第3話 騒音、それから宅急便の人
朝から太陽が眩しく、騒音は絶え間なく、痛みが頭の代わりにフクロウの顔をして首の上に乗っていました。水道庁舎じゅうを音が飛び交い、たえまなく針の音が耳の穴に飛び込んできていました。トリックのない剣をめちゃくちゃに差し込まれた瀕死のマジシャンが、頭の中で逃げ場を探していました。出られないと知ると、膝を抱えてできるだけ小さくなろうとします。でも刺さった剣が邪魔でうまく座ることもできないのです。いつも傾いで、血は出尽くして、水っぽい体液が出ていました。
「――――、花粉症、――――――――みたい?」
ね? と高田係長が、青森さんに話しかけるのを、ぼんやり痛みの合間に聞きました。音と痛みをきりわけることに執心していました。音は鳴っており頭は痛い、それだけのこと。関連を切れば耐えられるように思ったのです。耳栓をしようと何度も右手が抽斗の中を探りましたが、それは子供っぽい反抗のように思えました。痛みには「死ね」と「いっそ殺して」の二種類があると思っていたのですが、ここでは両方が仲良く交互に押し寄せました。書類に文字を書きいれるたびシャーペンの芯を折り飛ばし、組み替える脚を抽斗の底に何度もぶつけました。そのたびに髪の毛が逆立ちます。けれど爆発するほどの力はなく、ふわっと消えてしまうのでした。するとにこにこと、いっそ殺しての代表が意識に踊り出て来るのでした、花いちもんめ。
課長が時計を見ながら五時十五分ぴったりに、皆も早く置いてよ、と言いながら部屋を出て、青森さんがわかりやすい恨みの眼差しで、その後姿を追っていました。照準レーザーのように赤い点が課長の背中に張り付いていました。
「課長ってばね、いっつもああで、何もしないし、ほんとに、何のためにいるのかわかんない」
「ほんっとに、きみらは悪口ばっかりで、気分が悪くなる」
下を向いたまま、重ねるように、遠藤さんが吐き捨てました。すべて聞こえた訳ではありませんが間違いはないでしょう。続きは見ずに帰ろうと、立ち上がると灰色の椅子がハッキリと変色していました。驚いてまた膝をかがめます。尻が汗でびっしょりと濡れています。寒気はストッキングの上を広がりました。古い豚骨スープのようないやなにおいが自分から立ち上っていました。わたしはいま、潰れたラーメン屋の寸胴鍋から蘇った亡霊でした。隣の青森さんのこけしのような笑顔からは、このにおいが妄想なのかどうか、推測できませんでした。
家に着いたのは八時過ぎでした。玄関の時計を見て、ああ壊れている、と思いましたが腕時計も八時を過ぎていました。アイフォンの表示を見て、わけがわからないながら、職場を出て三時間も経っていることを受け入れました。エンビロサックスのエコバッグを椅子に置き並んで同じようにぐったりと座ります。家の中はとても静かでした。
帰りにスーパーに寄ったのですが、わたしは一歩歩くごとに、体が沈み、また動作につられて伸びるという、おかしな動きを繰り返していました。押し込むとぐしゃりと力を失う、懐かしいキリンの玩具を思い出していました。見知らぬこどもがお母さんの太腿を引っ張っていました。わたしは無害そうな微笑みを浮かべてみましたが、成功したかどうかはわかりません。
自転車のライトが切れていましたし、疲れてぼんやりしていたとは思います。いいえ、いつもです。けれどたかだか十分の帰り道で道に迷ったのは初めてでした。赤瓦市は海に面した肩甲骨のような形をしています。面積はおよそ三百平方キロメートルと京都盆地程度でしたが、地図は一面緑色でした。なんとか通してもらった国道の脇に人と店が納豆のように集っているだけの小さな町なのです。すべてが迷いようもない一本道なのです。けれどスーパーで買い物を済ませて自転車を漕ぎ、ふと気がつくとそこは、同じスーパーの入り口だったのです。その時わたしの口はOの字に開き、汽笛じみた吠え声をあげていました。喉が猫のように震えていました。体も自転車も、霧の中を走ったように濡れて冷えていました。
家は静か過ぎて、体から焦りが湧いて来ます。パックのシュークリームや半玉のキャベツをできる限り荒々しくテーブルに並べましたが、固着した静けさはゆるぎませんでした。静けさが手を伸ばしてすべてを掴み、ゼリー寄せにされているのです。じっとしているとわたしの刺々しい神経が体を越えて成長し、さんごのように枝を伸ばしてゼリーに食い込んでいくのでした。
「猫の爪は定期的に切ってやらないと毛細血管が伸びてしまう」
