第5章 新たな一歩

16杯目 1人酒 ~アイリッシュ・コーヒー~

31.悩んで、話して、あのお店へ

「高浪さん、ちょっといい?」

「はい?」


 覇気のない表情でデスクトップモニターを眺めていた高浪に声をかける。新卒1年目、ピカピカの新人男子だ。男女共に「さん」付けで呼ぶ社風は、呼び方に困らなくて良い。


「これね、データ一部間違ってるけど、ちゃんとチェックした?」

「いえ、チェックしてないです」


 即答に思わずガクッとなる。少し伸びた髪に、大きな目。割とかっこいいけど、なんというか全体的に覇気がない。


「ううん、このデータをもとに分析するわけだから、データはチェックしなきゃダメだよ」

「すみません、チェックのこと聞いてなかったので、春見さんがやるんだと思ってました」

「いや、うん……」


 彼との会話は、いつもここで噛み合わなくなる。


「もちろん俺もチェックするんだけどさ、その、自分の作るものだからさ。そこは自分でもちゃんと担保してほしいな」

「分かりました。チェックした方がいいってことですね」

「ああ、うん……」


 そのまま戻っていく高浪。顔は先輩の表情のまま、脳内の俺が頭を抱えていた。





「よお、どうした春見。難しい顔して」

「お、白根、久しぶりじゃん」


 トイレから戻る廊下を歩いていると、同期の白根しらね充成みつなりが肩を叩いてくる。今日は夕方から営業部門の集合研修らしく、支店からオフィスに来たとのこと。


「いや、まあね、新人は分からないなぁと思うわけさ」

「あー、それ系ね」


 そのまま自動販売機に行き、缶コーヒーを買う。暖房がついてるとはいえ、これだけ寒いとアイスコーヒーを買う気にはなれず、ホットの微糖クリームのボタンを押した。


「年末だねえ」

「いよいよって感じだ」



 束の間の休息、慌ただしさも他人事。


 12月も間もなく下旬、今年の仕事も実質あと7日。クリスマスや年末休みが近づきつつも仕事も追い込みで、みんなフワフワバタバタとしている。


「白根のところは新人入ったんだっけ?」

「いや、去年入ったよ。よく分からない部分も結構あるよなあ」

「だよな」


 こういう時、ストレートに話せる同期がいるのは助かる。


「うちに1人1年目の子がいるんだけどさ。自分の仕事に責任持つ、みたいなところがちょっとズレてる気がするんだよな。全体像を見てやってもらえれば、もっと良くなる気がするんだけど、意図的に見てないんじゃないかって」

「あ、それ何となく分かる。これはこういう目的があって、だからここをお願いしたいって伝えてるんだけど、別にそこまで知りたがってないっていうか」


 白根の話に大きく頷く。単純に個人の価値観が違うのかと思ったけど、世代的な差異もあるんだろうか。



 俺が若い時、何のためにやってるか分からない仕事をするのがとても嫌だった。

 

 だからこそ、後輩には全体を見せて、「ここをやることは、ひいてはマーケティング部のこの分析・この資料に繋がるんだよ」というところを教えることで、やる気になってもらいたかった。


 でも、そこは求められてないのかもしれない。敢えて視点を狭くすることで、深く考えないで済むし、余計な責任やプレッシャーを負う必要もない。



「俺や春見とは仕事に対する志向が違うのかもな」

「だな。つっても、『かくあるべし』って矯正する気はないけどさ」

「そうそう。押し付けられるのイヤだったもんな。自分がやる側にならないようにしようと思うよ」


 コーヒーの最後の一口をズスーッと吸って、ゴミ箱に入れる。向こうも同じタイミングで飲み終えた。


「今日は他の営業と飲むんだけど、またサシでやろうぜ」

「いいな、新年会とか」


 日程調整の連絡するわ、と言って走っていく白根。俺をふうっと息を吐き、腕を回しながらデスクに戻った。




***




「どうするかな……」


 会社を出るタイミングで、夕飯について軽く悩む。今日はなんだか飲みたい気分だ。


 以前なら適当な店に入って生ビールの晩酌セットでも頼んでいただろう。ただ、今はもう酒の味を知ってしまって、酒の楽しみ方を知ってしまって、今日は「美味しい酒」を飲みたい気分だ。


 何の気分だろう? ビール、日本酒、サワー、ハイボール……カクテル?


「あ、そうだ。やってみるか」


 場所が決まれば、あとは行くだけ。鞄を握って、早足でオフィスを出た。





「ちょっと緊張するな」


 セルフうどんで腹ごしらえをしてから、家の近くまで電車に乗る。


 大通りを外れた小路。幾つかのお店が集まった4階建てのビルの3階まで登り、重厚感のある木のドアを開ける。


 迎えてくれたのは、木製のカウンターと、世界中の酒が集まっているのではと思うほどの酒棚、そしてピアノとサックスの混じるローテンポなジャズ。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

「は、はい」


 以前、澄果と来たバー。今日はちゃんとした店で、一人酒デビュー。



「えっと……んん……ミモザで」

「かしこまりました」


 この前来たときと同様、50歳くらいのマスターが1人でお店を回している。しっかりワックスをつけたロマンスグレーの髪は、「ダンディー」という言葉を連想させた。


 チェーンの居酒屋なら夕飯も兼ねて1人で入ることはあっても、お酒がメインの店に入ったことはなかった。ややドキドキするものの、カウンターには俺より少し年上くらいのサラリーマンも1人で飲んでいて、緊張が和らぐ。



「お待たせしました、ミモザになります」


 オレンジ色のカクテルが目の前に置かれた。シャンパンとオレンジジュースを半々で割ったこのカクテルは、澄果が好きでよく飲んでいる。


「…………」


 乾杯をする相手がいないことを思い出し、静かに1人でグラスを掲げて飲み始めた。


 細長いグラスが、芳醇な香りを閉じ込める。オレンジの酸味とジャンパンの甘味が綺麗に混ざり、ゆっくり味わいたいと思ってもクックッと飲み進めてしまう。シャンパンも静かにプクプクと泡立っていて、何回口に含んでも楽しめるお酒。


 澄果から聞いた話だと、「この世で最も美味しくて贅沢なオレンジジュース」と言われているらしいけど、それも納得だ。



「次はどうするかな……」

 その道1000年のプロに聞いてみるか、とスマホを取り出す。



 童子が出ていってから4日が経った。もともと1人だったからか、「いなくなった」というより「元に戻った」という感じで、帰っても寝転んでいるヤツがいないリビングにもあっという間に慣れていく。


 連絡するのは2日ぶり。特に用事もないし、そもそも筆不精なので返ってくるのも半日かかったりする。あんまり返事は期待していなかった。



『バーに来てるんだけど、オススメのカクテル教えて』

『カクテルか』


 返信早っ! この前のテレビ番組の話送ったときはめちゃくちゃ遅かったのに! やっぱり酒の話には食い付きいいな。


『といっても、カクテルは幅が広いからな。何か好みとか希望言ってもらえないと、選択肢が広すぎる』



 ううん、好みや希望かあ、そうだよなあ。一度脱いだジャケットを着こみながら悩む。



 ……ん? 待てよ? ジャケット?



『童子、冷たいカクテル飲んだからちょっと冷えてきたんだけど、温まるドリンクないか?』


 するとしばらくして、寝転びながら「OK」と叫んでいるパンダのスタンプがポポンッと連投される。


『それなら、ホットカクテルがいいぞ』


 聞いたことのない酒の種類に、画面を見ながら首を傾げた。

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