サイレン
まりたつきほ
第1話 とある場所より実家に帰る
追い出されたら死ねばいいと考えながら、玄関の鍵を、ポケットの中で手探りしました。突っ込めばすぐ触れるはずですが、そうでなかったのは意識的に浅く手を入れたためです。ワゴンの後部座席を開ける松山くんの手に、待って、と軽く手を重ねたのは母を刺激したくないといういじけた気持ちのためでした。けれど松山くんの、スローロリス似の潤んだ瞳を見ているうちにあっと気がつき、手を離しました。勘のいい彼は勘のよさを謝って、荷物を玄関に運び入れます。家には饐えたにおいが籠っており、松山くんは気をつかって控えめに口で呼吸をしていました。追い出すもなにもわたしの両親はとっくに死んで、位牌は仏壇の中で仲良く北向きに倒れているのでした。
閉店まぎわにホームセンターとスーパーに駆け込む以外は、ずっと家に籠って泣きました。風呂でも、トイレでも、咀嚼しながらもずっと涙を流し続けていました。食欲はありましたし、よく眠りましたし、シャンプーも好みの銘柄を吟味する欲がありましたが、泣きやむことができないのです。松山くんからは時々電話がありましたが、取ることはできませんでした。着信音が鳴り終わったあとに、気にかけてくれてありがとうとメッセージを送りましたが、返信はありませんでした。
泣くことだけに一年を使った頃にお向かいのおばさんが、市役所で臨時職員を募集していると教えてくれました。毎夜二階の窓をあけて敷居にしゃがみ、地面を見つめていた頃です。やけにアスファルトが魅力的に見えたのです。お向かいの窓にはどんなに影が落ちていたことでしょう。
万歳で送り出され、国道を渡り、増築を重ねた古い建物で道に迷ってから、やっと総務課に履歴書を提出することができました。カウンターには直江くんという丸顔の男の子がおり、話している間じゅうわたしの頬を、蚊でも止まっているように注視します。失礼な話ですが、これだけ世界となじまない彼が働けているのならば、わたしもやっていけると思いました。こぼれ続ける涙をハンカチで押さえていましたが、花粉症でしょう、僕もなんですと総務の佐渡さんが笑ってくれたとき、ぐらついていた一片がだるま落としのように弾き飛ばされて、わたしは受け入れた/受け入れられたと感じました。
洗顔、朝食、夜の洗髪、七時五十分には家を出ること、毎日それだけを守りました。市役所の選挙管理委員会での仕事は単調でしたし、期日まで一ヶ月と日数が決まっていることも救いになりました。重たい体も、巨大ロボットだと思って操縦すればいいのだとわかってきました。ゆっくりと左足に体重を移動させて、次に右足を水平に押し出す、正しい呼吸のためには天井のレバーを引きました。最初の土曜日にしまむらに行き、チノパン二本とシャツを三枚、下着と靴下を三組ずつ買って、制服のようにそればかりを着ていました。ダンボールの中で押し寿司になった、以前の洋服を引っ張り出すちからはありませんでした。
箱だらけの狭い部屋でわたしはいつも横になっていました。大き過ぎるウールのコートを幾重も着せかけられたようにいつでも疲れていました。充電コードでぐるぐる巻きになりながらアイフォンでネットの文字をただ眺めていました。夜十時を過ぎるときまって画面に小さな蛾がぶつかりました。サスペンス映画のように壁いっぱいに黒い影が踊り、わたしは肩甲骨で床をにじって、蚊取り器のスイッチを入れました。加熱された芯が殺しと香りの成分を吸い上げ、拡散して、蛾を落します。そのぽたりという案外水っぽい音を聞いてからまたにじり、スイッチを切りました。一晩に六度オンオフを繰り返した日、ふいに優しい蛾がわたしにつきあってくれているのだと気づくようなこともありました。
一ヶ月後、選挙が終わり市役所がわたしの雇用を更新しました。体力も労働の感覚もずいぶん戻って来て、仕事があるということをありがたく感じはじめていた頃でした。洋服もともだちもすこし増えていました。
総務課で更新の手続きをして、事務所に戻ったときにリーダーの天野さんの声が聞こえました。あーあ、明日からまた職探しか、柿火手さんはいいなあ、なんであの子なんだろう、と。わたしは深呼吸をして、十秒待って、足音をさせました。軽く、けれど真面目なリズムで。
六月の眩しい太陽がアスファルトを白っぽく光らせています。市役所の裏駐車場を抜けて、道を渡って、指示された水道庁舎に向かいます。レンガ風の建物は全体をきらきらした繭に包まれはじめているように見えましたが、真下に来ると、細かいひび割れと白い充填剤のせいとわかりました。眩しさに慣れた目を細めて、うす暗い階段を上がると、両開きのガラス扉の向こうに明るく小さな事務所が見えました。長いカウンターにはテッポウユリの造花が飾られています。外側のレトロな印象とは違って、そこは近代的な白い部屋でした。
