第6話 真鍮飛蝗

「よっ、と」

 高層ビルの外壁に取り付き、窓枠に腰を下ろして下界を見下ろす。休日の夜だからだろうか、空中の仮想道路の往来が激しい。浮遊自動車ホバー・カーのライトによって、ビルの谷間に光の流れストリームが作られ、いつもより強く輝いているのが見える。この輝く川は超高層建築物の合間を縫って流れ、まるで血流のようにこの街中を巡っているのだ。

 浮遊自動車ホバー・カー広告用立体映像アド・ホロが生み出す光の乱舞を、地上数百メートルの高みから見下ろすのは気分が良い。精神加速剤アクセルの顆粒よりも小さく見える下界の人々をなんとなく眺めていると、腰のピップバックが振動するのを感じた。携帯端末に通信が入ったようだ。無視しようとしたが、いつまでたっても振動が止まない。やむなくバックから携帯端末を取り出して応答することにした。

真鍮飛蝗ブラス・ホッパー聞こえるか」

 不機嫌そうな声が聞こえる。世話役の芋虫キャタピラーだ。

「……聞こえてるよ」

「ならすぐ返事をしろ」

「したでしょ?」

「全く、ああ言えばこう言う……くだらないこと言ってる場合じゃない。伝達がある。女王クイーンによると、アホな私立探偵が俺たち『ウサギ穴』の事を嗅ぎまわってるらしい」

「私立探偵?」

 思わず首を傾げてしまう。このフラスコ・シティの裏社会において、『ウサギ穴』に干渉することは死を意味する。ただの私立探偵が『ウサギ穴』にちょっかいをかけているのだとしたら相当なアホか命知らずだろう。バックに企業がいる可能性もあるが、それでもだ。

「なんか犬面ドッグフェイスとかいうらしいぞ。重身体置換者ヘビィ・サイボーグで、マジで顔が犬みたいになってるらしい。見たことあるか?」

「いや?そんな奴見た事ないよ」

 この街には目や腕の数を増やしてみたり、触腕や翼を足してみたりする多種多様な重身体拡張者ヘビィ・サイボーグが居るが、犬みたいな顔のヤツが自分で犬面ドッグフェイスなどと名乗っている例などみたことはない。そんな面白いやつを見かけたら絶対に記憶に残っているはずだ。一度くらいは顔を合わせてみたいものだ。

「そうか、まあいい。ああ、それと女王クイーンがお前に話したい事があるってよ。早めに帰ってこい。くれぐれも尾行とかされない様に気を付けろよ。お前、見た目派手だからな。じゃあな」

 芋虫キャタピラーは通話を切った。

 見た目が派手か。窓に映る自分の姿を見る。暗い赤毛のボブヘアの上に黒のトップハット。寝不足で血色の悪い顔、目の下にはくっきりと隈がある。服は流行りのスチームパンク・ゴス。まあ、この辺りは普通だ。上半身だけなら学生と言っても通るだろう。だが、腰から下は明らかな異形だった。

 対重身体拡張者アンチ・ヘビィサイボーグ戦闘特化型アサルトタイプの脚部型拡張体サイバネ真鍮飛蝗ブラス・ホッパー。どことなく昆虫的なシルエットに生身の胴回り程もある大腿、黄金きん色に輝く装甲板、ピンヒールのような踵には杭打機パイルドライバー機構・システムが付いている。自己修復セラミック製骨格フレームを最新型の流体人工筋肉が満たしている軍用レベルの逸品。蹴りと同時に、不可U破壊B物質M製の杭を電磁加速させて撃ち込む踵杭ヒールパイルを発動させれば、戦車の正面装甲に風穴を開けられるという話だ。試したことは無いが。

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパー、これが『ウサギ穴』があたしに施した祝福であり、呪いでもあった。まあ、確かに派手ではある。だがしかし、この真鍮飛蝗ブラス・ホッパーと同じ名を持つあたしが尾行されるなんてことはあり得ないことだ。

芋虫キャタピラーめ。舐めやがって」

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパーを変形させる。膝関節が逆を向き、大腿が伸びる。両足が飛蝗バッタのごとき逆関節へとその姿を変えていく。

 B級映画に登場する怪物のそれのような両足に力を込め、私は真夜中の中天へと跳躍した。ビルの外壁を蹴り、また他のビルの外壁へと跳ぶ。壁蹴りを繰り返し、高度を仮想道路へと調節する。外壁に設置された広告用立体映像アド・ホロ投影装置プロジェクターの上で踏み切って、走行中の無人トラックの荷台に着地する。真鍮飛蝗ブラス・ホッパーによる立体的な高速移動には、最新の浮遊二輪車ホバー・バイクでも追随するのは不可能だ。あたしがしけた私立探偵程度に尾行されることなどあり得ないのだ。

