第5話 出会ってないことが不思議でした

 天気のいい日は、水道課の屋上に上がって手袋や作業タオルを干しました。風のせいでしょうか、ここでは音も弱く思われました。隣の消防署のサイレンがこちらを向いていましたが、普段は木製の蓋がスピーカーの口を覆っているので、不安はありませんでした。手摺を繋いだロープに黄色い作業タオルが並んでいきます。短い糸くずが花粉のように飛び交いました。嵐のようにタオルが舞って、顔を庇ったとき市役所の屋上にも人影があることに気づきました。

 ……十二人。彼らはみな笑顔でした。遠い影でしたが、くっきりと口が、歯を見せて横に引き伸ばされていました。ノースリーブの紺色のシャツで、肩の丸みを見せている女性も顔は捩って正確にこちらを向いています。彼らは少しずつ、返さない波のように屋上の一カ所に寄り集まって、肩を組み、左右に揺れながら歌い始めました。声は聞こえませんでしたが楽しそうな凱歌でした。わたしは歌を聞くために手摺にとりつき頭を突き出しましたが、何かを隔ててしまっているのか、聞こえるのはサイレンだけでした。

「危ないでっ」

 と、道から鋭い声をかけられ、はっと下を向いてから顔をあげましたが、市役所の屋上にはもう誰もおらず、やけに青い空ばかりが広がっていました。

 あんた、危ない、早まるな。違うんです、と道に向かって首を振りましたが、おばちゃんは金魚でも受けるように両手を綺麗なお碗にしていました。いいえ、違うんです。わかった、わかったから。だれかっ。ちがいます、わかりました、ちょっとと。わたしはこれ以上彼女が大声を出す前にと階段を一階まで駆け下り、おばちゃんは自転車を捨てて階段を駆け上がって来ようとしていました。はやまるな、ともうはやまりようもないのですと言って。


「――――――――ませ」

 ドアが開き、カウンターにいるにも関わらず、高田係長が顔をあげずに行けと命じます。この、一瞬下くちびるが待つ口の動きで彼女が誰に似ているか思い出しました。キャリー・フィッシャーが演じるレイア姫でした。誰かに賛同して欲しかったのですが、みな首でも折れたように下を向いていました。

「そこ――――――が、――――――?」

 カウンターの上で安いさしみのようなくちびるが、合わさっては開き、合わさっては開きます。口角に皮と口紅が溜まっていました。どうもこの頃細部ばかりが気になります。いくら見つめてもお客様の要望がわかりませんでした。カウンターに出された水道料金のレシートは半年前のものですし、システムで調べても、未払いも漏水の気配もありませんでした。ぱくぱくぱくぱく……、見つめているうちに催眠術にでもかかったように、ふうっと体が天井まで浮き上がるのを感じました、いいえ、浮き上がってはいません、体は脇をぴったりしめて、ただ揺れながら突っ立っています。蒲焼のように全身に痛みの串が刺さっていましたのがよく見えました。天井の隅から見おろしながら、可哀想に、とは思いましたが自分のことには思えませんでした。わたしの抜け殻が何かを言っているのかもしれません、さしみが動きを止めました。わたしは蛍光灯の側でくるくる回りながら、遠藤さんがパソコンでニュースを読んでいるところや、係長の割れた左手人差し指の爪を見ていました。

 現場から帰ってきた佐川さんが、お客様の後ろから声をかけています。大きな肩を丸めてカウンターの下から書類を引き抜き、書くべき位置を示しています。水道の名義を変えたかったのかと、やっと気がつきました。佐川さんの作業着はいつも赤のダウニーの香りがしました。ダウニーは妻のマーキング、といつか、新婚の柴田ちゃんが言ったのが印象に残っています。パフェを囲んで同期で悪口大会を開いたのはずっとずっと昔のことです。ちゃんと働いていたなあと他人事のように思いました。喫茶アトラスのチョコレートパフェの面影を追いかけるうちに、わたしは、わたしになっていました。地に足をつけて、重さを持って。揺れはおさまりませんでした。

