第4話 歯科妄想

 味のないオムレツを作って食べ、シャワーを浴びて、顔を作り、サルからヒトへの進化の図説のように、ゆっくりと背筋を伸ばしつつ外に出ました。太陽は眩し過ぎ、空や自動販売機、アスファルトまでがぎらぎらし過ぎていました。ひとはみな灰色っぽく死に、町が生きていました。昨晩のうちに生の定義が変わったのかもしれません。古いゲームのように、正面を向いたまま平坦に移動している感じがありました。

 列車の中は顎にゴムを引っ掛けた帽子の女の子と禿げたおじいちゃんのペアばかりでした。イヤホンを耳に入れると曲を選ぶ間もなく眠ってしまいました。夢を見ている、と思ったのは目覚めた瞬間かも知れません。現実はいつも記憶でしかないのです、一瞬前に立ち返り、思い出す。波のようです。

 ドアが開き、風と制汗剤の香りで綿菓子のように身を守った中学生が押し寄せてきました。彼らは箱の中で緩やかに三つに別れます。わたしの近くには楽器を持った子らが、小さな魚のように慎ましく群れていました。全員のシャツにアイロンがきちんとかかっていました。もう一度窓に寄りかかり眠ろうとした時、ガラスにちょうどひとつの顔が映りました。くちびるが上を向いていました。幼くつり上がった目が輪郭を失って、きらきらと流れる景色に浮かんでいました。

 知っているひとに似ている、というぼんやりした感想から急激に裏切るように神経が信号を出し始めました。体からこの頃おなじみの怯えの汗が噴き出し、心臓がぎゅっと縮まります。意識して視線を剥がす直前に、彼女が隣の男の子を見るのに顔を傾けました。きつく上がった眉の線、短くて濃いまつげ、そして横顔からの想像より三センチは離れた目が一種のカエルを思わせました。男の子が何か言って、彼女は音もなく笑いました。恥じらいを含んだ清らかな花のような笑みでした。けれど光景の清しさとは反対に、わたしの胃液は勢い良くせりあがります。細口のポットで熱湯を胃に注いだようにごぼごぼと内容物があふれます。眼球の後ろに遮光板を嵌められたように、目の前が真っ暗でした。強く瞬きを繰り返すと、世界の輪郭だけがぼんやりと白く見えました。壁を手探りし、まだ予定の駅ではありませんでしたが、ドアを探して開くと同時に転び出、待合室に転げ入りました。


 腕時計を見ても目を離すととたんに時間がわからなくなりました。心は焦った獣になってあてもなく走り回り、情報はすべて記録されず、つるつると流れ落ちて行きます。木製の鳥籠のような、小さな待合室で、ベンチに上体を預けていました。二度お手洗いで分割したすべてを吐きましたが、身を起こすと耳から水がこぼれる感覚がありました。見ようとする目に、嗅ごうとする鼻に、曲げようとする関節に、インクのように痛みが滲みました。

 だ、い、じょ、う、ぶ、で、す、か。汚れたガラスの向こうでひとつのくちびるがゆっくりと動きます。眉の濃い顔の長い男性でした。天然パーマに小鳥が住んでいそうです。ぴよぴよ。実際は誰かの着信音か会話に潜んだ音でしょう。でもわたしには聞こえましたし、聞こえれば見えました。音は耳から入りますが作用するのは耳だけではないのです。わたしはあの家でそれを嫌というほど知りました。網膜的に生き過ぎるね、とHさんは笑いました。

 お仕着せの微笑みで流すつもりでしたが、みる間に彼の黒目がじりじりと左右へ離れはじめます。両端に到達した黒目はそのまま、釣り針のようにまぶたごと引っ張って外に出ようとしました。伸びた目頭から赤い粘膜が見えました。

「大丈夫です」

 目を閉じてわたしは現実ごと妄想を拒絶しました。

 やがてきた次の列車に、人の流れを利用して乗り込み、座席に無理やり体を押し込めてまたすぐに眠りました。眠りに逃げるのは得意でした。目覚めると両隣の人はいなくなっており、わたしの肌からは四日目の卵サンドのような臭いがたちのぼっていました。懐かしい臭いです。さっと車両を見渡しましたが、男性がひとりと女性がふたり、わたしを見ていました。内のひとりだけが目を離しませんでした。これはただの臭いですが、ある種のひとびとにはアドバルーンのように目立つしるしではないかと思うのです。被虐者の身に深くすりつけられたマーキングです。ほら、お前も殴ってもいいよと、加虐者が、あとに続くものを導く白い石です。


 銀色のエレベーターの中で立ち止まり、ドアが開くとどっと恥辱と後悔が押し寄せてきました。なぜ来たのだろうと思い、理由は明確なのですが、自分でもわからないと思いました。明るい部屋でした。大きな窓、白いカウンターで、天井がとても低く感じられます。エナメル質を削る音と、空気と唾液と吸い取るバキュームの音が満ちていました。なぜすべてを吸い込むのに音だけはこんなに吐き出すのでしょう。