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパー磁気錨マグネティック・アンカーを作動させて、振り落とされない様に無人トラックに両足を固定し、座った。高層ビルの窓からこぼれる光と広告用立体映像アド・ホロのきらめきが尾を引いて帯になり、後ろへと流れて行く。後方から来た自動運転オート・ドライブ浮遊自動車ホバー・カーがこの無人トラックと束の間の間並走し、追い抜き、どこかへと飛び去って行く。この無人トラックはどうやら一番近い『ウサギ穴』の入り口とは別の方向に向かっているようだが、まあいい。女王クイーンが直接連絡せずに、芋虫キャタピラーを介して連絡してきたということは、どうせ大した用事ではないのだろう。念のために少し遠回りするくらいどうということはない。


 無人トラックの上で寛ぎながらしばらく光の流れストリームを楽しんでいると、全鏡面仕上げの浮遊自動車ホバー・カーが車線変更と追い越しを繰り返し、少しずつこちらに近付いて来ている事に気づいた。自動運転オート・ドライブではない。明らかに意思のある動き。あえて気付かないフリをし、相手が近づいてくるのを待った。すると、全鏡面仕上げの浮遊自動車ホバー・カーはこちらの無人トラックの真後ろに付いた。それを見て、思わず鼻で笑ってしまった。相手は尾行がよっぽど下手らしい。バレバレだ。さて、どうするか。もう少し気付かないフリをして相手の出方を見てみるか……そう考え、チラリと後ろを横目に見た。その瞬間、全鏡面仕上げの浮遊自動車ホバー・カーのフロントガラスが外部からの光の反射率を変化させ、鏡面から通常のガラスへと変わった。

 後方の浮遊自動車ホバー・カーの運転席には重身体拡張者ヘビィ・サイボーグの男が一人座っていた。カーキ色のトレンチコートに同色のハンチング帽。その男の顔は長い鼻口部マズルと、上方に伸びる二等辺三角形の耳を持っており、まるで犬のようだった。金属とプラスチックで出来た犬面ドッグフェイス。間違いない。こいつが例の探偵なのだ。だが、その男の姿を見ることができたのは一瞬だった。すぐにフロントガラスは鏡面に戻り、浮遊自動車ホバー・カーは素早く右折して細い路地へと飛び込んだ。

「くそっ」

 意表を突かれたことで反応が遅れ、追跡することができなかった。あっという間に遠方へと去って行く浮遊自動車ホバー・カーを見て、あたしは舌打ちした。どう考えても、犬面ドッグフェイスが姿を晒したのはわざとだろう。こちらを監視しているという警告、あるいは挑発か。

「舐めやがって……」

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパー磁気錨マグネティック・アンカーを停止させ、無人トラックから跳び降りた。身体が重力に引かれて自由落下を始めたところで、飛揚翅リフター・ウイングを展開させる。真鍮飛蝗ブラス・ホッパーの腰の当たりから葉脈めいた電極が蔓を伸ばすように広がり、スカートを押し広げる。飛揚翅リフター・ウイングが生み出すイオン風はそれ単体で人間を飛ばすような出力を持たないが、空中での軌道修正や落下速度を着地可能な域まで落とすことはできる。あたしは浮遊自動車ホバー・カーの群れを躱し、仮想道路を抜け、さらに落下し、中心街セントラルの最下層を目指した。


 『溝』と、無法者たちが呼ぶ最下層の路地へと着地すると、轟音が響き、路面に蜘蛛の巣状のひび割れが広がった。それに気づいて、拡張体サイバネのジャンク売りたちが興味ありげに近づいてきたが、こちらが彼らをにらみつけるとどこかに散っていった。

 フラスコ・シティが作られて以来、中心街セントラルでは常に上へ上へと構造物が積み立てられてきた。過去を顧みぬ闇雲な上方再開発。故に今や最下層は、そのほとんどがスラムと化し、企業も手を付けない捨てられた地区となっている。このフラスコ・シティで社会から爪弾きになったもの達の巣窟といえば、廃プルンブム住宅地と中心街セントラル最下層が二大巨頭だ。最下層で浮遊自動車ホバー・カーを見かけることはない。巨大な超高層建築物を支える為の基礎と基礎との間隙には浮遊自動車ホバー・カーが入れるような余地はないからだが、それだけではない。乗り物も手に入れられず自分の足で歩かざるを得ない人々だけが最下層に留まるのだ。汚水の底に泥が沈むように、この最下層にはろくでもないものだけが淀んでいる。

 ここであれば犬面ドッグフェイスの尾行を完全にかわすことができるはずだ。浮遊自動車ホバー・カーではここに立ち入ることはできないし、生身でうろつくのはリスクが高い。私立探偵など、5分もしないうちにジャンクとしてバラ売りされてしまうことだろう。しかも、『溝』には市警や企業警察の偵察ドローン対策として上方に向けた指向性ジャミング装置まで設置されている。『溝』は被追跡者の楽園だった。

 『溝』は常に湿っぽく、カビのすえた臭いがする。だが、ここには意外にも人通りが多い。光の当たる所には出せない品の取引を求めて無法者たちが集まるからだ。路地の両脇にはズラリと露店がならび、それぞれの店が何らかの違法な物品を扱っている。右腕をカニのハサミのような違法改造拡張体サイバネに置換した男が市軍の放出品を求めてジャンク売りと交渉していたり、自分の皮膚を全て蛇のものに張り替えた女がパイプを吸いながら電気蛇を売っていたりする。それ横目に見ながら人ごみをかき分け、路地を進んでいく。

 目指すのは旧下水道へ繋がるマンホールだ。『ウサギ穴』に帰る為には様々な方法があるが、ここからならば放棄された旧下水道を通るのが一番近い。旧下水道の入り口を知るものは少ないし、旧下水道に入ってしまえば犬面ドッグフェイスが追跡することも難しくなるだろう。

 しばらく、通りを進むと廃材でできた小屋があるのが見えた。

「あそこだ」

 小屋の全周には黒いボロ布が被せてあり、中が見えない様になっていた。『売卜ばいぼく』と書かれた看板の下にあるボロ布の隙間から内部に入ると、易者の男が机の向こうに座っているのが見えた。机には滑らかな手触りの黒い布が掛けてあり、その上には風水羅盤が置いてあった。小屋の中は、天井に吊るされたランプだけが唯一の光源であり、薄暗かった。

「座ってください」

 易者は柔らかい笑みを浮かべて、机の手前にある椅子に座る様に右手で促した。あたしは椅子に座った。小屋の中は何かの香が焚いてあるようで、甘い匂いがした。

「探し物がある。占ってくれ」

「ふむ、その探し物とはどういったもので?」

 易者は首をかしげていった。

「キノコのキーホルダーだよ。真っ赤な傘に白い斑点がついてるやつ。大きさはヒヨコ豆くらいかな。ここに付いてたんだ」

 あたしは携帯端末を見せた。

「随分小さいですね」

「だからなくしたんだ」

 あたしは決まり通りに右の口角だけを上げて微笑んだ。

「探し物は意外と身近にあるものかもしれませんよ?例えば、足元とか」

 易者は机を自分の方に引いた。机の下に隠れていたマンホールが露わになった。

「……白い鰐に気を付けろよ。真鍮飛蝗ブラス・ホッパー

 易者は冗談めかした口調でいい、マンホールの蓋を開けた。あたしはマンホールの中に入り、旧下水道へと降りて行く梯子につかまった。

「わかったよ。どうも、ケイド」

 あたしが礼をいうと、易者に化けていたケイドはマンホールの蓋を閉じた。


 旧下水道の中にはもう汚水は入らず、雨水だけが流れている……事になっている。だが、『溝』の住人の生活排水が時折流れ込んで来るらしく、衛生的とはいえない。生体拡張バイオ・オーグメントによって暗視能力を得た瞳で、ルートから外れぬよう、迷路の様に入り組んだ旧下水道を進んで行く。旧下水道で最も危険なのは汚水ではない。『ウサギ穴』が設置した防衛システムだ。この防衛システムは特定の区域に足を踏み入れたものを自動的に攻撃し、その配置場所は毎日変わる。安全なルートを知らぬ『ウサギ穴』以外の人間が旧下水道に迷い込んだなら、一瞬で汚水の仲間入りを果たすだろう。

 念のため、犬面ドッグフェイスにつけられていないか度々振り返ったり、足音に耳を澄ませる。この旧下水道には自分以外の人間の存在は感じられない。まあ、『溝』から旧下水道に入る唯一の出入り口であるマンホールはケイドが守っているし、問題ないだろう。

 ルートに従ってしばらく歩くと、行き止まりにぶつかった。天井が崩落しており、その先には進めない様に見える。だがそれに構わず突き進むと、光学的に偽装された立体映像ホログラムの瓦礫の山の先に、旧下水道の通路を丸々塞ぐ様に金属製の防壁があるのがわかる。防壁の前には足跡を示すマークがあり、その上に立った。

真鍮飛蝗ブラス・ホッパーだ。帰ってきたぞ」

「承認完了。お帰りなさい」

 虹彩認証が済むと、どこからともなく合成音声が響き、防壁に取り付けられた扉が開いた。『ウサギ穴』のアジトは旧下水道の一部を改築したもので、長い通路が複雑に入り組んだ形をしている。

「遅かったじゃないか」

 扉の中に入るとそこには不機嫌そうな顔をした芋虫キャタピラーが伏せていた。

「ふん、芋虫キャタピラーか」

芋虫キャタピラーか、じゃない。早めに帰れって言ったろうが。女王クイーンがお待ちだ」

 芋虫キャタピラーは手も足もないその円筒形の体をコブラのように反り立たせていった。

 彼はもともと「穴喰い芋虫」の異名を取る凄腕のハッカーだったという。だが、ある日付け上がった彼は腕試しのつもりで『ウサギ穴』へとハッキングを仕掛けた。それが運の尽きだった。『ウサギ穴』に逆探知され、捕らえられた彼は、その名の通りの芋虫型の義体へと強制的に押し込められ、こき使われているという訳だ。顔だけが人間の巨大な芋虫。それが芋虫キャタピラーだった。

「例の犬につけられたのをまくのに時間が掛かったんだよ」

「なんだと?ちゃんとまいたのか?」

 芋虫キャタピラーは怪訝な顔でいった。

「だからそう言ってる。女王の所に行ってくるから。じゃあな」

「お、おい待て!くそっ」

 芋虫がその身体を波打たせてこちらに追いすがろうとしたが、その歩みはあまりにも遅く、こちらに追いつくことはできそうもなかった。


 『ウサギ穴』で謁見室と呼ばれる女王の居室に入り、あたしは跪いた。謁見室は全ての調度品が赤で統一されている。壁紙も赤、ベルベットの絨毯も赤、天蓋も赤、女王が《クイーン》座る巨大なベッドも赤だ。

女王クイーン、御前に」

「顔を上げなさい」

 部屋に野太い声が響いた。顔を上げるとそこには、機械と肉でできた巨大な人面カエルの様な人影があった。この人こそ『ウサギ穴』の主人、赤の女王レッド・クイーンだった。

 昔はこんな風ではなかった。孤児院に居たあたしを引き取り、身体拡張手術を施した頃は。胡散臭く、仰々しい喋り方は同じだが、こんな醜い姿ではなかった。あの頃はまだ気品があった。美を追い求め、迷走し、数え切れないほどの機械置換サイバネ化と生体拡張バイオ・オーグメントを繰り返した結果、彼の身体は生体と機械の醜いモザイクと化していた。

 精神も身体と同じように歪んでいった。いつからか、とある童話に固執するようになり、赤の女王レッド・クイーンを名乗るようになった。肥大したその身体に合う様にあつらえられた豪奢な真紅のドレスは、むしろ滑稽ですらあった。

「子ウサギちゃん。頼みたいことがあるの。この前連れてきた新人ちゃんの面倒を見て欲しいのよね」

 女王クイーンは頬杖を突きながらいった。

 『ウサギ穴』の主な「仕事」は、買うなり、誘拐するなりした人間に身体拡張手術を施して付加価値をつけ、高価で売ることである。稀に、女王クイーンが気に入った人間は売らずに手元に置いておくことがあった。女王クイーンは、しばらく前にさらって来た少女をいたく気に入ったらしく、彼女も手元に置いておく事にしたようだ。

「まだ手術はしないのですか?もう半年になるはずですが」

「あの子には特別な拡張体ドレスを用意したいと思ってるの。制作にいつもより時間が掛かっちゃってるのよ。本人の調整も拡張体ドレスが完成しないうちには手がつけられないし……」

「それで……あたしに子守をしろと?」

 今回、女王クイーンが気に入った少女は反抗期真っ只中のはねっ返りであり、誘拐された立場でありながら高圧的な態度を崩すこともない難物であった。少しでも気に入らないことがあればひたすら駄々をこねる始末だった。

 さらわれてからそれほど日が経たない頃は、私は大企業の令嬢でありお前たちなどすぐに父に始末されるのだと一日中叫んでいた。最近は少し静かになったはずだが、女王クイーンがこうして頼んでくる辺り、なにかトラブルがあったのだろう。

「歳も近いし、良い友達になれると思うのよね。拡張体ドレスを活かす為には精神状態も大事だから」

「……仰せのままに」

 あたしは女王クイーン真鍮飛蝗ブラス・ホッパーの自爆権限を握られている。故に、究極的には女王クイーンの言うことには逆らえないのだ。あたしは意に反する命令にしぶしぶ従う事にした。いつもの様に。


 女王クイーンの部屋から出て、食堂に向かう通路の途中で戦闘員たちを引き連れたジャックに話しかけられた。ジャックとその部下たちは皆、中世騎士甲冑めいた強化服パワードスーツに身を包んでいた。

「よお、真鍮飛蝗ブラス・ホッパー。時間取らせてすまないが、犬面ドッグフェイスについて聞かせてくれ。女王クイーンがヤツを殺ってこいって言っててさ。少しでも多く情報が欲しい」

 ジャックは愛用のプラズマ・ブラスターを撫でながらいった。この『ウサギ穴』では女王クイーン嗜好フェティシズムによって、個々人の使える武器が決まっている。あたしは真鍮飛蝗ブラス・ホッパー以外の武装を許されていないが、ジャックたちは『トランプ兵』として銃器等で武装することを許されていた。

「別にいいけど。顔を見たのも一瞬だったから……」

 犬面ドッグフェイスの事をジャックに伝えようとしたその時、通路の換気扇からピンク色の煙のようなものが逆流してきているのが見えた。

「なんだアレ」

「アレってなんだ……アレか。芋虫キャタピラーがまた何か変なモク吸ってんのかな。仕方のない奴だ」

 ジャックはため息をついた。しかし、ジャックの予想に反してその煙は尋常のものではなかった。換気扇から流れ出たピンクの煙は集まり、やがて意味ある形を取った。犬だ。

「まさか……霧犬ヴェイパードッグ

 ジャックは息を呑んだ。

 同じといっても、霧犬ヴェイパードッグ犬面ドッグフェイスに比べて、遥かに有名であった。地獄の猟犬ヘル・ハウンド、不定形の珊瑚色の死神コーラルピンク・デス、生ける都市伝説アーバン・フォークロア。それが、不死身の傭兵として名を馳せる珊瑚色霧犬コーラルピンク・ヴェイパードッグだった。

「抵抗は無意味だ。投降しろ」

 霧犬ヴェイパードッグは言葉を発した。見た目にそぐわぬテノールの声が良く響いた。霧犬ヴェイパードッグが発話する間、彼の姿はノイズが走るように不明瞭になった。

「襲撃だ!」

 ジャックが叫んだ。戦闘員たちが一斉に銃を構え、霧犬ヴェイパードッグを攻撃した。超音速の弾丸やレーザー、プラズマ塊が霧犬ヴェイパードッグに向かって射出された。だが、虚しくもその全てが彼の身体をすり抜けていった。標的を素通りしたプラズマ塊が壁に当たり、大爆発を起こした。霧犬ヴェイパードッグの姿が僅かに揺れる。強烈な爆風がこちらにまで届き、あたしは帽子を押さえた。

「抵抗は、無意味だ」

 霧犬ヴェイパードッグの身体が形を失い、珊瑚色の霧が拡散した。次の瞬間、珊瑚色の霧はアメーバが偽足を伸ばすように変形し、戦闘員へと襲い掛かった。

「退避、退避!」

 ジャックが戦闘員たちに指示を出す。戦闘員たちは踵を返して逃げ出した。だが、一番距離の近かった戦闘員は逃げ切れず、霧の偽足に捕まった。

「ちくしょう!」

 戦闘員は腕を振り回し、光線銃レイガンを乱射した。天井に向かって放たれた高出力レーザーによって配線ケーブルが切断され、照明が融解したが、霧は何事もないように戦闘員にまとわりついたままだった。

「たすけ……」

 霧が戦闘員の全身を繭のように包み込んだ途端、戦闘員は急に大人しくなり、身体は力を失って床に倒れた。断末魔の叫びを上げることもできなかったようだ。

 戦闘特化型アサルトタイプ重身体拡張者ヘビィサイボーグが一瞬で無力化されたのを見たあたしは、真鍮飛蝗ブラス・ホッパーをスプリント形態に変化させ、戦闘員たちと一緒に逃げ出した。

 霧犬ヴェイパードッグがあたしたちが想像もできないような最新鋭の技術を使っているのは間違いない。恐らく、最近どこぞの企業が全球超構造体グローバル・メガ・ストラクチャーから『発掘』したものだろう。人知の及ばぬ機械仕掛けの神の遺物から得た技術テック。敵うはずがない。

「応援をよこしてくれ!E-3通路に侵入者!」

 ジャックが走りながら無線に向かって叫んだ。だが、応答はなく、無線機はジージーとノイズ音を発するだけであった。

「クソっ、ジャミングか……手榴弾!」

 ジャックが戦闘員に指示を飛ばした。二人の戦闘員が手榴弾のピンを抜き、迫り来る霧の偽足へと投げた。

「閉鎖!」

 ジャックがアクリル板をぶち破って壁に設置された赤いボタンを押し、通路の緊急遮断装置を作動させた。ブザー音と共にぶ厚いシャッターが霧とあたしたちの間に降りて、通路を閉鎖した。一拍置いて、シャッターの向こうから大きな振動が響いてきた。手榴弾が爆発した様だ。

「しばらくは持つ筈だ。気密性の高い防爆シャッターだ。そうそう簡単には……」

 ジャックは喋るのを止めた。シャッターから振動音が聞こえ、それがだんだん大きくなっていく。その振動が最高潮に達した時、シャッターはひしゃげ、吹き飛ばされた。高速で飛んだシャッターの進行方向上にいた戦闘員が不運にも真っ二つになった。

 シャッターがあったその向こう砂煙の中から人影が現れた。先頭に立っているのは霧犬ヴェイパードッグと丸サングラスを掛けた功夫服の男だった。その後ろにいるのは口が裂けた男に溶接ゴーグルを掛けた女、最後尾には体高1 mほどの極小戦車マイクロ・タンクが陣取っていた。霧犬ヴェイパードッグに共振発勁の小白竜シャオパイロン、口裂けロージーとカメレオン・ジェシーのイカれコンビ、最後には戦車のタンク・マイク。どこから侵入してきたのか……名だたる傭兵のオンパレードだ。

 この襲撃はずっと前から計画されていたものだ。昨日の今日の話ではない。本気で『ウサギ穴』を落としに来ているのだろう。

真鍮飛蝗ブラス・ホッパー女王クイーンの元に行け!絵札フェイス・カードの連中を全員呼びだせ!」

 ジャックが叫んだ。

「わかった!」

「遅延戦術で抑え込む!やるぞ!」

 戦闘員たちが侵入者に対して武器をむけた。あたしは銃声を後にして、通路を全力疾走した。


 女王クイーンの部屋を目指して通路を走っていると、至る所から銃声と爆音、悲鳴と怒号が聞こえてきた。恐らく、『ウサギ穴』のあらゆる出入り口から敵が進行してきているのだ。『ウサギ穴』での通信が封じられている以上、連携して防衛することも難しいだろう。長くは持たないかもしれない。

 女王クイーンの部屋へ続く十字路を曲がると、侵入者の一団と鉢合わせになった。大体は多目的レールガンで武装した黒尽くめの重身体拡張者ヘビィ・サイボーグだった。つるりとした強化プラスチック製の顔面には、逆三角形の頂点を示すように配置された三つの白点、社章エンブレムが書かれていた。間違いなくシミュラクラ警備保障S.S.S.機動警備員ライオット・ガードの小隊だ。だが、その中に異物めいて一人だけ見た事のある犬顔が混じっていた。

犬面ドッグフェイス……!!」

「保護目標はこの先だ。行け、確保を優先しろ。ここは俺に任せろ」

 犬面ドッグフェイスがその犬のような鼻先で通路の右をさした。リーダー格らしき機動警備員ライオット・ガードが何かのハンドシグナルをし、小隊を率いて通路を右に曲がって去って行った。新人部屋の方だ。

 あたしは独り残された犬面ドッグフェイスを睨みつけた。犬面ドッグフェイスは左手に90 cmほどの黒い杖のようなものを持っており、その杖に体重をかけて立っていた。その四方八方から激しい戦いの音が聞こえる。本来なら一刻も早く女王クイーンの元に行くべきだが、コイツとは決着を付けなければならない。

「お前、あたしをつけたのか」

「臭いを追ってな。まあ、お前だけじゃないが」

 犬面ドッグフェイスは鼻先を人差し指で突いていった。

「どういうことだ」

「半年前、俺はある大企業の社長から依頼を受けた。行方不明の娘を探して欲しいという依頼だ。調査の結果、『ウサギ穴』の仕業だとわかった。だが『ウサギ穴』は市警も手が出せない強力な犯罪組織だ。誘拐された娘さんを助け出すことがそもそも難しいし、助け出したとしても報復は免れない。だから、俺の依頼主は傭兵をかき集めて強襲部隊ストライク・チームを結成し、『ウサギ穴』を潰すことにしたって訳だ。『ウサギ穴』の敵対組織にも声をかけた。シミュラクラ警備保障S.S.S.にホテル・ヴィ=シェ、人工頭脳学サイバネティクス・奇術師マジシャン・協会アソシエーション……まあ普通の人間ならこんなことはできないだろうが、お前たちは虎の尾を踏んじまったのさ」

 犬面ドッグフェイスは首をかしげ、両手を広げて肩をすくめてみせた。

 まさかあの少女の言っていたことが本当だったとは。女王クイーンも耄碌したものだ。手を出してはいけないヤツの区別もつかない程衰えていたらしい。今回の事が無くても、もう『ウサギ穴』は長くなかったかもしれない。

「とにかく、俺は外に出て仕事を行う『ウサギ穴』の外征メンバーを中心に調査を続けた。『ウサギ穴』の場所は地下にあるというウワサがあるぐらいで、謎に包まれていたからな……ここの特定に丸4ヶ月かかったよ」

「なぜ、この前あたしの目の前に姿を現した!?」

「お前がミスすることを期待してだ。お前は『ウサギ穴』の外征メンバーの中で最も若く、未熟だ。それがここ2ヶ月での観察の結論だ。最後に残された『溝』からの入り口を探すために揺さぶりを掛けたんだ。『溝』のどこかに『ウサギ穴』に続く入り口があることはわかっていたからな。お前に案内して貰った。最後の仕上げって訳だ」

「あたしが未熟だと」

 頭に血が上り、顔が真っ赤になるのがわかった。

「そうだ。挑発されたお前が感情的に動くことは分かっていた。焦って安直な行動を取ることも」

「殺されたいようだな」

 怒りのあまり歯を食いしばってしまう。ギリリと奥歯がこすれる音がした。

「いやいや、そんなことはないぞ」

 犬面ドッグフェイスはトレンチコートの内ポケットからタバコの箱を取り出し、箱の中から一本のタバコを取り出して咥えた。タバコの箱には戯画化された火を噴く蜥蜴の絵と、『真紅蜥蜴クリムゾン・サラマンダー』の文字が見て取れた。

「じゃあなんのつもりだ」

「うん?そうだなあ」

 犬面ドッグフェイスがタバコの先を人差し指でなぞると、タバコに火がついた。仕草さえもいけ好かない奴だ。時代錯誤のハード・ボイルド気取り。ヘドが出る。

「時間を稼ぐつもりだ」 

「なに――」

「目標の確保は成功した。俺の役割は終わった。じゃあな」

 犬面ドッグフェイスが咥えたタバコを落とすと、タバコから白い煙が大量に噴出した。

「ま、まて!」

 白い煙がそこら中に充満し、あたしの視界は完全に消失ホワイト・アウトした。あたしは足音を頼りに犬面ドッグフェイスを追おうとした。しかし、周りの戦闘音がうるさすぎた。白い煙が薄まった所まで出たときには、もう犬面ドッグフェイスの姿はどこにもなかった。

「あのクソ犬野郎!」

 ここまでコケにされて我慢できるほどあたしは慈悲深くはない。だがこれ以上は――いや、一つだけ犬面ドッグフェイスを再補足する方法がある。

 あたしは決心し、全力で走り始めた。


 旧下水道にあたし以外にもう一つの足音がするのがわかる。一度は見失ったが、今度は逃がしはしない。目の前のT字路の右の方から何かの光が漏れているのがわかる。あそこだ。

「追い付いたぞ!」

 あたしはカーキ色のトレンチコートを着た後ろ姿に声をかけた。

「ほう、これは意外だな。振り切ったと思ったんだが。どうやって俺の場所がわかった?」

 犬面ドッグフェイスは振り返っていった。トレンチコートの胸ポケットには小型のライトがあり、それで明かりを確保しているようだった。

「勘だよ。『ウサギ穴』からの出口は4つ。25%の当たりを引いたって訳だ」

「勘か……参ったな」

 犬面ドッグフェイスは自身の鼻口部マズルを撫でた。

「お前の方が俺より探偵に向いてるかもな……それはそうと、お前は女王クイーンを守らなくて良いのか?俺なんて追ってる場合か?」

「もう女王クイーンなんてどうでもいい!お前だけは許さない。あたしを散々コケにしやがって。殺してやる!」

 あたしは真鍮飛蝗ブラス・ホッパーを逆関節形態に変化させ、突撃した。犬面ドッグフェイスは右腰のホルスターから回転拳銃リボルバーを抜いた。そして、銃を握った右手を、杖を持ったままの左手に乗せるようにして構え、撃った。真鍮飛蝗ブラス・ホッパーに見合う様に生身の部分を強化し、光学神経系オプト・ニューロンに置換したあたしであれば、銃弾を見切るのは難しい事ではない。脚部を狙った2発の弾丸を跳躍して避け、そのまま飛び上がり、天井に踵杭ヒールパイルを打って張り付いた。

「どこまであたしを舐める気だ!」

 今の攻撃は殺す為のものではなく、明らかにこちらの拡張体サイバネを破壊する為のものだ。殺意のない攻撃だった。この後に及んであのクソ犬はあたしを対等の相手と思っていないらしい。

「俺には俺の流儀がある。それをとやかく言われる筋合いはない」

 犬面ドッグフェイスは銃をこちらに向けたまま言った。あたしは天井を蹴り、犬面ドッグフェイスへ向けて跳んだ。犬面ドッグフェイスの銃から3発の弾丸が発射された。その全てがこちらの脚を狙ったものだ。弾丸が装甲板に当たるよう脚の位置を調節すると、弾丸は跳弾し、どこかに飛んで行った。

 弾を撃ち尽くしたらしい犬面ドッグフェイスが杖を逆手に構えるのとほぼ同時に、こちらの蹴りの射程に犬面ドッグフェイスが入った。真鍮飛蝗ブラス・ホッパーを限界まで縮ませて、解き放つ。真鍮飛蝗ブラス・ホッパーの跳躍力に重力加速まで加えて打たれたこのドロップキックは、斜め45°から犬面ドッグフェイスの犬顔に着弾し、爆裂させる――はずだった。

 犬面ドッグフェイスはドロップキックの着弾インパクトの瞬間、防御するのではなく、逆手に持った杖を真鍮飛蝗ブラス・ホッパーに沿わせるように当てることで軌道を変えた。着弾点を変えられたあたしは慌てて身を捻り、地面に踵杭ヒールパイルを打って着地した。踵杭ヒールパイルがコンクリートを引き裂きながら運動エネルギーを消費し、3 mほど進んだところでやっとあたしは静止することができた。

「凄いな、猫みたいだ。そのまま自滅してくれれば良かったんだが」

 犬面ドッグフェイスは銃をホルスターに戻しながら、感心したようにいった。

「なんだ今のは」

「バリツだ。私立探偵の嗜みだよ。柔術と杖術を高度に融合させた護身術……俺の場合それに捕手術も足してるがね。この電撃杖スタン・スタッフと組み合わせれば、重身体拡張者ヘビィサイボーグの鎮圧も可能だ」

「くそっ」

 あたしは思わず悪態をついた。まさか、ここまでやり手だとは。ただの私立探偵じゃないのか?このやり口は市警の重機動隊にも似ている気がする。

「来ないのか?まあ、俺は急がないから良いがな」

 犬面ドッグフェイスはまるでフェンシングの様に、腰を落とし、杖を前方に突きだして構えた。

 この言動、もしや仲間に増援を頼んだのか?そうだとしたらマズイ。勝負を急がなければ。いや、さっき犬面ドッグフェイスの話術に引っかかったばかりではないか。やっぱり、ただのブラフ……なのか?疑念ばかりがあたしの胸に渦巻いた。

「うおおおおっ」

 あたしは叫びながら突進した。考えてもどうせわからない。わからないのならやって後悔する方が良い。

 犬面ドッグフェイスが蹴りの射程に入る。右足で前蹴りを放つ。致死的であるはずの右足の蹴りは容易く杖の先端で逸らされた。だが、その勢いを利用してあたしは回転した。右足を軸足にして、左足で後ろ蹴りを放つ。

「取った!」

 手ごたえアリだ。杖の防御が間に合わなかったらしく、右手で蹴りを受けている。踵杭ヒールパイル犬面ドッグフェイスの右腕を串刺しにし、その人工筋肉と骨格が弾け飛ぶのが見えた。