「――――――――で、大丈夫?」

「そういう――――――――、――――――――でもどう?」

 座っても膝が小刻みに震えていました。自分に自信があれば、地震かと尋ねたかもしれません。体が怒っていると感じました。わたしの体は部位ごと仲違いをしていました。どうしてもそれが、他人事のように思えました。


 お手洗いに入るとほっとすると同時に、ひどく頭が痛みはじめました。血管がどっと開き脳に忘れていた血を送り始めるのでしょうか、後ろから殴られたような衝撃のあと、ずきずきと痛みが広がるのです。顎を上げるとたいていは鼻血が滲んでいました。時計はちっとも進みません。こんにちは、お久しぶり、よく合うね、最近どう? 個室が三つしかない小さなお手洗いに、市役所じゅうの女性職員が集まるために、いつも賑やかでした。古い庁舎の上階には、個室のある男子用トイレしかなく、みんな大人しい羊のように排泄のために移動してくるのでした。奥の一つはいつでも誰かが閉じこもって泣いていましたし、午後二時に来ると神宮さんがリキッドファンデーションから全部メイクを落してやり直していました。

 仕事慣れた? と鏡越しに問われて反射的に笑いました。声をかけてくれたのは国保係の小松さんでした。

「あそこ、うるさいでしょ、あかねちゃん」

「あ、はい元気よくて……」

 答えた後で、誰だろう、とぼんやりと思いました。小松さんの瞳が揺れています。見つめていると、黒目が移動しそうで、逃げて瞬きしました。けれど閉じたまぶたの内側で反発していたのはわたしの眼球でした。小松さんの視線は心配そうにそれを追ったに過ぎないのです。あかねちゃんが誰なのか、尋ねるべきかと言えばイエスでしょうが、知りたいかといえばはっきりノーでした。ひどく疲れていてすべてをただ笑ってやり過ごしたいと思っていました。また鼻血が滲みました。

「あ、そうか、もうあかねちゃんって呼んでないのかな?」

 税務課のミオさんがハンカチで顔を押さえながら涙の個室に直行しました。嗚咽が漏れて来て、長居してはいけない気分になります。いつも思うのです、ここで焦らないことが生きるコツだと。重大な用事などなくても、いいえ無いからこそ譲らないこと。でもやっぱり出来ませんでした。頑張ってね、と小松さんが優しく言ってくれました。


 耳穴の前と奥歯の真下、頭痛のツボを押しながら仕事が流れてくるのを待っていました。五時十五分は過ぎていましたが帰れないでいました。理由は説明されましたが、よくわかりませんでした。青森さんが憎しみの視線を高田係長に向けています。わたしたちが待っている仕事を止めて、今朝の自分のミスについて実験的アプローチを繰り返しているためでした。意地悪なのか想像力がないのかのどちらかです。レイア姫なので平民の気持ちが想像できないのかもしれません、と穏便に思い込もうとしますが、ごまかすのもいい加減にしろと、ひとり芝居が幕を開けます。

 無意味な五十分が経過していました。水道の廃止届けを捲っていましたが、気がつけば意味もなく、チェック欄の不思議な判ばかりを眺めているのでした。円の中を三本の朱が垂れた図柄です。水道課下水道係――――さん。市役所の知った顔を順番に思い浮かべてみますが、心当たりがありません。下水道係ってどこにあるんですか? と自分の声が聞こえないまま、青森さんに尋ねました。

「え、――――――――知らなかったっけ?」

 係長が跳ねるように書類から顔を上げました。音がしそうなほど弾みをつけて、青森さんが振り向きます。彼女の言葉は見せるためのもので、とても読み取りやすいと思いました。

「いいから――――――その伝票、――――――い」

 堂に入った聞こえない振りで、うきうきと立ち上がります。事務所の東の壁には小さな扉がついていました。役所には要らない扉や不思議な凹凸はつきもので、機械でもあるのだろうと思っていたのですが、高田係長はそのノブに手をかけました。がちゃがちゃ揺すってから、緑色のキーボックスを見つめます。すべては見せるための動作でした。水道課は舞台でした。背中に視線を感じましたが、わたしはもう立ち上がってしまいました。係長の跳ねる指を見てキーを選びます。