 受付で名前を言って、待っているうちに焦りが増し、まぶたをきつく閉じ、鼻の根元に力を入れ摘まみました。名前を呼ばれても眩しすぎて、半分しか目を開けられませんでした。肘の辺りですれ違った少年は目の下を青くして、強過ぎる眼光は何も見ていない証でした。

 こんにちは、お久しぶり、と患者がまた歯を損なったことが、心底嬉しそうな歯科医に、わたしは力なく口を開きます。何とかやり過ごそうと目を閉じたのに、銀のトレイを寄せた、かちゃんという音で体が魚のように跳ねてしまいます。どうしたの、と金岡先生が笑います。

 子供用にとチンアナゴの目をつけたバキュームのスイッチを、何度も入れたり、切ったりしながら、そんなにこわがりだっけ? と先生が尋ねました。首を横に振りましたが、顔面からは血の気がひいているのはわかりました。音が近づくと、ヘリコプターに乱された湖水のように鳥肌が広がります。先生が面白がって頬から鎖骨へ、そして二の腕へと金属探知機のようにバキュームをあてました。ほんと、どうしたの。わかりません、と情けない答えしか出ませんが、口の中であの音、あの振動がすることに耐えられそうになく、今日のところはよして帰ろうかと、そう言い出そうとしたとき、貝殻のような安らぎが耳を包み込みました。逃がさないよう咄嗟に掴んでからそれが歯科衛生士さんの白い手だと知りました。自分の耳たぶがとても冷たいことも同時に知りました。ニトリル素材に詰められた肉の重みがこの世で唯一の味方でした。

「大丈夫ですよ、大丈夫です」

 表情はライトの強い逆光で見えず、黒いたまごのように見えました。


 尻込みしながらも、次の予約をいれて、逃げるように建物を出ました。六月の蒸し暑いはずの風がとても冷たく感じました。またきりんの玩具になりながら、安心を求めて本屋に入り、出来るだけ凹凸のある優しい紙を捲って神経が休まるのを待ちました。何となく黄色っぽい背表紙ばかりを選んで手に取りました。カバーはいらないというと、いま買うと爽やかな鳥のデザインのカバーをおつけしますよ、と言われ、やっぱり断りました。

  鞄に安心の重みを詰めてコーヒーショップに入ります。何度か引っ越しをしましたが、実家を出てからハシバミ家に入るまで、八年暮らした町でした。店内はざわついて、人は影がうすく残像のようです。音楽だけがその頃と違っているようでした。ハシバミ家に行ってから、新しいCDやイヤホンの片方を貸してくれたのは松山くんでした。包み込むようにして知らない音を聞きました。わたしの知るHさんはたいへんな見栄っ張りで新しいものが大好きでしたが、ハシバミ家では全員が二十年前のポップスを時が止まったように聞いていました。松山くんは京都の大学を出たという噂で、実務は誰より確かで、お母さんも彼を重宝しているようでしたが、いいえ、そのせいで、ようインテリ、と呼びとめるHさんの顔はものすごいものがありました。けれど松山くんはいつも静かに笑っていました。不思議なのは、彼が神様も教祖も、何も信じてもいなさそうなことでした。ただここにいると決めた風情だけがありました。彼はフィクションの人物のように、物語を越えてはどこにも行かれないように見えたのです。


 コーヒーの香りが揺らいで前のカップルが立ち上がり、高く伸びた影でふと昔の映像が脳に浮かび上がって来ました。生々しく空気が動きます。イライラした熱中を携帯ゲームにぶつけていたHさんが、早回しした植物のように立ち上がり、本とわたしを影で覆ったのです。その影の斜めのかかり方で、作られた優しい口元で、通りをHさんの別の女性が歩いていることを確信しました。わたしは買ったばかりの青い表紙の本を読んでいました。猫のような装画で、猫のような名前の。それ以上は思い出せません、このあと彼が本にひどいことをしたのです。彼曰く、愛と。でもこの時はまだ何も予感せず、美しい庭で、美しい人が脱糞するという物語の展開に驚いていました。Hさんは影になって十五秒数えると大きな手で青い本を掴み取り、先に立って歩き始めました。部屋とは反対の方向です。わたしは慌てて会計を済ませて彼を追います。追いながら振り返り、どうやら新しいだけではない女性の姿を、次に見た時にわかるようにと、通りにいた全員の姿を脳に焼き付けようとしました。けれど残念ながらわたしにそんな能力はなく、グァバジュースの香りとただ明るいアーケードを記憶しただけでした。梅雨の晴れ間でした。


 何度も嘔気に耐え切れず途中下車し、すっかり暗くなってから家に着きました。枕元のスタンドさえ明るすぎるように思い、掃除機やポットや充電器の微かなあかりの中にぐったりと横たわることしかできませんでした。コンコン、と窓を叩く音が聞こえたようにも思いました。じっとしていると、西側の砂利道を誰かが歩いています。それはかき氷を崩す音に似ていて、雪のような甘さがありました。大きい足です。ありがたいことだと思いました。いまは足音以上は必要ありません。ざくざく、ざくざくとそれは雨のように続き、わたしはうずくまって朝を待ちました。



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