猫の白い手をぎゅっと握った、母の恐ろしい顔が視界に大映しになりました。そこで、突然の大きなチャイムがして、わたしは本当に飛び上がりました。踵をぶつけた椅子が床を打ち(これは現実です)いきなり背中を棒で叩かれ(違います、これは記憶です)全体が揺れて壊れると思いました。(これは妄想でしょう)振り返ると義姉さんが、黄色いシミのたくさんついた修行服を着て立っていました。シミの配列には厳粛な規則性がありました。宇宙の真理がありました。彼女はまぎれもない芸術家でした。その手には卒塔婆によく似た彼らの棒があり、棒は教義そのものであり、彼女は再びそれを振り上げ、振り下ろしました。目を閉じ、打たれた瞬間にずるい体が神経(わたし)を残して前に倒れました。抜け殻です。神経と血管に水銀を流された模型のわたしが、魚の骨に似たわたしが、そこに立っていました。
「柿火手さーん、宅急便でーす」
はい、いま行きます、はい、と、わたしは慌ててクロックスを踏んで鍵を開けます。出てしまった神経をしまうことは難しく、もしいまがちゃがちゃと鍵のかかった戸を揺すられたら死ぬか殺すかしてしまうと思いました。大げさですが、台所を飛び出しながら、わたしはポケットにペン立てのはさみを突っ込んでいるのです。注意して欲しいと思います。
門灯に照らされた男性の影がわたしのうえに落ちていました。玄関のインターホンとロックは近過ぎるのではないでしょうか? 鍵を開けたわたしのうなじに刃物を突き立てることは簡単過ぎるのではないでしょうか? 一体どこまでやられてからが正当防衛でしょうか?
渡されたボールペンを受け取りそのまま箱の上で名前を書いていた時(うまく書けず、半分別人になりました)汚れたニューバランスの間をするりと黒い影が通り抜けて行きました。
「猫ちゃん」
「えっ」
荷物を置く彼のざらざらした首筋はもう真夏のように日焼けしていました。すごく乾いた肌のひとだな、とぼんやり思っていました。
「えっ、あの、いいんですか? 猫ちゃん」
「えっ?」
「今、出て行きましたよね」
「うそ」
どうしようすみませんと繰り返しながら、彼は帽子をポケットに突っ込み外に出ました。きつい汗のにおいがしています。わたしのそれとは違う、自然な発汗です。トラックの下を覗き、隣の家との境をじっと見つめます。
「どうしよう、わかりませんね。名前なんていうんですか、猫ちゃんの」
「……かのこ」
かのこちゃん、かのこちゃんと優しく呼びながらどこでも目を細めて影を見ました。猫を飼ったことがないのでしょう、けれど猫を好ましく思っているのでしょう。久しぶりに人間の背筋を見たように思いました。彼は広い背中と耳から顎の短い線を持っていました。わたしもまた、驚かさないようにそうっと名前を空に呼びます。ゼリーの敷地を出たむき出しの神経に自分の声がびりびり障ります。やけに生ぬるい風が吹く夜でした。風にまかれた髪の毛をまとめてねじり、心地よい猫の名を呼びます。見るひとがいれば、街灯も無い暗い道を、長い魚の骨が、人間の後ろをついていくように見えたでしょう。無害です、どうかお願いです、無害です。
「黒い猫ちゃんでしたよね。首輪は赤?」
「そう」
思い出すために軽く目を閉じて頷きましたが、彼が青と言えば頷いたでしょう。猫のはずはないのです。わたしが猫を飼っていたのはずっと昔のことなのです。
小学校からの帰り道、公園の植え込みに、パン屋の油染みのある紙袋が落ちていました。口は捩って閉じてありましたが、中から何かが結び目をつついていました。わたしと桂ちゃんは座り込んで、奇妙に動く紙袋を見つめていました。拾った枝をそれぞれの手に持ち、じっと息をつめていました。後ろには知らない上級生たちが集まりはじめていました。
「……にゃあ」
か細い声が世界を変えました。わたしたちは歓喜に顔を見合わせ、枝を捨てると我先に紙袋を取り上げて、震える子猫を腕に抱いたのです。白と黒のハチワレ猫でした。上級生たちは子猫を撫でて撫でて、模様を地図のようになんども辿ってから去り、わたしたちはホームセンターに寄り、重い餌とトイレ用の砂を入れた袋を引きずって帰りました。相談しなくていいの? と桂ちゃんは言いましたが、先に金を使った方が強いということをわたしはすでに学んでいました。かのこにする、赤野公園の近くで拾ったから。と言ってみましたが、母は、お母さんまた子供産んだと思われたら困るわ。ね、トム、と言いました。でも名前は大したことではないと思いました。トムは瞳が青くて、まだ震えを推進力にして歩いていました。それから十二年生きて、ある土曜日に静かに息を引き取りました。
「あ、ほら、あそこにいますよ。かのこちゃん、かのこちゃん」
