夢幻の月

鏡羽レイ

第1話

 暑苦しい夏の夜。ゴミが散乱していて、清潔感の欠片も無い台所。

 赤黒く染まった包丁が、俺を睨みつけるように床の上に落ちている。


 ——あぁ、また“あの日”の夢か。


 床に転がって、唸るように叫びながら悶え苦しんでいる父親に目をやる。

 その首には赤い大きな筋が入っていて、そこから粘着質の液体が噴水のように勢い良く噴き出していた。自分の右手に目をやると、あの日と寸分違わず、父親の返り血で真紅に濡れている。


 幾度となく見た、同じ夢。

 何度見ても、慣れることはない。



--------------- 夢幻の月/序 ---------------



 目を開けると、見慣れた部屋の壁が視界に入る。

 まだ夜が明けていないのか部屋は薄暗かったが、月明かりが差し込んでいるので闇と言えるほど真っ暗ではない。

 恭弥きょうやはベッドから身体を起こし、辺りを見渡す。

 が、目に入るのは普段通りの自分の部屋。血だるまになってのたうち回る父親も、右手を赤く染める生温かい液体も、忌々しい包丁も無い。

 それを確認できた瞬間、恭弥は身体の力が抜ける感覚を覚えた。知らぬ間に身体が強張っていたらしい。一度深呼吸をして、恐怖に染まった心を落ち着かせる。


(あの夢、久しぶりに見たな……)


 母親が死んで、父親を殺した日。

 幸せな日常を送っていても、あの日の記憶が薄れることはありそうにない。

 情けない話ではあるが、あれはかなりのトラウマになっている。今でも刃物を見るだけであの光景がフラッシュバックし、動悸や頭痛、吐き気が収まらなくなってしまうのだ。


「目が覚めたか、恭弥」

 不意に、背後から女性の可憐な声がした。

 恭弥が反射的に振り返ると、同居人である月夜つきよと目が合う。赤い和服と金色の長髪が、窓からの月明かりに照らされて幻想的に輝いている。

「御主が眠っておる間に、組織から指令が出されたのじゃ。目が覚めて直ぐで済まぬが、支度してくれ」

 いつも通りの古風な口調で、月夜は優しくそう告げる。

「……今回の仕事内容は?」

「脱獄犯の身柄の確保又は処分、という事らしいぞ。どうやら厄介な能力らしくての。戦闘班でも手こずって居るから加勢しに来い、とのことじゃ」

「……分かった、すぐ準備する」

 恭弥は溜息混じりに了承する。

 月夜はそんな恭弥を一瞥した後、相変わらずの優しい声色で「出来る限り急げ」とだけ言い残し、恭弥の部屋を出ていった。

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夢幻の月 鏡羽レイ @valkilliar

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