第7話 別ち難い姉妹
「お前……いい加減にしろよ」
「ん?なにが?」
彼女が寝そべるソファの前にある机の上には、レシプロ機の巴戦が立体投影されていた。また何かのゲーム大会の中継を見ながら、カウチポテトと洒落込んでいたとみえる。
「飯の前にスナックを食うなって毎度言ってるだろうが」
「ちょっとだけだよ」
「俺が作ったミートソーススパゲティを残すなんてことするなよ」
俺の両手には昼食用に用意したミートソーススパゲティ2皿がある。久しぶりにソースから作ったが、中々いい出来だ。強めに聞かせたニンニクの香りが食欲をそそる。
「あと、ちゃんと服を着ろ」
「着てるでしょ?」
「あのなぁ、Tシャツとパンツだけってのは『ちゃんと服を着てる』には入らないんだよ」
「はいはい。わかってますよ」
「『はい』は一回で良い。全く……」
そこまでいって、喉まで出かかった親の顔も見てみたいもんだというセリフをぐぐと堪えた。聞くところによると、こいつは孤児で、長い間施設で暮らしていた上、金で『ウサギ穴』に売られた経歴があるらしい。いくら腹立たしいといっても、言って良いことと悪いことがある。それは、わきまえているつもりだった。
また、ここ最近の共同生活のなかで、
俺はそれ以上は何も言わず、2人分のミートソーススパゲティを机の上に配膳した。
「どうだ?美味いだろ」
「まずくはない」
「……まあ、良い。何見てるんだ?」
「ドックファイト1945の試合。ブルーチームのエースがスピットファイアで連続3キルして逆転しそうなんだよ」
「ふむ、なるほど」
机の上では、赤と青に色分けされた極小のプロペラ機が飛び回っている。ちょうど、青い方の1機がすれ違いざまに機銃掃射を受け、煙を上げて墜落していくのがみえた。これで残りは赤が2機、青が1機だ。最後の青い機体が見事なひねり込みで赤い機体の後ろを取った。だが、赤い機体のもう一方がすかさず青い機体の後ろを取り、機銃を浴びかけた。最後の青い機体は翼から火を吹き、しばらくして爆散した。空中に「レッドチームの勝利!」の文字が投影された。
「あーあ、流石に5連続は無理か。負けちゃった」
「好きなチームなのか?」
「いや、負けてた方を応援してただけ……もうお腹いっぱい。残りはあげる」
「だからスナック食うなって言っただろうが……おい、グリーンピースは残すな。食え」
「やだ、お腹いっぱい」
「嘘つけ。豆4つばかり食えないはずがないだろ。お前、偏食だからな。少しずつ食えるものを増やせ」
「……別に良いじゃん。偏食でも。栄養はいくらでも補えるし」
「いろんな飯を食えた方が人生楽しめるぞ?今度は中華でも喰いに行くか」
「奢りなら良いよ」
「いつも奢りだろうが。ああ!食べて直ぐに寝転がるな。胃に悪いし、太るぞ」
「ふーん。はい、痩せたー」
「やめなさい!はしたない。こら、
「興奮した?」
「する訳ないだろ。はあ、全く……」
頭痛がしてくる。まるで、子育てでもしてるみたいだ。
そもそも、なぜ
それがいけなかった。
俺が仕事の用事で外出している間に、
以来、空き部屋を実効支配した
「それでお前、これからどうするつもりだ?一生、俺に寄生して生きていくつもりじゃあるまい?」
「まだ、考えてるんだよ」
「お前に一つ提案がある」
「なに?ハロワでも行けっての?」
「ここで、働かないか?」
「え?」
「正式に犬面探偵事務所の従業員にならないかと言ってるんだ。俺の相棒として働くんだ。住み込みで良い。今、お前が使ってる部屋をやる。家賃はタダ。飯も出る。賃金は出来高だが……どうだ?やらないか?」
「急に言われても……」
「そうか?悪い条件じゃないと思うんだがな。まあ、よく考えてから返事をくれ」
「うーん」
「……やるよ。あたしやる。ずっとこのままじゃいけないしね」
「よしきた。それじゃあ、契約書を良く読んで、サインしてくれ」
俺は机上の
「わかった」
「おいおい、よく読めって言っただろうが。俺がお前を騙す様な契約だったらどうするんだ」
「アンタはそういうことしないよ。わかってるもん」