突然つよい目眩を感じたのは、昔住んでいたアパートの明るい浴室が、スライドして部屋に重なったためでした。ボウルに氷と缶チューハイを刺して、やたらと呑んだくれていた場所に似ていたのです。ずっと広いのですが、明るさと比率と、それからムスクとダウニーとラベンダーとファーファの配分が奇跡的に揃っていました。記憶の浴室が事務室に合わせて広がり、わたしの体も誘われて大きくなりました。熱い頭が重たくなり、手脚に浮力を感じます。浴槽では、肘をひっかけて何時間でも水面を見ていられました。顔を上げると換気口の網に灰色の埃がもやもやとぶら下がっているのが見えてしまいます。昨日はどこにお泊まりでしたかー? ねえ、帰って来ないつもりなら荷物を実家に送っていい? と、小さな声で呟きました。それでもわたしには大変な勇気でした。本番が来なければいいと思っている、臆病な研修生でした。手はタオルを探りつつ、爪先はぴんと伸ばして、いつの間にか湯舟を出る格好になっていたのを、じわじわ直しながらガラス扉を押しました。妄想はよしましょう、あの浴室はもうないのです。
「はじめまして、今日からお世話になります、柿火手です」
立ち上がるひとびとのシルエットが眩しさに浮かび上がり、蟻塚の群れのように見えました。
水道庁舎の地下室には井戸とそれを汲み上げる巨大なポンプがあり、一階は駐車場と倉庫、三階には巨大なコンピューターがあって市内の水流や水圧を監視しているのだ、と高田係長のくちびるの動きは言っているようでした。わたしはずっと彼女の、口紅の食み出したくちびるを見ていました。左下が見慣れないふうに膨らんでいるので左利きなのかも知れません。声を聞きとろうとはするのですが、上回る機械音が邪魔で殆ど何も聞こえませんでした。何かのサイレンでしょうか?
「―――――――で、――の西に――――――――」
「そ――――、――――――ん」
「ははっ」
けれど職員はごく普通に会話をしています。こんな巨大な工事現場のただ中のような、高架下のような、歯医者の口の中のような音の中で、声だけを聞き取ることも、慣れれば可能なのでしょうか。耳を引っ張ると空いたスペースに音が流れ込んできます。搔き出そうと指を突っ込むと、ほんの一秒、なじみぶかい血流だけが聞こえるのですが、すぐに無効化されて手首ごとばりばりと耳穴に押し込まれました。尖った指が外耳道をいっぱいにし、鼓膜を突き抜け、骨と蝸牛を粉砕してしまうのです。わたしの肘は誰かに掴まれて、ただただ耳の破壊に利用されました。明るい昼間におこる妄想に、わたしは焦っていました。そのうち、音はある深度で、とつぜん気持ちの悪さに変わりました。たっぷりの青インクが濡れた綿に染みるように、気分の悪さが広がり、揺すられ、脳は水の中のトイレットペーパーのように溶けてバラバラに沈んでいきます。
「――――――の?」
「――――」
みんな吐いてしまいたい。カエルのようにひっくり返して押し出したい、と思っていました。内臓が上から順に重くなり、尖った針のような鳥肌が爪先から助走をつけて駆け上がってきました。曖昧な相槌を打ちながらあとじさり、ちょっとお手洗いに、と廊下に出ました。後頭部がちかちか眩しく感じるのに視界は暗いのです。洗面所はすぐそこにありましたが、階段を降り、眩しい裏駐車場を通って本庁舎まで戻ると、前のめりに個室に飛び込みました。俯くと、目から涙というよりは鼻水に近いぬるぬるした体液がこぼれ落ちました。生唾が奥歯の脇からどんどん湧いてきます。
絞るように目を閉じるとそのはずみに、「わたし」がくちびるからこぼれおち白い便器に跳ねました。知覚が落下し、回転したのです。それが実際ではないこと、神経が混乱していることは理解できました。目を開けると、口の端から血の糸が垂れ、ゆらゆらと水面を漂っていました。細い細い血の糸の先に、白い塊がひとつ転げていました。洋式便器に落ちたカンタダを救おうと、血の糸はたわんで下がって行きます。舌で確かめると、右の上奥歯に洞窟じみた穴が空いていました。薄い舌の届かない角に、原住民の家族が慌ててワーワーと隠れます。祈るようにレバーを押し下げると地獄の蓋が開き、暗い穴を白い詰め物が転がり落ち、猛獣のような奔流に追いつかれ、飲み込まれて見えなくなりました。わたしには何が起きているのか、全くわかりませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます