第2話 働いている、とある場所より電話がある

 騒音は、駐車場を出た一歩で戻ってきました。後ろに頭をずらすと、音が法螺貝のように滲んで消えました。この一歩で周波数が変わるとでもいうのでしょうか。市道を横断するだけで左右の耳が痛み始めました。玄関では鼻の穴も。それが現在のものか、過去の痛みなのかはわかりませんでした。階段の一段一段が音量メモリのひとつひとつでした。

「これって、機械の音ですか?」

 出来るだけ何でもないことのように合間にそっと尋ねると、聞きつけた課長が、柿火手さんは耳がいいねえ、と翁の面のように笑いました。一見すると天下泰平、けれど嘘くさくいかにも作り物の、薄気味悪い表情でした。

 彼らの無声映画をとにかく自分のために吹き替えました。救いはすじが単調なことでした。サイレンのうねりの合間に拾った音を繋げます。わたしは彼らの声色まで真似て会話を補完しました。前歯が歯茎から押し出されるように痛み、上くちびるとの間に舌を差し入れ耐えました。骨が共鳴するようでした。作り笑いのせいばかりではない、頬肉もこむらがえりのように激しく痛みました。そして何より、音が頭蓋に充満してふだんの半分もものごとが考えられないのです。わたしは幾度も書類を取り上げては、それが何のためにここにあるのか、じぶんが何をするつもりだったのか、考えていました。そしてはっと気がつくと、愚図なわたしを棒で打とうと、灰色の影たちが立っているのが蜃気楼のように見えました。

 五時十五分になり、課長が優雅に立ち上がった時には体がすっかり強張っていました。何一つ深くは考えられず、明日も来てね、と笑う高田係長に、ぼんやりとした悪意の印象を持ちました。


 ペダルを踏む一足ごとが重く、ドラッグストアに入り真っ先に痛み止めを探しましたが、ふと今まで意識もしなかったコーナーが目につきました。耳栓にこんなにも種類があるとは思いませんでした。家庭用、仕事用、水泳用、睡眠用、こども用。人間はこんなにも騒音の脅威にさらされているのでしょうか。パッケージには焚き火を囲む毛だらけの原人の絵があり、擦れたフォントで、騒音は生命の危機である、と書いてありました。読んでいるだけでじわっと汗をかき、得体の知れないものが洞窟と、ドラッグストアの外で待っているように思えました。パンとカロリーメイトと缶チューハイと、他にも必要なものがあったはずですが思い出せず、追い詰められたようにゼリーばかり買って帰りました。


 ひとはみな、洞窟に住まい、物音と闇に怯えた時代の記憶を持っているのだと、耳栓の説明書にはありました。細かい青い文字はコピーを繰り返したように歪み、掠れ、波打っていました。巨大な嵐、獰猛な雄叫び、断末魔、命を脅かすものはすべて大きな音を伴っている、音は、それじたいが暴力なのです、と。暴力、という文字が何度も印字されて震えているように見えました。これは二重の意味なのです。音は暴力です、聞いているものを殴りつけます、でも同時に、聞いているものの心臓をも打つのです。死にたくない、怪物が来た、死にたくない、ならば立て、殺せ。人類の叡智、ポリウレタン耳栓があなたを救う、と説明書は言い切っていました。ほんの少しだけ、と次の行で弱気になっていました。この世から騒音が消える日がくれば、耳栓はもう必要がなくなるでしょう、わたくしどもの会社は潰れ、わたくしどもは路頭に迷うでしょう、けれどそんな世界を望んでいる、わたしが死んでも静けさが世界を満たすのなら幸せです、と結んでありました。この文を書いた人間はノイローゼでした。震えながら薄暗い机にかがみ込んで、耳から血を流して、祈りと呪いを込めたのです。


 黄色いポリウレタンは、押し込んだ耳穴でふわふわと広がりました。耳の内側に刺々しく突き出してしまった神経をそっと押さえ込みます。その感触で心が安らぎましたが、両親の声が思ったよりハッキリと聞こえました。来週行く、ふたりで申し込んだツアーの話なのですが、だんだん机に置くリモコンや湯のみに注ぐ茶の音に暴力が混じりはじめます。言葉にしないために、完全な形で感情が音に上乗せされます。聞きたくないと耳栓を捩っているうちに、両親はとっくに死んでいるという事実をじわじわ思い出していきました。こぼしたミルクのような白い影が、最初から飛ぶ鳥の形であったことに気づくように、わたしは知っていることを知るのです。