「そうとも限らんだろ」
「じゃあ、あたしを騙すの?」
「……そういう訳じゃないが。とにかく!契約書はちゃんと読んでからサインしろ。良いな!」
「はいはい」
『はい』は一回で良いとまた注意しようとも思ったが、それをやるといつまでも話が前に進まないので、止めにした。
しばらく、
「本名で書けよ。本名で。じゃないと意味ないだろ」
「あたしもアンタの本名知らないんだけど」
「ここにちゃんと書いてあるだろうが、ちゃんと読めって。イヌイ・ジョージって、な?」
「あ、ホントだ」
本当によく読んだんだろうな?そう思ってると、
「名前だけで良いのか?」
「苗字わかんないんだよね」
こいつは物心ついた頃から孤児院で過ごしていたらしい。当然、姓がわからない事もあるだろう。
「まあ、それならそれで良い。これからは、雇用主と被雇用者としてよろしくな」
俺は握手を交わすために、
「……よろしく」
「さて、早速食休みしたら仕事にかかるぞ。今回の仕事は初恋の人探しだ」
味方が居るというのは心強いものだ。2人分の稼ぎを得る必要はあるが……まあ、何とかなるだろう。そう思い、
俺の
「依頼主はスガ・コージってサラリーマンの男。探してるのは女歌手のアンジェラ・ロベルタ。『アッサンスール・0』というバーで双子の姉のジュリアと歌ってたそうだ。だが3年前、急に姿を消した」
スガから受け取ったアンジェラの
「大人になってから初恋なんて、いくら何でも遅すぎない?」
「恋に遅すぎることなんてないさ……とにかく、スガ自身も相当探したそうなんだが足跡も一切掴めず、現在に至るって訳だ。ハッカーやら
「探せるの?そんなヤツ。死んでるかもよ?」
「死んでたらそれを依頼人に知らせなきゃな。それに、餅は餅屋、人探しなら探偵だ。俺はプロだぜ。秘策があるのさ」
「ふーん、私は何をすればいいの?」
「基本的には、俺のボディガードだな。治安の悪い所にも行くからな。だがまあ、今回は俺のやり方をよく見て、探偵の仕事について理解してもらいたいってのが一番だが」
銃弾さえ避ける
「了解。悪い奴が居たらぶちのめせばいいわけだ」
「その通り」
俺が肯定すると、
「よし、ここだ」
『
「こんなところで何するの?」
「聞き込みだ。まあ百聞は一見に如かずだ」
扉に『営業中』の表示が出ていることを確認し、俺たちは店内に入った。
『
「いらっしゃい。あっ、
バーテンダーのピンキーがバーカウンター越しに俺たちの事を出迎えた。ピンキーはカイゼル髭を生やした痩身の伊達男である。茶目っ気の強い男で、極度のウワサ好きであり、フラスコ・シティ
「おう、ピンキー。久し振り。ちょいとデカい山があってな。来れなかった」
俺が手を振ると、ピンキーもまた手を振り返した。ピンキーが振った右手の小指はその異名の通り、ピンク色に塗装された義指だった。
数年前、ある遊女と心から愛し合ったピンキーは、お互いに小指を送りあい、心中立てをした。いつか、ピンキーが遊女の身を引きとれる大金を稼いだ時まで、お互いを想い続ける。そういう約束だった。しかし、心中立てしてから間もなく、その遊女は消えた。
その時、遊女の捜索を依頼されたのが俺だった。俺は遊女がとある企業の取締役と駆け落ちしており、ピンキーが受け取った小指も遊女本人のものではない事を突き止めた。ピンキーとはその頃からの縁だった。
「あれっ、そっちのお嬢さんは?」
ピンキーは首を傾げていった。
「新しく雇った助手だ。あー、
不愛想に立つ
「……どうも」
どうやら意外にも人見知りな部分があるらしい。彼女はピンキーを警戒しているようだ。今回、彼女をここに連れてきたのは俺の相棒として、情報提供者のピンキーと顔合わせするという側面もあったのだが……年頃の娘というのはやはり気難しい。
「
ピンキーは目を見開いた。
「まあ、そうだな」
「この前カチコミがあって壊滅したって話だろ?まさか、デカい山って……」
「守秘義務がある」
ピンキーは中々感が良い。だからこそ頼りになるのだが。
「……ああ!そりゃそうか。まあいいや、座ってくれ。お嬢さんも」
