32.アイルランドより甘味を込めて

「あの……ホットカクテル……ってありますか?」

「ホットカクテルですか? ええ、ありますよ。何になさいますか?」


 マスターに聞かれ、もう一度スマホを見る。童子から来ていたオススメのカクテルを、メニューも見ないで口にした。


「アイリッシュ・コーヒー、ありますか?」


 そのオーダーに、マスタ―は「おおっ」と少しだけ目を見開いた。


「なかなか珍しいチョイスですね。アイリッシュ・コーヒー、お作りできますよ」


 そう言って、彼は小さいヤカンを沸かし始めた。今のうちに、童子に返信を送ろう。


『ホットカクテルなんてジャンルあるんだな』

『冬になればホットワインがあるだろ? カクテルも同じようなもんさ。ただ、どっちかっていうと、カクテルの方が度数強めで、体の中から温まろう、みたいな酒が多いけどな』

『元気にしてるか』

『ああ、元気だよ。少し眠いけどな』


 手を振るパンダを送ってきた。そのパンダの覇気の無さが、リビングに寝転んでいた童子を思い出して笑ってしまう。


「ふう……」


 酒棚やカウンター、テーブルから壁までダークブラウンで囲まれた店内を見回しながら、物思いに耽る。




 高浪への対応はあれで良かったのだろうか。表面しか伝わってない気がする。どういう意図で俺が仕事を任せているか、ちゃんと話さないとな。


 でも飲み会でご高説なんてタイプでもないし、アイツそういうの苦手そうだからな。今度2人でシステム会社と打合せあるし、その後に少し時間取ろう。




 そういえばもうすぐクリスマスか。澄果と行く店、仮予約のままだった。他に良いレストランあるかな。今日夜ちゃんと調べて、そこで判断しよう。


 プレゼントはコフレが良いって言ってたな。希望の事前に買ってもいいけど、なんかアレコレ迷ってたみたいだし、一緒にフロア回って選んだ方がいいかもな。ちょっと提案してみるか。




 あ、そうだ、学園祭実行委員会のOB会やるとか昨日連絡来てたぞ。俺達の学年、なんか幹事代の1つになってたけどどうするんだろう。動き出すなら早めに他の幹事代と協力して企画練らなきゃだよな……淳平に相談してみるか。




 ああ、これはいいな。やることが色々整理される。安い居酒屋に1人で行くときは、イヤホンから曲やラジオ流しながらサワー飲みつつ夕飯を口に運んでいた。それはそれで楽しいけど、こういう落ち着いた空間にいると、ゆっくり思考を回すことができる。



 何となく見ていたヤカンから湯気が出て、意識がカウンタ―に戻った。沸いたそのお湯でドリップコーヒーを作り、残りのお湯をグラスに注ぐ。どうやらグラスを温めているらしい。さっきのセルフうどんの店でも器でやってたな。