「そこ、開くんですね」

 とキーを冷たい手に手渡しながら屈み込んだ瞬間、ものすごい重さが体にのしかかってきました。重力のレバーをぐっと誰かが持ち上げたのです。

「は――――――――、――――下水道係でーす」

 灰色の扉が開かれました。テニスのラケットを目の前で振られたように、勢いよく仰け反りました。自分の背筋でしょうか、外圧でしょうか、わかりません。それでも顔は立てていました。視線を外しませんでした。バランスをとるように、勝手に足が出ました。ぐりとぐらの巨大なパンケーキに爪先から踏み込んで行くようでした。ただし色は黒です。膝がぐっと曲がります。探るとざらざらした階段がありました。係長の手がはしゃいだチアリーダーのように空を押し、気配がわたしの背中を押します。仰け反ったまま段を降りて、書類を踏んで転びそうになりました。轟音の中、係長の笑い声が途切れて聞こえます。左手が自然に壁を探ります。照明のスイッチがあると思ったのです。ドアと階段のせいで妙な姿勢でした。壁はふっくらとした内張で、ひどく濡れていました。そしてもう少し手を伸ばすと、壁はフジツボ様の固くて尖ったものでいっぱいでした。腐った泥の匂い、いいえ、コーヒーと濡れた吸殻の匂い、かさかさと虫の足がたてる振動が肌に伝わってきます。耳を澄ませて、すでに耳の中は音でいっぱいなのだとやっと気づいて、あとじさりますが、もう遅かったのです。

 サイレンでした。真っ暗な部屋の中にサイレンがあり、何百何千の三角錐のスピーカーが木の実のように生っていました。鳴っていました。

 ここで聞く音は針ではありませんでした。先端を尖らせる必要もなかったからです。力が違いました。絶叫していました。音の中の音、すでに音でいっぱいになった耳に、頭に、体に、激しく音が体当たりをしてきます。サイレンの根元には島になった事務机が見えました。椅子は思うまま飛び出しており、平らな場所はどこも古い書類でいっぱいでした。吸殻でぎゅうぎゅうの空き缶が重りに置かれていましたが、紙はびたびたとはためいています。さらに後退るとヒールが階段を強く打ちました。安いヒールにはきっと取り返しのつかない傷がついてしまったに違いありません。

 音はわたしに入り、わたしを出て、反響して戻ってきます。

 もう言ったでしょうか、耳の中はすでに音でいっぱいでした。体は震え手足は冷たくなっていました。サイレンは机に根を張るように、大きな木が、いいえ、太い電柱が、違います、一瞬しか見えませんでしたが確かに顔のある、鈴なりのスピーカーで顔を隠して、天井まで届いた灰色の塔が、震えて激しい音を鳴り響かせていたのです。開いた口へと蝙蝠みたいに音が飛び込んできて、口の中で喉の奥で胃で腸で肛門で頭蓋骨で激しく身を震わせます。音が波のように、波がわたしのように、わたしはサイレンになってぶるぶる震えて絶叫していました。

 もう言ったでしょうか、わたしは音でいっぱいでした。自分の声を出すことはできませんでした。目も耳もないこの時のわたしは神経だけのかたまりになって部屋の中をものすごいスピードですっ飛んでいました。壁に当たり机に当たり、書類を蹴散らし、缶をボウリングのように崩して。ピンボールです。ピンボールになって世界を測定していました。サイレンを中心にしてこの部屋は存在しました。スピーカーに慎みの蓋は無く、ぶるぶる震えていました。スピーカーに隠れた、俯いた顔に四角い仏壇のような扉がありました。指一本を引っ掛けるような、小さな赤い把手がついていました。扉は黒く、細く開いていました。わたしは素早く飛びながらそこに飛び込むまいと見えない足を突っ張り続けました。


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