ピンキーはハッとして、俺と
「ウイスキーをくれ。いつものを。お前はどうする?ここはソフトドリンクもあるぞ」
「コーラを」
「あいよ」
ピンキーは手慣れた手つきで、オンザロックスを作り、足つきグラスにクラッシュアイスとコーラを注いで、俺たちの目の前に置いた。
「どうぞ」
ピンキーはウインクを飛ばした。
家で飲む合成ウイスキーよりは、上等なウイスキーを一口飲む。メガコーン・ウイスキー特有のストレートなアルコール感、大味な甘さとコク。一切、熟成期間を設けない為に、無色透明で香りも少ない。よく言えばクリアな、悪く言えば深みのない酒だが、俺は好きな酒だった。
「実はな、ちょっと聞きたい事があってきたんだ。アンジェラ・ロベルタって女を知らないか?2~3年前にアッサンスール・0って店で双子の姉のジュリアと歌ってたらしいんだが」
俺は携帯端末でアンジェラの
「アッサンスール・0か……となりのキャットタワー・ビルにあったバーだよな?ちょっと前に潰れた」
ピンキーは首を傾げ、自分のカイザル髭の先端を撫でていった。
「ああそうだ。行ったことあるか?」
「いや、知ってるのは名前だけだ。昔のオーナーが密輸して飼ってたワニガメに指を食われたって話が――それはいいや。あそこらへんの事なら
「あの店か、ありがとう。恩に着る」
「また来てくれよ。それが一番の恩返しだ。お嬢ちゃんもな」
ピンキーはウインクを飛ばした。
「アレが秘策?なんであんなことしなきゃいけないの?」
「そうだ、まずは聞き込みだ。探偵は足で稼ぐもんだからな。」
「アンタの鼻でパパッとどうにかできないの?」
「そういう時もあるが……大抵はこうやって人に聞いて回るのが探偵の仕事だ。今のご時世、人を探すってなら大体はハッカーの仕事だ。だが、ハッカーは全知全能じゃない。現実世界の情報が全部、電子世界上にあるわけじゃないからな。生身の人間しか知らない事もある。このご時世に人に直接話を聞くなんて盲点的だろ?そこにニッチがあるんだ。人が嫌がることだから需要があるのさ」
俺の
「ふーん、なるほどね。で、さっき一杯ひっかけたのは何なのさ。話を聞くだけなら電話でもいいし、酒なんて注文しなくていいでしょ?」
確かに、意を決して始めた初仕事で、上司がいきなり昼間から飲み始めたら相当不快だろう。
「情報を聞いておいて、タダってわけにもいかないだろう。人との繋がりが俺たちの最大の強みだ。自分が知らないことを知ってる人間と繋がりがあれば、それはもう『知ってる』ってことにほとんど等しい。何事も俺一人では限界がある。だから、頼みを聞いてくれる知り合いが必要なんだ。できるだけ沢山な」
そういいながら、俺は口の中に苦いモノを感じていた。人との繋がりを最重要視していると自分ではいいながら、
「まあいいけど、酔っててまともに仕事できるの?」
「俺は酒に酔わない。肝機能を強化してあるからな。解毒能は素の肝臓の1万倍以上。酔ったとしても一瞬だけだ」
一応、解毒能を抑える薬を飲めば、無理やり酔えない事もない。昔に試したことはあるが、最近はそこまでして酔いたいとは思わなかった。
「えっ、じゃあなんで毎日、晩酌なんてしてるの?」
「酔うだけが酒じゃない……まあ、生身だった時の習慣の名残ってのはあるかな」
「ふーん、そういうものなんだ」
長い間、一人で仕事をしていたために、自分流の仕事の手法について他人がどう思うかという客観的な視点が欠けていたようだ。これは、反省しなくては。
「すまん、俺が悪かった。説明不足だったな」
俺は頭を下げた。こういう時は素直に謝るに限る。
「まあいいよ、仕事をしよう。あの店でしょ?」
それから俺たちは聞き込みを続けた。
白鳥の水たまりの
「あー、ロベルタ姉妹の事かい?それなら『クラインの壺亭』っていう、
「本当か?」
「嘘ついてどうすんのさ」
「ありがとう。
俺たちはナタリーに『クラインの壺亭』の場所を教わり、そこへ向かった。
「まさか『溝』とはな」
俺たちは『溝』と呼ばれる