植え込みとコンクリート壁の間に潤った二つの月が落ちていました。おいで、かのこ、としゃがんで伸ばした指先に冷たい鼻が触れました。猫はするりと大きな体をくねらせて腕をまたぎ、長い体を擦りつけ、当たり前のようにわたしの胸に収まったのです。よかった、よかったです、と彼は顔を崩して笑うと慣れぬ手つきで猫を撫でました。黒猫は目を開いたまま耳を立ておとなしくしていました。猫を飼ってみたいんですけど、アパードだし毎日遅いし、というようなことを彼が喋るのを聞くでもなく、聞いていました。
かのこはふっくらとして去勢されていない雄猫でした。
玄関に入れて首輪を調べましたが、銀のチャームには何の情報も刻まれていません。とりあえずは膝に抱いたまま、届いた荷物のテープを剥がしました。何日か前にインターネットでバランスボールを注文していたのですが、すこし箱が大き過ぎるとはぼんやり思いました。緩衝材を掻きわけるとプラスチックのまるい角に触りました。箱の中身は猫用トイレと、フリスキーの大袋と、猫のトイレ砂でした。トイレは、トムに最初に買ったのと同じ、アイスクリームを溶かし切ったクリームソーダの色でした。
膝の黒猫がわたしを見上げています。瞳は黄色い雲のかかった緑色の惑星でした。さっきよりも生き生きと輝いているように見えます。口が少し開いて赤い舌が覗いています。納品書を掘り出すと、荷物の発注者はHさんになっていました。猫は低い声で鳴いています。ぼうっと戸を開けると、振り返らずにぬるりと出て行きました。食み出していた闇が世界の中に戻るように。ごく自然に。
こぼした緩衝材を戻すうちに指に触れた物を取り出すと、コンドームの箱でした。十二個入り三パック。見慣れたパッケージのせいで理解より先に、声を出して笑いました。Hさんがいつも買っていた大箱でした。あからさま過ぎて質問さえしなかったのですが、もしかして気づいていなかったのでしょうか。わたしと使う分よりいつも注文が早過ぎて多過ぎると。
慌てて夜に出てもう一度かのこを呼びましたが、ひとつ名を呼ぶたび、ひとつ足を前に出すたび、体が重く硬くなりました。かのこはどこにもいませんでした。奇跡が去ってしまったことは明らかでした。他でもない、わたしが手放してしまったのです。
台所で立ったまま、カロリーメイトを水で流し込みました。味も刺激も要りませんでしたが、体に隙間に残したくなかったのです。わたしはあり得た未来を思って大げさに泣き、熱い涙を顔中にてのひらで塗り広げました。
灰色の朝は夜と地続きでやってきました。遅い土曜日の朝でした。階段を降りて玄関にだらしなく広がった荷物を見るとまた悲しくなりました。ぬるいたまごや茶碗蒸しを冷蔵庫にしまいました。どうかしていることはわかっているのです。ヨーグルトにスプーンを差すとそれが水を巻き込んで飲む美しい猫の舌に思われて、わっと涙以上のものが込み上げました。ばかばかしいことです。
コツコツ、と鳥が窓ガラスをつつきます。するどい音に妄想を破られ振り返るとたいへんな笑顔のしらないひとが、台所の窓を叩いていました。
「お荷物です、あの、かのこちゃんがまた逃げるといけないと思って……」
ふらふらと、昨日と同じように鍵を開けました。落ちた影の形と埃っぽいにおいに、神経の動揺がぶり返し、わたしは一歩、踏み込んでいました。制服の生地を隔ててすぐに熱い肉が感じられました。こんなときいつも背後に母を感じていました。母なら恥知らずと怒り狂ったでしょう、そう考えることで、母を傷つけ得ることで、わたしはほっとするのでした。わたしは彼の肩に額を押し付けて泣いていました。衝動を満足させるために、さまざまの悲しみを妄想しました。わたしの過去がありましたし、かのこの未来がありました。この世の破滅もありました。本当のことはひとつもありませんでした。彼は片手に小さく軽い荷物を持ったまま、肩と胸を貸してくれました。熱っぽい体は確かに人間でしたが、いいひと過ぎるために、妄想の可能性があると思いましたので、近所のひとに知られぬよう手探りして戸を閉めました。
しばらくして、差し出される荷物を受け取りましたが、もう泣くことにも退屈して、早く家から出て行って欲しいと思っていました。白く平坦な気持ちで、無表情でどこまでも歩けそうでした。何かあったんですか? と彼の方が泣きそうな顔で尋ねましたが、泣きたさに理由があるでしょうか。わたしは彼の勘と優しさに任せることにしました。もしかして、かのこちゃんに何か、と彼の瞳にはほとんど涙があふれていました。わたしは謝罪してただ消え入りそうなふりをして制服の背を押しました。本当にごめんなさいと、口で言うよりも深く思っていましたが、妥当とは言えません。
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