 右の耳栓を抜くと、西の社宅でかちっという門扉の音がしました。ただいま、おかえりと柔らかい声が続きます。キリンジのエイリアンズがBメロまで流れていました。アイフォンを取り上げると充電中のコードがコーヒーカップをひっかけ、さらに胃薬の瓶をひっかけました。床で蓋を打ち、アラザンのように細かい黒い粒は弾け、フローリングの上を、積み上げた荷物の影へと解散していきます。コーヒーが胃薬のあとをゆっくり追いました。


「もしもし」

 聞こえてきたのはHさんの浅い息でした。また何か見えにくいものに追われているのに違いありません。ギシッ、ギシッと聞き慣れた音がします。練鉄のベンチの上を歩きながら喋っているのです。三歩で端まで着いてしまうので、すぐ魚のように向きを変えます。履き古したドクターマーチンの音です。彼はときどき鼻をすすり、後ろを気にして小さな声で喋りました。画面につぶれるほど耳を押し付け、思い出して左の耳栓も引っ張り出しました。

「ねえ、聞いている、悠子、聞いてるの」

「聞いてるわ」

 わたしも箱や服を踏みながら部屋の西へと移動します。靴下をひっぱり出して履き、スリッパも履いて、ダンボールの上に座りました。彼らの教義はいまもむかしも信じてはいません。けれど彼の足音がわたしを駆り立てます。電話での通話中はできるだけ足の裏と地面の間に障害を挟む必要がありました。移動するのがいちばん良い。盗聴を完全に防ぐことはできない、と彼らは言いました。だが抵抗しないことは罪への迎合であり、それ即ち罪であると。

「ダメだ、あいつらが追いかけてくるんだよ」

「うん」

「え、これって本当のことなのか」

 Hさんが言って、そして尋ねました。いつもそうです。ベンチの座面にしゃがんでキョロキョロと周りを探る姿が目に浮かびます。

「本当よ。いまわたしに電話してきたのよ、元気にしてる? 今日は何を食べたの?」

 画面に耳を押し付けると、ひげの感触といつも噛んでいるガムの香りがします。彼は震えていました。薄着で飛び出したのでしょう、昔もそうでした、いつもそうです。十五分先のことを予防するのは、愚かなことらしいのです。夜中にベッドを抜け出して、花壇のブロックの上か、アパートの誰かの自転車を勢いよく漕ぎながら、優しい誰か、つまり女のひとに電話して寒さに肩を竦めて戻ってくるのです。ドアの覗き穴まで這い出していたわたしも慌ててベッドに駆け戻ります。背を向けて寝たふりをすると同時にドアが開いて、冷たい足が腿の間に滑り込んできました。わたしの足先は同じように冷たいのですが、そこに足が触れたことはありませんでした。

「わかった、急に電話してごめん」

 フッと思考のスポットライトが落ちたのがわかりました。心がやわらかい暗闇に戻ったのです。わたしは反射的に腕時計を見ました。もうわたしの役目ではありませんが、薬が合っているふうなのは嬉しいことでした。

「ううん、おやすみなさい」

 通話を切ります。彼の足音が聞こえます。いいえ、今それを聞いているのはわたしではない、今の女です。言い出せず、割り切れず、ドアまで這って、駆け戻って。想像するだけです。どんな会話をしていたのか、何の約束をしたのか。声はどんなふうか、髪はどうだろう、おっぱいは。

「わたしじゃないわ」

 と、声に出しました。Hさんはいつでもいまが現実かどうかを誰かに尋ねましたが、わたしは自分に尋ねるのが常でした。Hさんは絶対に認めませんでしたが、意味のなさでは同じです。気休めですが、それは必要なものでした。


 ある時わたしは、冷たい板の廊下で足先を擦り合わせながら、古いお手洗いの扉にもたれていました。悪臭が幽霊のように凝っています。冷たい夜でした。金属の冷たさでした。電話を持って寝床を抜け出したHさんを追いかけて、そこに隠れて聞き耳を立てていました。彼は外に出て、古い井戸の側にいるようでした。恥ずかしいことをしていると思いました。恥ずかしいという気持ちはおなじみでした。わたしは先週、すべての荷物を、下着や生理用品のポーチ、携帯電話や預金通帳の中身まで畳の上に並べられてハシバミ家の女たちに冷たく検分されていました。修行に不要なもの、贅沢すぎるものはみな(ねえ、わかるでしょ、悠子ちゃん)すっと黄色い手を重ねられて、盗られていましたが、このときと同じ恥ずかしさでした。