廃材溜まり丘の頂上はここからでは見えなかった。さらに視点を上げると、超高層建築物の狭間に一筋だけ夜空が見えた。
「こんな所にもバーがあるんだ」
そもそも、『溝』は、積み木を積み上げる様に上方再開発が行われた
「行くか、足元に気を付けろよ」
俺たちは踏みしめられた廃材の坂を注意深く歩き始めた。意外にも人通りはあるらしい。俺が
「
「わかってる」
俺たちが歩みを止めると、
「てめえら、見かけねえ顔だな」
「迷っちまったのか……ここらは俺たちの縄張りだぜ」
「ここを通りたきゃ、出すもん出して貰わねえとなあ」
「通行料を払いな!」
リーダー格らしきモヒカン頭の男が
「
俺がそういい終わる前に、
「ぐああっ!」
チタン合金の骨格が砕け散り、人工筋肉がはじけ飛んだ。片足を失った男は廃材の坂を転げ落ちていった。
「コイツ!」
モヒカン頭が
「あああっ!」
男の悲鳴が響いた。
「このクソ――」
呆気に取られていた電動釘打ち機を持った男が釘を打ち出す前に、俺はその後頭部に
「急いでるんだ、通っていいかい?」
俺はわざとらしく撃鉄を起こし直した。
「えっええ、構いませんぜ!旦那」
男は電動釘打ち機を落とし、両手を上げていった。男の額から一筋、汗が流れ落ちた。
「
「次会う時も敵とは限らんだろ?」
そういって肩をすくめてみせると、彼女は複雑そうな顔をした後、黙って廃材の坂を上り始めた。
「ここが『クラインの壺亭』か……?」
廃材の坂を登っていくと、『クラインの壺亭』と書かれた電子看板があり、その横にどこから持ってきたのか「非常口」と赤字で書かれた鉄扉が廃材の坂にポンと置かれていた。
「ま、入ってみよう」
扉の中に入ると、その向こうは別世界だった。廃材の中にあるとは思えない程、見事なジャズ・バーだった。30席ほどある席は、
「あれがアンジェラ・ロベルタか……どっちかわからんな」
双子はスガから受け取ったアンジェラの
「これで、依頼は達成?」
「いや、本人かどうか一応確認しよう」
双子が歌い終わり、バーが拍手の渦に包まれた。双子は惜しまれつつステージからはけていった。
「楽屋に行こう」
俺は
扉の前には、
「あの私、ロベルタ姉妹のファンでして……楽屋に入れませんか」
「関係者以外は入れられん」
大男は低い声で答えた。
「まあまあ、そういわず。サインだけですから!」
俺は瞬間的に大男に近づき、彼の上着のポケットに純金トークンを入れた。
「5分だ」
大男は退き、扉を開けた。
「ねえ、探偵的にワイロってありなの?」
楽屋に続く廊下の途中で
「誰も損はしてないし。俺たちも悪い事をするわけじゃない。正統な
「ふーん」
彼女は後ろ手を組み、こちらを片眉を上げて見てきたが、俺はあえてそちらを見なかった。そんなことをしていると楽屋の扉の前に着いた。
俺は扉を二回、拳の裏で叩いた。
「どうぞー」
中から陽気な声が帰ってきた。
「失礼します」
俺たちは扉を開けて楽屋の中に入った。楽屋の中には化粧台がずらっと並び、さまざまな衣装が吊られていた。数え切れないほどの香水と化粧品のニオイがした。
双子たちは既にドレスを脱いでおり、下着姿になって化粧を落としていた。
「あー、あなたがアンジェラ・ロベルタ?それとも……」
「懐かしい名前ね」
「どちらでもあって、どちらでもないの」
双子たちは同時に振り向いていった。こうして見ても全く見分けが付かない、まるで鏡合わせを見ているかのようだ。
「どういう意味です?」
「私たち、身体を
「ほら見て。よく見ると線があるのがわかるでしょ?」
右に座っている方が、自分の腕を突き出し、肘の辺りをなぞった。確かによく見ると、皮膚にうっすらと筋があるのがわかった。
「右手と左手、右足と左足、右脳と左脳。身体のあらゆる部分を切って、入れ替えて、繋ぎ直したの」
「つまり、私たち二人は半分アンジェラ・ロベルタで、半分ジュリア・ロベルタなの」
双子は同時にウインクした。
「失礼ですが……なぜそんなことを?」
「私たち、ずっとひとつになりたかったの」
「アンジェラとジュリア、なんかじゃなくて、二人とも均一で同質なロベルタ姉妹になりたかったの」
