第6話 「気が狂うでしょうが、一体誰が責任を取るの!」

 かち、かち、という歯車のような小さな音がずっと聞こえていました。かち、かちかちかかかかか。時間についてピンボールは正しい計測方法を持ちません、しかしそれは猫が威嚇の音と似ていました。加速していました。獲物を見つけたとき彼らは顎を震わせて自らを昂らせるのです。猫の黄色い目を瞼の内側に見つけて、それが自分の奥歯の立てている音だと気づきました。痛い。いやそれはもう、取れてしまって、ないのです。虚空が痛い。肉体に縛られない痛みは知覚の限界まで螺旋を描いてのぼりつめました。……天井に、ぶつかって。後ろから白い歯科衛生士の手が救いにきてくれましたが、ヘッドホンを押し当てるように掴めばそれは、彼の手でした。Hさんが、力強く顔を挟み、奥歯を強く噛み締めていました、目だけがぎらぎらと輝く恐ろしい顔でした。聞いちゃダメだ、と唸りましたが、それは過去です。

「世界の雑音なんて、聞いちゃだめだ、勘違いだよ、悠子」

 いよいよ別れようと言うわたしに、重々しく彼は「初心者のための教団の手引き」を渡したのです。手作り感のあるレザックの表紙でした。わたしは泣きながらそれを受け取ったのです。彼の後ろには彼の家族たちが、白い衣装を巻きつけて、うなだれて立っておりました。神の声が聞こえるという彼の母が顔を上げようとしています。

 わたしは震えていました。震えているのはわたしでした。音は振動なのです。口の中が苦く、手脚は固まって冷たくなっていました。時間もゆっくりになっていました。わたしは急いでいました、同じことでした。永遠と一瞬はなぜこんなに似ているのでしょうか。時間の影響を受けないからです。わたしは平面でした。それから輪郭だけになりました。


 体が手探りでドアを探します。ピイと甲高く小鳥が鳴いたと思い、それが音ではなく痛みと知りました。ピイ、ピイ、ピイ、頭蓋の中で小鳥が死んで行きます。彼らは鉱山で真っ先に死ぬというあのカナリヤでした。これ以上入ってはいけない、これ以上知ってはいけない、と鳥は死んで行きます。でも彼らは幸せそうに見えました。わたしも警告を発しながら死にたいと思いました。開いた口に音が飛び込み、体内を反射していきます。ピンボールの中のピンボール。電子レンジの中の電子レンジ。

 ブン、とほのかな光の中で皿が回転します。ずいぶん旧式なのです。違います、椅子でした。暗い部屋に誰かがいて振り向いたのです。汚れたメガネだけが見えました。ホビットだ、と思い、違うノームだとも思いました。いいえそれはエシュヴァの手先です、醜い容姿の宝石作りが得意な妖魔、名前が、出てきません。インテリのつもりか辿ればどうせ農民だろうが、とHさんは罵りました。本を読んでそれが何の役に立つ? 何でも知った顔をするな。わたしは悲鳴をあげ、手に触れたものを握り、思いっきり振り抜きました。古いバットでした。どうしてこんな物があるのですか、いいえどの市役所のどの部屋にも古いバットはあります。そうだ、ここは水道庁舎なのです。市役所です。バットの先で、メガネのホビットがおもしろい角度で折れ曲がるのが見えました。

 バットを投げ捨て、しぜん一塁を目指した肘に激しく当たったドアノブをめいっぱい引き、頭だけでもと突き出してドアの外に出ました。腕は自分の体ごとドアを閉めてしまおうとしていました。脳が、自分だけ逃げ出そうとしていました。視界で靴紐がほどけて大縄跳びのように回転していました。原善くんが駆けて来るのがどうも変なふうに見えました。彼の骨っぽい指が喉奥まで乾いた錠剤を押し込んでくれました。あっという間にペパーミントの風味が喉へと垂れて行きます。飲み込んで、と、くちびるが動くのが見えましたので、そうしました。脳に裏切られた体はあっさりと他人の命令を聞くものです。


 しんと、音が止みました。

 人前で急にヘッドホンを外されたように心細く、恥ずかしいと思いました。投げ出されていた足を寄せると静かな事務所に、スカートとストッキングの擦れる音がはっきりと響きました。全員が立ち上がっていました。わたし以外の全員が立ち上がり、口をOの字に開いてこちらを見ていました。ただし音は出ていませんでした。高田係長は受話器を取り上げると短縮ダイヤルを押しました。

「渡してないってどういうことなの!」

 その大声にざっと悪寒が走り、すっと消えました。グレープフルーツ果汁のような、酸味があり、飛び散る声で初めて聞いたと思いました。すべての音が少し違って聞こえました。ペパーミントの苦みが堪え難いほどの大きな嘔気を内臓から釣り上げようとしています。

「気が狂うでしょうが、一体誰が責任を取るの!」

 青森さんがちらりと係長の顔を見て、でも直江くんは、と呟きました。彼女の表情はわたしからは見えませんでした。遠藤さんも佐川さんも、給湯室からお水を持ってきてくれた原善くんも順に表情を伝達しあって、点を線でむすんで、高田係長を見ていました。係長はプッシュボタンだけを見つめて前のめりに怒鳴り続けました。立ち上がるのに手を貸してくれたのは誰だったでしょう。その夜ひどい夢を見たように思いますが、覚えていません。寝汗でシーツが人型にぐっしょり濡れていたことだけを記憶していますが、それも夢かもしれません。現実の感覚は失われていました。


 白っぽい朝でした。次からは総務で貰って、と、駐車場の前で待っていた係長が錠剤のシートをくれました。福利厚生費で出ているからお金はいらない、とだけ言って一切視線を合わそうとはしませんでした。洗濯機の横にある手洗いで、てのひらに水を受けて係長のせりふごと飲み込みました。口の中ですぐ溶けて音が角砂糖のように砕け散り、甘さは余韻を残して空気に溶けました。それ、水はいらない薬だから、口の中で溶ける。と、自転車で出勤した遠藤さんが真面目な顔で言いました。階段を踏むと足音が少し低く感じられました。


 三十秒に一回ほど、フン、とだれかの鼻息のような、風の音がします。それだけでした。室内は明るく静かで、太陽が柔らかく床に反射していました。水の中みたいに煌めいていました。支払いに来たお客さんの表情が歪むのを見て、鳴っているのだあれは、とぼんやり思うくらいでした。こんなに静かだったんですね、と言ってからしまったと思いましたが、脳は一センチくらい縮んでしまった感じがあり、現実感はありませんでした。わたしはカラカラの軽くなった生姜で、いろんなことがどうでもよかったのです。それでは危ないと、どこか遠くでわたしがガンガンとガラスを叩きながら命じているようでしたが、わたしを置いて逃げ去ったわたしの言うことでした。

「訴えろ」

 と、遠藤さんが呟きました。口調は軽いけれど顔色は青白くぼんやりと見えました。一度死んで生き返ったラザロのような表情でした。目線に顔の動きがついて行き、思考が言葉を追いかけます。高田係長は乗って来ません。

「そりゃあ、あれなしでいたら気が狂うよ、気が狂う、はっはー」

 課長の顔色は場違いなほどぴかぴかと光っています。そして部屋はしんと静まりました。何か言うべきだったのかもしれませんが、どうでもいいと思いました。なんだか耳が開いてしまっている感覚がありました。無理に大きい漏斗を押し付けられたように、開いて、空気がスウスウと流れてきます。耳が呼吸をしているようです。その不愉快とぎりぎりの清々しさに耳を傾け、耳穴全体にスウスウとした空気を行き渡らせようと頭を転がし、はっと顔をあげるとみなが一斉に目を伏して書類に没頭しました。何度か、繰り返して、何度も、見られていました。が、止めることができませんでした。仕事はまったく進みませんでした。


 午前十時に業者のトラックが入り、一階の倉庫に水道メーターが積みあげられていきました。ひとつ大体一キログラム、てのひらサイズのこれが皆さんのご家庭の入り口にあり、流れ込んだ水道水の量を健気に数えているのでした。指先を切れば血が出るように、水道管はみな水で満たされているから、蛇口を捻れば水が出るのです。蓋を開けるとアクリルガラスの下で小さな金魚が泳いでいました。メーターの針と数字の上をちょろちょろと涼しげに泳いでいます。

「それがメーターの寿命というわけですね」

 逞しい腕の男性が、にこにこと笑いながら箱を抱えてわたしの前を通り過ぎていきました。カナリヤみたいなものか、とわたしは思いました。佐川さんと原善くんは光の中で楽しげに、はしゃぎながら箱を降ろしています。彼らの背中にはいつも純白のつばさが開いていました。夢のような光景でした。


 わたしは窓を背にした原善くんの席に移って、職員名簿を開きます。職員の相互理解のために作られたプロフィールページの群れで、今も熱心な誰かによって新しい質問や全体写真が加えられていました。赤瓦市上下水道課、下水道係には三人の職員がいました。とっさにそれぞれの顔写真の欄を指で隠しました。小川高次、桶口裕樹、肩を頬に引き寄せたショートカットの安藤あかね。隠すまでの一瞬でなぜ見てしまうのでしょうか。見たくないというのは嘘で本当は見たいのでしょうか。安藤あかねはプロフィールは文字数をたくさん使っていましたが、わたしには読むことはできませんでした。文字が隣の列とくっついたり、離れた行の文字と文字で単語が浮かび上がったり、一種のアートのようにしか全体を見ることしかできなかったのです。読みたいと思っているのは嘘で、本当は読みたくないのでしょうか。わたしの神経は心とばらばらでした。わたしの目に飛び込んで来る単語は縦や斜めに存在する、「ちがうの」「誤かいです」といった種類のものでした。目の奥で文字がちかちか光りました。


 そのとき、見知らぬご婦人がガラス戸を押して入ってきました。目が合うとご婦人はそっと手を挙げて静かな仕草で首を振りました。習字の筆のような白髪がふわふわと広がりました。いらっしゃいませ、どうぞ、と高田係長が聞いたことのない落ち着いた声で言います。ご婦人は柔らかく会釈して手持ちのキーを使うと下水道係へと入って行きました。

 ドアが開く瞬間、わたしは踵に強く力を入れましたが風は起こりませんでした。けれどわっと火のつくような、慣用句そのままの燃え上がり方で泣き声があがりました。膨らんでそれは熱を上げ、煙のようにたなびいて、ご婦人が後ろ手に閉めたドアの隙間から漏れ出ました。事務所の全員がはっきりと折れたように下を向いていました。うねるような悲鳴のあと、今度は乱暴にドアが開いて、ご婦人が細かく刻むような早足で出て来ました。慎み深く堪えていますが顔はほとんど緑色でした。さっきはカウンターの影になって見えませんでしたが、彼女は小さな女の子の手を引いていました。女の子は耳に詰め込んだ脱脂綿を血に染めて、鼻水で顔中を濡らして泣いていました。水筒を斜めにかけて、灼けた肌にぴったりしたワンピースを着ています。行楽の衣装で地獄の表情でした。開いた方の手は指が強張って開き切り、ぴんと張った筋が切れてしまいそうです。

「もうやだー、やだー、もうないー、いやー」

 甲高い悲鳴でした。おじゃまさまでした、いいええ、またいらっしゃいと、空中で挨拶が交わされました。泣き声が遠く小さくなっていきます。わたしはカウンターから身を乗り出し階段を覗き込みました。助けを求めるように振り返った女の子の小さな顔の、濃い睫毛にいっぱいついた涙が、瞬きで繋がって、白いほっぺたを転がり落ちました。

 あとでもう一度職員名簿を開きました。娘の記述を探しましたがやはり文章を読むことができませんでした。安藤あかねの配偶者の欄には青いリンクがついていました。まちづくり課の安藤修一郎。途中まで開いてからページを閉じました。大量にあるすべての質問にわざわざ、特になしと答えてあるのが見えました。


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