「そうか」

「うん、アイロンはまだいい、ほんとう?」

「……こっちはとても寒いよ」

「ううん、大丈夫。間違ってない、大丈夫、心配性だね」

 夜に響くHさんの声を吸い込んで、相手を想像し、会話を脳の中に再現します。子供の頃、二日酔いの父親を起こさないようにと、テレビの音量を消してドラマのようすを想像していた頃と同じです。記憶の中では母が、わたしが父を怒らせるのではないかと、膝の上で拳をかためています。

「ねえミキ、これって本当のこと?」

 いつもの言葉が、ずっと近くで聞こえました。目をあげると夜空の手前に、Hさんの冷たい顔がありました。通話はもうとっくに終わっていたのでしょう。月光を受けて輪郭がぎらぎらと輝いていました。ゆっくりと携帯が耳から降ろされて行きます。影と一緒にわたしの血も下がって行きます。太い腕がわたしの首を掴みます。反射的に引いてしまったために指が皮をえぐり(悠子が逃げるからだよ?)わたしは咳を飲み込んで(うるさくって、寝られやしない)転ぶように廊下を走りました。わたしに与えられた部屋は廊下の端でした。記憶が混線しています。父で母でHさんで教祖で男で女で、しらないひとでした。

 部屋に駆け込み障子を閉めると、桟の影を崩さないよう気をつかって薄い布団の中に滑り込みました。何も乱さないことを差し出そうとしていました。すっかり冷えていて体の震えは止まりませんでした。Hさんはわざと踵をつけて大股で歩いてきます。わたしは布団を寄せ集めてさらに逃げ込む穴を探していました。酔った父と全く同じ足音でした。あるいは、過去の音を聞いていたのかも知れません。自分がなんとなく現実にいないような感覚があり、手順だけがあるのです。

 起きてるでしょ、と意地悪な声がすぐ側で聞こえました。Hさんが布団の上に覆いかぶさって、携帯電話をぱちん、ぱちんと開いては閉じ、閉じては開いています。どうしてそういうことをするの、悪いことだよね。わたしは汗びっしょりでした。鏡合わせみたいに感じるの、と布団の中で言いました。言葉は時間稼ぎです。実際のわたしの方は遠く逃げ去って、体と神経だけが取り残されています。恐怖は遠いかわりに焦りがありました。

「あれって無限じゃないんだよ、そう見えるだけなんだって」

「そりゃ、あんたのチンコにも限界はあるだろうけど」

 彼が布団の向こうで爆発するように笑いました。布団ごとわたしを抱きしめてげらげら笑っています。なんで笑うの、と言いましたが、笑うだろうなとも思いました。今日狙ったのは意外性です、それだけ。逃げ果せた、よくやったとどこかで声がします。逃げ去った卑怯なわたしです。そうだ、そうだ、笑いが一番だ、お前は腕力では絶対に勝てない、色仕掛けは深みに嵌まる。

「だから好きだよ」

 わたしは首を横に振り続けます。助けを呼べばこの家の神様とやらが来てしまう気がして、助けはいらないとわざわざ頭で考えねばなりませんでした。わたしを魔女と呼び、女たちに(あなたのためよ、悠子ちゃん)わたしを棒で叩かせた神様です。痩せた魔女だと、妹が俯いて言うのがわかりました。わたしは黙っているHさんの方を見ることができませんでした。しつこい手を体ごと回して避けましたが、葡萄を剥くように押し出されました。どこだか解らないまま踵で蹴りつけました。危険だと信号は出ていましたが、燃えるように苛立っていました。彼の背後に、顔が見えました。たくさんの顔が。お母さんの、お姉さんの、妹の顔が。目がぼうっと白っぽい銀の皿のように光っています。目とは外界の光を受け取るための器官ですが、彼らのそれは逆に発光していました。何も受け取らず、放出していました。妄想ですか? いいえこれはたとえ話です。

 彼は振り返って言いました。

「ああ、ごめんなさい、うるさくして。悠子が逆らうんだよ」


 次の朝、わたしは生まれて初めて、よく考えて本当のことを言いました。するりと口から出るままでない、かといって、言ったことで何がどう変化するのかの計算づくではない、素直な気持ちを言葉にしたのです。竹箒を持って、庭の隅で、他の信者からは顔を背けていました。松山くんはすぐに気取って、その大きな体で、彼らのいるかも知れない窓からわたしを隠してくれました。帰りたい、と言葉にした途端、それはどうしようもない望みとなって心臓を打ちました。新たな目標を持って、自分がゆっくりと眠りから覚めるような気がしました。竹箒のふしで手の皮がまるごと剥がれました。

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