双子は全く同じ笑みを浮かべて、微笑んだ。
「……なるほど」
俺はうなずいた。常軌を逸しているが、拒絶反応のない双子ならではの愛情表現だだ。思わず感心してしまう。
「じゃあ、はいこれ。楽屋に来たって事は、サインでしょう?」
左にいる方がさらさらと色紙にサインを書いて渡して来た。二人とも均一で同質ならどちらが書いても一緒だということなのだろう。
「また、私たちの歌を聞きに来てね」
ロベルタ姉妹が投げキッスを飛ばした。
「あたし、結構びっくりしてるんだけど。割とこういうのって多いの?」
家に帰る途中、俺の
「ああ、割と良くある。依頼人の捜索人がそもそも存在しなかったとかな……この街で自己を精緻に定義するのは難しいんだ」
「これ、本人を見つけたって言えるのかな?」
彼女は自分のパーカーの紐の先をいじりながらいった。
「契約上はそうなるな。この場合は第二十三免責事項が適応になる。まあ、相手が納得してすぐ金を出すかは……半々だな」
「こんなに苦労したのに」
彼女は
「まあ、なんとかするさ。今日は良くやってくれたな。助かったよ。給料は来月の15日に、今月末までの仕事分と合わせてお前の
「わかった」
私と
「おやすみ」
「ああ、おやすみ。良い夢を」
あたしは正式に自分のものになった部屋を見て感慨深く思った。机の上には
思わず、ベッドに飛び込む。元々つけてあったピンクの水玉模様のベットシーツはいささか私には可愛すぎる。今度、給料日が来たら買い換えよう。
水玉模様のシーツを撫でながら、あたしはこのベッドで生まれて初めて熟睡したのだと思いだした。『ウサギ穴』でも、その前の孤児院でも、誰かに見られているという緊張感が常にあり、眠りは浅かった。
あたしはどうしてもこの部屋を手放したくなくなってしまった。その為に少々強引な手を使ったが、結果的には最も理想的な展開に落ち着いた。
今日の昼に書いた契約書のことを思いだす。契約書などなくとも、選択肢のないあたしを働かせることなど簡単だろうに、
共同生活の中でも、こちらとは常に一定の距離を取り、必要以上にあたしに干渉してくることもなかった。だが、無関心とはまた違う。時々、マナーだとかそういったことについてうるさい事もあったが、それはあたしの事を案じているが故の事だとすぐにわかった。
「親って、あんな感じなのかな」
あたしは机の引き出しの中にしまった2つの冷凍チキンブリトーの袋のことを思った。ここに初めて来た夜、
ふと、壁に掛けられた時計をみる。明日もまた仕事があるらしい。早く寝ておかなくては。
「毎日、こうなら良いのにな」
あたしは明日の仕事の事を思い、眼を閉じた。
独りで寝るのにも慣れたキングサイズのベッドに横たわり、今まさに寝ようとした瞬間、枕元に置いていた携帯端末が振動した。電話だ。相手の名前を確認すると、
「やあ
応答すると、携帯端末から
「おお、
「例のお嬢ちゃんか」
「もう、知ってるのか。流石だな」
流石の地獄耳だ。
「ああ、もちろん。君が
「なんだそりゃ。尾ひれが付きすぎだろ……まあ、それはいい。お前からわざわざ連絡してきたって事は、なにか本題があるんだろ?」
「ああ、その通りだ。君にはこの情報を知らせる必要があると思ってね」
「情報料はまけてくれよ」
俺は笑いながらいった。
「いや、これはタダで良い」
「タダ?」
俺は思わず聞き返した。
「君の
「……ヨハンがか」
ヨハン。俺の警官時代の元相棒。5年前、姿を消したリサの実兄。死んだのだとばかり思っていたが、他の街に行っていたとは。
「教えてくれて恩に着る。
「くれぐれも気を付けろよ。
俺はベッドボードの引き出しを開けた。そこには短く銃身を切り詰められた垂直二連式ショットガンと実包の入った箱があった。そのソウドオフショットガンの銃身には
「決着をつけよう、ヨハン。俺たちの復讐に」
俺は箱から2発の弾を取り出し、ショットガンに込めた。
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