28.ラベンダーの花言葉は

 冬の夜の暗がりのように長い沈黙が続き、テーブルは静寂そのもの。店内の底抜けに明るい洋楽が、居心地悪そうにここまで届く。


「次、どうする?」


 やっとのことで澄果に呼びかける。彼女も「あ、うん」と取り繕うようにメニューを開き、興味ありげに選びだした。


「ラベンダー酒にしようかな。なんかレモングラスよりハーブティーっぽい感じする」

「オッケー。俺も同じのにするかな」


 自分で選ぶテンションでもなくて、彼女に合わせた。注文して、メニューをしまって、また会話はブツリと途切れる。緊張しきった脳内で、自問自答が始まった。



 なんで結婚にここまで過敏になっているのか。簡単なことだ、自分が一番分かっている。


 自分はただ、怖いのだ。誰かと生活を共にすることで、今の自由な生活が、好きに散歩して、好きに仕事して、好きに飲んで、そういう生活が無くなることに怯えているのだ。


 別に澄果が束縛するとは思っていない。ちゃんと話せば飲み会だって友人と旅行に行くことだって問題ないだろう。


 でも、そう言い聞かせても、俺の中の俺が納得していない。だから多分、そういうことではないのだ。誰かがいるということで、大学1年から続けてきた、自分の生活のルールや行動のリズム、気分転換のペースが変わってしまうことが、漠然と不安なのだ。



 我ながら幼稚だと思う。同棲や結婚ってのはそういうもので、人生の先輩はみんな経験していて、こんな「自分のスタイルを変えたくない」なんて利己的な意見が通らないことくらい分かっている。でも、今の俺はそれを危惧している。


 ドラマや漫画で見てきたこと、色んな友達から愚痴のように聞いてきたことが真っ黒で巨大な気がかりになって、澄果と一緒に住んでいる幸せなイメージを塗り潰していく。


 まずは認めること。ちょっとダメな自分を、認めることだ。



「あ、来たよ、夕晴」

「お、あ、これ下げてもらおう」


 澄果の声で現実に引き戻され、慌てて食べ終わった皿を重ねる。正にハーブティーのような淡い紫色のお酒が、グラスに入って目の前に置かれた。鼻を近付けなくても分かる、華やかで爽やかな香り。これならティーカップも似合いそうだな。


「どれどれ……」

「どうよ」


 先に口をつけた澄果に感想を聞いてみると、軽く肩を上げてストンと落とした。


「ふわああ。冷たいけど、ホッとする感じ」

「お、いいねそれ。俺も」


 飲んですぐ、彼女の言った意味が分かった。アロマテラピーのように深い香りに包まれながら、ほのかな甘味を感じる。しっかり冷えてると思えないほどリラックスできる1杯。


「これすごいな。なんか落ち着く」

「うん、あっためて飲んだら最高かも」


 2人で顔を見合わせ、久しぶりに笑い合った。そんなに長い時間でもないはずなのに、なんだか随分こうしてなかった気がする。


 ラベンダー酒なんて初めて見たけどよくあるんだろうか。スマホを叩いてみると、幾つか自家製レシピのサイトが出てきた。ドライハーブのラベンダー90gに焼酎1升。レモングラスと違って氷砂糖は要らないらしい。


 そのままテーブルに置こうとしたものの、検索結果の下の方に花言葉のサイトが見えた。ちょっと気になってクリックしてみる。



【ラベンダーの花言葉(日本) 「沈黙」「私に答えてください」「期待」「不信感」「疑惑」】



 なんだか今の自分達にピッタリで、口元が緩んでしまった。不思議そうに首を傾げる澄果に、「何でもない」のニュアンスで小さく首を振る。


 確かに、沈黙は良くないよな。折角2人で来てるんだから、楽しまないと。1人で勝手に悩んでても——




 あれ?


 突然、ふとした疑問が頭をよぎった。



 



 今日のお店だって、借りたい映画だって、旅行の行き先だって、いつも2人で決めていた。結婚についてのアレコレを俺1人で背負う必要があるんだろうか。





 視界を塞いでいた霧が晴れたような、心にかかっていた季節外れの積乱雲が晴れたような、そんな感じ。俺達は本当に、ちょっとしたことで不安になって、ちょっとしたことで解消される。



 2人で相談すればいい。俺が彼女と向き合わなきゃいけないと決めつけていた。でも、実際は向き合うわけじゃない。同じ方向を向いて、歩いて行く。そのために、一緒に進んでいけるように、話をしよう。



 ラベンダー酒を飲み干した。彼女も同じタイミングでグラスを空にする。「沈黙」の時間は、もうおしまい。



「澄果さ」

「ん?」

「これからのこと、俺が色々決めて報告しなきゃと思ってたけど、やっぱり澄果と話しながら決めたいんだよな。協力してくれるか?」


 普段は猫っぽい彼女の目がくるっと丸くなる。そして口角をクッと上げて、両手をグッと握った。


「もちろん! 夕晴が1人で抱え込むことないから!」

「……ありがとな」


 澄果も俺も、体の緊張がほぐれて楽な姿勢になる。彼女はテーブルに肘をついて「なんか元通りだあ」と大きく息を吐いた。



「今の俺達、ラベンダー酒飲んでたときよりリラックスしてるよな」

「分かる! さっきはドライフラワーって感じだった」


 澄果の例えにブフッと吹き出して、それを見た澄果が笑う。ああ、やっぱり、澄果といるときはこうでなくちゃ。笑うのも悩むのも、一緒でいなくちゃ。


「ねえ夕晴、ラベンダー酒もう1杯飲まない? ホットできるか聞いてみようよ」

「いいね! あと料理も食べようぜ。もっかい肉? 肉いっとく?」

「肉いっちゃう? 牛ハラミのステーキいっちゃう?」


 飲んで、食べて、喋って、笑って。その後のデートを満喫した。






「ふう、美味しかった!」


 外に出て、ウールコートについたファーを口にモフモフと当てる澄果。


「私この店好き、また来よう。やっぱり食事デートは最高ですな」

「ですな」


 行きと同じように、手を繋いで歩き始める。さすがにこの時間になると大通りも空いているけど、2~3週間後の忘年会ピークの時期になれば、タクシーを捕まえることすら難しくなるのだろう。



「私、ラベンダー畑見に行きたい! フランスのプロヴァンス地方って、ラベンダーとワインが有名なんだよね」


 これまではドキリとしていた話題にも、動じずに返せる。


「それはハネムーンか?」

「……へへっ、それもありかもね」


 ぐいっと腕を絡める澄果。ファーが当たってくすぐったい。


「でもラベンダーなら北海道も捨てがたいな、俺は」

「あ、ごめん。春に友達と北海道行く」

「はああ! ずるいぞお前ばっかり!」

「まあまあ夕晴さん、お土産にジンギスカンキャラメル買ってきてあげるから」

「い・ら・な・い」



 胸のつかえが取れたから、もう大丈夫。冬の温泉の計画を立てながら、2人で眠らない大通りをゆっくりと歩いた。

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