「喜ぶのが早いな」

 千切れ飛んだ犬面ドッグフェイスの右手が何かを握りつぶした。すると、右手からクリーム色の液体が勢いよく噴出した。

「うわっ!」

 その液体は発泡し、千切れ飛んだ犬面ドッグフェイスの右腕の残骸ごとあたしの左脚を巻き込むように広がり、固化した。いきなりの事にあたしはバランスを崩し、倒れてしまった。

「うっ……この」

 これは簡易発泡バリケードのようだ。この程度のもの、真鍮飛蝗ブラス・ホッパーの馬力ならすぐに脱出できる。そう思い、立ち上がろうとして上体を起こしたその時、犬面ドッグフェイスがあたしの胸先に杖を突きつけているのがわかった。

「じゃあな。おやすみ」

 犬面ドッグフェイスが杖を突きだすと、あたしの全身に痺れが走り、目の前が真っ暗になった。

 

「よお、婆さん。元気そうだな」

 対光線塗装アンチ・レーザー・コーティングの銀クロームに塗りなおしたばかりの愛車から降り、屋上駐車場を歩いていると、隣の居住区に1人で住むマーガレット老が向こうから歩いてきた。これからどこかに出かけるところらしい。

「あんたも機嫌良さそうだねぇ、犬面ドッグフェイス。さては、相当稼いだね?」

「まあな、これで方々へのツケも返せるってもんだ。しかも、次の仕事も決まってるんだ。やっと運が向いてきたぜ」

 今回の仕事は完璧だった。依頼通りに依頼主の娘を無事に連れ戻せたし、義体ボディに損傷こそ負ったが、修理代も経費で落ちた。さらに、事前に取り決めた依頼料だけでなく、ボーナスまで出たのだ。

「ああ、そうだ。そんなことよりもね。あんたの部屋の前に女の子が座ってたよ。しかも、ずぶ濡れでね」

「女の子?ずぶ濡れの?」

 さっきまで雨が降っていたのは確かだった。しかし、それは大気の清浄化の為の計画的な降雨だった。誰でも事前に雨が降ることを知れたはずだ。ずぶ濡れになるなんて、そんなことあるだろうか?

「あんたに限ってそんな事はないだろうけどさ。若い女の子に手を出して泣かしたってんなら、わたしゃ許さないからね」

 マーガレット老は拳を握り込み、殴りかかるようなジェスチャーをした。

「おいおい、待ってくれ。そんな事しないよ……まあ、急いで部屋に戻ってみるよ。依頼人かもしれないしな」

「なら良いんだけどね」

 マーガレット老はとりあえず納得したようで、自分の浮遊自動車ホバー・カーの元へと歩いて行った。

「……いやな予感がするな」

 良い事ばかり続かないのはいつもの通りだ。俺は先ほどとは打って変わって、重い気持ちのまま自分の居住区画に戻った。


 エレベーターを降り、いくつか角を曲がって俺の部屋がある廊下に差し掛かると、確かにマーガレット老の言う通り、部屋の前に雨に濡れた若い女性が座っているのがわかった。しかも、見知った顔だった。

「よくここがわかったな」

「……看板」

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパーは顔を伏せたまま消え入りそうな声でいった。

「ああ?ベランダに置いといたヤツか。良く気が付いたな。アレ見て来たのはお前が初めてかもな」

 開業した時に勢いのまま作った看板だったが、この高層集合住宅コナプトの外壁に設置することを管理者に許して貰えず、とりあえずベランダに置いておいたのだった。

「……」

「ふん、それで?俺に復讐しにきたって訳か?」

「何もかもなくなった。全部……」

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパーは涙声でいった。

「お前と同じように、俺は俺の仕事をしただけだ。呪うならお前の立場と不運を呪うんだな。こんなご時世だ。犯罪組織に属してたのが悪いなんて言わないさ。負け馬に乗ったのが悪いのさ」

 返事はなく、彼女がすすり泣く声だけが廊下に響いた。

『ウサギ穴』が壊滅した事で、彼女は寄る辺をなくし、完全に途方に暮れてしまったのだろう。仇であるはずの俺を訪ねる事しかできないほどに。皮肉にも、それが彼女に残された最後の縁だったのだ。

「ふーっ、しょうがない。来い」

 俺は自分の部屋のドアを開け、手招きをした。

「えっ?」

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパーは初めて顔を上げた。

「シャワーと乾いたタオルくらいは貸してやる。濡れたままだと風邪引くぞ?」

 しばらく、真鍮飛蝗ブラス・ホッパーは目を見開いたまま口をパクパクさせていたが、不意に彼女の腹からぐぅという音が聞こえて来て、また顔を伏せた。

「わかった。冷蔵庫に冷凍のブリトーがある。シャワーを浴びて、身体を温めたら食って良い。めそめそするのはもうやめて中に入れ」

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパーはなんとか立ち上がり、促されるままに部屋へと入った。

 真鍮飛蝗ブラス・ホッパーが立ち直ったら、さっそく次の仕事に取り掛かるとしよう。初恋の人を探して欲しいなんて甘酸っぱい依頼がまさか俺に舞い込んでくるとは思わなかったが、仕事は仕事だ。次も完璧に仕上げてやろう。

 そう思いながら、俺も真鍮飛蝗ブラス・ホッパーに続いて、自分の部屋に入った。

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