 お湯を捨て、ティースプーン1杯の砂糖をグラスに。そこにウィスキーとコーヒーを注いだ。最後に冷蔵庫から取り出してきたのは、なんとホイップクリーム。


「普通は液体っぽい生クリームを入れるんですけどね。遊びでデザート感覚にしてます」

 興味津々で見ていた俺に、マスターが笑って教えてくれた。


「お待たせしました、アイリッシュ・コーヒーです」


 グラスに触ってみると、淹れたてのコーヒーを混ざているからかとても熱い。取っ手の部分を持って顔に近づける。


 こげ茶色の液体の上に、可愛くホイップクリームが乗った、華やかな見た目。そこから漂ってくる香りは、ウィスキー独特のスモーキーさがない。


「どれどれ……熱っ!」


 コーヒーのコクに、温めたことでグッと飲みやすくなったウィスキーの味わいがマッチし、そこに砂糖の甘さが加わってさらに飲みやすくなっている。


 スプーンでホイップクリームを掬って食べると、砂糖とは違ったスイーツ的な甘み。なるほど、確かにデザートっぽい。


「温まるし、ウィスキー効きますね」

「ですよね。飲みやすいですし」


 温厚そうなマスターが柔らかく微笑む。彼の言うとおり、飲みやすくてグビッと口にしてしまったので、一気に酔いが回ったことが自分でもよく分かった。


「アイリッシュってことは、アイルランドのお酒なんですか?」

「そうなんです。ウィスキーもアイリッシュ・ウィスキーと呼ばれる、クセの少ない種類を使ってます」


 残っているドリップコーヒーを少し飲んで、マスターが続ける。


「昔は航続距離が短くて、大西洋を横断するときに給油のためにアイルランドの空港で給油することも多かったんです。極寒の中で、乗客はいったん降りないといけない。その待ち時間に飲んでもらおうってことで、空港のバーテンダーが考案したんです」

「へえ! そうなんですね!」


 料理もそうだけど、お酒もストーリーを知ると面白い。もう一口飲むと、寒さで震えながらこのカクテルを飲んでいるダウンジャケット姿の旅行客が頭に浮かんだ。



「結構前からやってるんですか?」


 お酒の勢いもあってか、マスターに話しかけてみた。普通の居酒屋じゃできないこと。


「この店は12年くらいですかね。いわゆる脱サラです」

「え、もともとサラリーマンだったんですか!」


 ビックリした。これだけのしっかりしたお店と知識、てっきり若い時からそっちの道でやっているのかと思った。


「まずは他の店で修行から始めたんですけど、まあなかなかうまくいかないもので……」


 それから彼はこれまでの経緯いきさつを話してくれた。もともとカクテルが好きだったこと、「脱サラするなら独身のうちだ」と30代前半で辞めて修行したこと、店舗の賃貸契約が一度白紙になったこと、新規の客に来てもらおうと奇抜なオリジナルカクテルに挑戦したこと。そのどれもが、波瀾万丈で興味深かった。


「今だから笑って話せますけど、あの頃は毎日大変でしたね」

「いやあ、でもちゃんと成功してるのがすごいですよ」


 そしてそれを聞きながら、自身が、そんなにドラマチックでもない自分自身が、何だか不安になる。

 果たして俺はこのままで良いだろうのか。もっと何かに挑戦しないとダメなのだろうか。


 何の気なしにスマホのロックを解除すると、童子とのチャット画面。今の想いを、そのまま書き殴って童子に送ってみる。


 別に答えがほしいわけじゃない。返す返さないも気まぐれなヤツだし、俺が酔ってることも分かるだろうから、とりあえず言葉に出してモヤモヤを発散させよう、という思いだった。


『そうやって決断できる人ってすごいよな』


 幾つかに分けた最後の文を送り終わると、すぐに溜息をつくパンダのスタンプが送られてくる。コイツ、このスタンプ気に入ってるな。


 そしてしばらくすると、長めの返信が届いた。


『まあ、結果だけ見ればそうだけどよ。決断して会社辞めたけど失敗したヤツだって山ほどいるだろ。別に決断することだけが成功の鍵じゃねーよ』


『色んな事情で、やりたいことを我慢して、あるいは諦めて別の形で働いている人もいっぱいいるはずだし、それでもちゃんと社会に貢献してるってのは十分すごいことだぜ』


『好きなことやったって不安もストレスも尽きないだろうし、向こうが会社員羨ましくなることだってあるはずだよ。お互い嫉妬しながらやってくんだ』


『んじゃ、酒呑童子先生のありがたーい話が終わったところで、僕は飲みに行くから。またな』


 パンダが乾杯しているスタンプで締めくくられる。


『おう、ありがとな。いってらっしゃい』


 お互いなれないものを妬みながら、それでもやっていく。そう出来ている自分を、ちゃんと認めてあげる。そうだな、またこうやって沈みかけたときは、またこうやって立ち上がろう。


「あの、お会計お願いします」


 退店して、温まった体を冷やさないよう急いで駅に向かう。帰ったら洗濯機回して、澄果と行く店を調べよう。



 いつも行くような店より値段は張ったけど、心地良い時間と空間だったなあ。

 1人酒、なんだかハマりそうだ。

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