっかり海の中に立っていましたし、灯台はありませんでした。

 アイフォンにメッセージがたくさん入っていました。酔っ払って別れたみんなが、タクシーの中や、部屋や、誰かの腕の中で文字を弾き続けているのです。わたしもフリックしながら砂に浅い穴を掘り、体を埋め、毛布のように砂を引き寄せました。波の振動が全身を包みます。頬まで砂を被って目を閉じました。どうしようもなく眠いのでした。砂は誰かが覆い被さってくるような、ちょうどいい重さと静けさを持っていました。夢を見たいと思いましたが、出来ませんでした。海から逞しい男人魚たちが上陸する夢を見たかったのです。男人魚の盛り上がった胸筋と、力をもたない下半身を愛すのは簡単でした。わたしはただずっと言葉に対して言葉を弾き続けていました。たかが言葉です。わかるよ、わかるよと。さっきの話ね、あの話だけど、あの話、あの子、あれねえ、ああは言ったけど、でもね……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る